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【文書版】✴️礼拝メッセージ「内なる優生思想のささやきに打ち勝つもの」新約聖書 マタイの福音書第4章1~11節

✅昨日2023年2月26日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️

✴️礼拝メッセージ「内なる優生思想のささやきに打ち勝つもの」
新約聖書 マタイの福音書第4章1~11節

1それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
2そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
3すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
4イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
5すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
6こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。
『神はあなたのために御使いたちに命じられる。
彼らはその両手にあなたをのせ、
あなたの足が石に打ち当たらないようにする』
と書いてあるから。」
7イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
8悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
9こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
10そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」
11すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。
 
主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
 
 フォトジャーナリストの安田 菜津紀さんが、先日、ご自身の過去の記事をツィッターでシェアしていらっしゃいました。「内なる”優生思想”に気づいたとき、私たちは何を選択するべきか」という2020年の記事なのですが、これは物凄く大事なことを書いていらっしゃいますので、少し長めの記事ですが、ご紹介したいと思います。
 
“内なる優生思想”に気づいたとき、私たちは何を選択するべきか ―相模原障害者施設殺傷事件、判決を前に
 
神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で19人を殺害し、殺人などの罪に問われた植松聖被告(30)の裁判員裁判が1月8日に始まりました。
 
(中略)
 
この事件が社会に投げかけたものは何か。脳性まひの障害を持ち、障害者と社会のかかわりについて研究を重ねてきた、東京大学先端科学技術センター准教授、熊谷晋一郎さんと考えます。
 
他者が発信しているメッセージを、どのくらい拾ってきたか
安田:まずこの事件を最初に報道で知った時、熊谷さん自身はどう受け止めたのでしょうか?
熊谷:報道で知った直後は、自分の感情を自覚できなかったのですが、そのあと数日間、体調不良が続いていました。身体が重いような感覚です。事件の3日後くらいでしょうか、急に自分の過去の経験がよみがえってくるような、そんな映像をふと思い出すことがあったんです。
安田:「フラッシュバック」のようなものでしょうか。
熊谷:そうですね、恐らく。幼少期にリハビリを受けているときの印象とか、大きな大人に対して無力な子どもだった頃の自分とか、そういった無力感みたいなものを象徴するような記憶が思い出されたんですよね。そのくらいのタイミングで、急に街が恐くなった、というのでしょうか。向かってくる人の波に恐怖心を感じる自分を自覚したのも、ちょうどその前後だったような気がします。これは体調不良や風邪ではなくて、私はかなりこの事件に触れて堪えているのだな、気持ちを折られてしまったのだな、と後から気付いた状況でしたね。
安田:事件後、実質的な恐怖を街の中で感じるようになってしまった、ということですよね。
熊谷:そうですね。ある意味では、他人や社会に対する信頼みたいなものが、壊されていくような経験というのでしょうか。
安田:事件を起こした植松被告は、津久井やまゆり園の職員として働いた経験がありましたよね。私は最初、そのことに衝撃を受けました。入居者の方と実際に触れ合っていたのに事件を起こしたのか、と。
熊谷:大切なのは、どのように出会っていたのかという文脈ですね。ただ障害を持った人と出会った、というより、どのように、どういうところでなのか。それによって大きく、障害を持つ人に対する価値観や態度というものが変わっていくと思います。私たちが研究している内容を踏まえると、障害を持つ人に対する差別心というものは、出会いによって緩和していくこともあれば、逆にある種の出会い方をすることによって、むしろ差別心が深まってしまうこともあるという、環境依存的であるということは少なくとも言えると思います。
 
(中略)
 
熊谷:生産性が高い人、能力が高い人には生きる価値がある、という考え方を「優生思想」ということがあります。私たちや私たちの先輩方がこの半世紀をかけて否定してきたのは、この優生思想です。能力があるかないかとか、生産性があるかないかという基準と、命に価値があるかどうかという基準は全く無関係であるということです。そういう意味でも、それを全部ひっくりかえすような犯行動機だったということですよね。それは決して認めるわけにいかないですよね。
 
(中略)
 
優生思想を声高に主張する人の中には、他ならぬその本人も優生思想の被害者であるという人が少なからずいるのではないか、そういう感覚は持っています。
もしかすると植松被告もそうだったかもしれませんが、多くの方々が、自分は“用ナシ”になってしまうのではないかという不安、不要とされてしまうのではないかという不安を少なからず共有している社会に、私たちは投げ込まれているのではないかな、と思うわけです。
その「不要とされるかもしれない」という恐怖心をどのように次の行動や考え方に転化していくか、ここに分岐点があると思うんです。
そこには二つ選択肢があると思います。一つは、私たちは皆、優生思想に苦しめられている、だからその優生思想が蔓延している社会そのものを変えていかなければならないという形、連帯するという方向です。ところが二つ目の選択肢は、あくまでも優生思想のゲームの上で勝負をしていこう、そして自分よりもより弱い立場に置かれていると本人が思っている人たちを、ある種排除することによって相対的な優位性を示していこう、というもの。自分は何かを成し遂げたのであるという風な、「有用性」を証明しようという方向です。
 
(中略)
 
熊谷:私も仕事をしている中で、どうしても競争的な場面というのがあります。お互いに能力を競い合わなくてはいけないような時にどうしても、協力するというだけではない、相手を押しのけていこうというような思いが、自分の中にもわき起こることがあります。
安田:自分自身の“内なる優生思想”みたいなものですよね。誰しもの心に、少なからずあるのかもしれませんね。
 
(後略)
 
ということで、いかがでしょうか?色々考えさせられる記事ですね。礼拝の後で、読みたい方は検索して記事の全文を読んでみてください。私たち人間には誰しも内側にですね、内なる優生思想の声があります。もっともっと、自分の力を発揮せよ。人々に自分自身を認めさせよ。時には他の人を押しのけてでも。自分が生きるためにはしょうがないじゃないか。こういった内なる声のささやき、というのは、自覚しているかどうかは別としまして、私たちはしょっちゅう聞いているのではないでしょうか。そのような声に負けない秘訣と言ったら安っぽい浅いものになってしまいますので、今日このマタイの福音書の第4章1~11節を、今まさに生きておられて私たちに語りかけられる神のことばとしてご一緒に聴きましたが、このみことばに導かれて、深く、しかも、恵みの深みに入らせていただきたいと思います。
 

 少しだけ文脈を確認してみますと、これは、マタイの第4章の一つ前、第3章では、イエス様の洗礼、ヨルダン川でイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになるというできごとがありました。聖霊が天から鳩のように降ってきて、これは、天から、これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ、という天の父なる神の御声がありました。これが、いわば、イエス様の、メシアとしての就任式とも言えるものでした。
  
 そして第4章のはじめに入りました。イエス様は、もともと以前から神のひとり子だったわけですが、ここで、御霊に導かれて、ということは、さっき鳩のように降って来た聖霊によって、ですからつまり、神様のご意志によって、荒野に導かれて、そして、試練、ここでは悪魔の誘惑に遭われたわけですね。誘惑、試練、とは、試み、とあるように、テストです。試されることです。ええっ!?イエス様は、神の子なのに、悪魔によって誘惑されてそれに勝つという、テストなんて受ける必要があったんですか?それは、ヘブル人への手紙第2章18節に、
 
新約聖書 へブル人への手紙第2章18節
イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。
 
 とあるように、先ほどのことばで言えば、内なる優生思想の誘惑に遭う者である私たちを助けるために、人間となられた神の子イエス様は、悪魔の誘惑に遭う、というのが、神様のご計画であったわけです。
 それも、神の力で、軽々とへのへのかっぱでやっつけてしまうとか、私たちに、サタンの声に勝つためにはこうやってやるんだよ、って楽々と模範演技をしてみせたのではなくて、非常に激しい戦いでした。40日40夜の断食という、人間の肉体にとって極限状態の苦しみの中で、戦われた、ということですね。その極限の空腹のときに、「試みる者」と言われていますが、これは悪魔サタンのことですね。彼がイエス様にささやきかけるわけです。ルカの福音書の方では2番目と3番目が入れ替わっているんですが、それは、必ずしも時系列で書いていなくて、福音書記者のそれぞれの意図があって、並べ方が異なるわけですが、マタイの方の順番で記すと、この順で3つのささやきがあるわけです。
 
①  あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。
②  エルサレムの神殿の屋根の端に連れて行き「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。」
③  私(悪魔)をひれ伏して拝むなら、世界の国々の権力と栄華をすべてあげよう。
 
 こういった順番ですね。これらに、イエス様はすべて聖書のみことばで対抗されて勝利されました。ですから、聖書のことばを毎日読んで、よく心に蓄えて、悪魔のささやきが来た時に、聖書のことばで対抗して打ち勝ちなさい、こうった説教は素晴らしいものですし、クリスチャン生活で大変大事なことだと思います。
そして、しばしばこの3つのささやきに対しては、こういった説明がなされることがあります。これらの誘惑を3つに分けるなら、こうなんだと。
 
①  あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。【パンだけでなくて金銭など物質主義の誘惑】
②  エルサレムの神殿の屋根の端に連れて行き「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。」(天使があなたを支えるでしょう、という)【神を試すことへの誘惑】
③  私(悪魔)をひれ伏して拝むなら、世界の国々の権力と栄華をすべてあげよう。【権力欲、支配欲への誘惑】
 
 なんだと。こういった説明は、整理されて頭に入りやすいかもしれませんし、全部正しい解釈だと思います。しかし、クリスチャン生活をですね、5年10年と続けて行きますとですね、これらにさえ、気をつけておけば良いというものではない。ということが、生活の実感として気付くわけですね。悪魔の誘惑というのは、神さまから、引き離そうとするものすべてですので、この3つさえ避けていればOKというものではない。むしろ、私は3つを避けれている、という自負心があると、他のことに対しては油断するわけですね。その自負心と油断の隙に、サタンは入り込みます。
 
 それではその隙を無くすために、どういう方向の理解をするといいのか?ここで3つ誘惑がありますけれども、悪魔サタンが、イエス様に言っていることは、結局は一つなんです。一つのことなんです。それは、
 
「自分の力を発揮し、自分の栄光を求めよ」
 
 それによって、メシアとしての活動をやりやすくせよ、ということですね。全部これに集約されます。
 
 一つ目の誘惑を見ますと、これらの石がパンになるように命じなさい。これは、イエス様は、すべてのものの造り主なる全能の神と等しいですから、やろうと思えば、できるわけですね。40日40夜の極限の空腹の中で、人間としての肉体をもっておられるわけですから、私たちと同じように肉体の弱さを覚えられているわけですね。他のところでも沢山奇跡を起こしておられるから、イエス様にとっては奇跡は簡単なはずです。ところが、それをなさらなかった。
 これは、悪魔としては、奇跡でもって、自分のお腹を満たすだけでは無くて、そういう奇跡をもって、人びとを飢えから、救う、そういうメシア・救い主としてデビューなさったらどうですか?きっと民衆もあなたの力に驚き、人気もうなぎのぼりですよ。栄光のメシアとして、皆があなたについて来ますよ。そういった誘惑です。しかしイエス様は、「人はパンのみにて生くるにあらず。神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と書いてある。―これは旧約聖書の申命記第8章3節ですが―とおっしゃって、悪魔を撃退されました。
 
 そして2つ目の誘惑、
 
5すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
6こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。
『神はあなたのために御使いたちに命じられる。
彼らはその両手にあなたをのせ、
あなたの足が石に打ち当たらないようにする』
と書いてあるから。」
 
 これは悪魔は旧約聖書の詩篇第91篇を引用して―悪魔も聖書を使うんですね。しかしこれは前後の文脈を無視して、本来の意味とは別の意味に曲げて聖書を引用しているわけですが―ここで言う神殿とはエルサレム神殿のことですが、当時、ユダヤ人の民間信仰がありまして、それは、メシア・救い主がおいでになる時には、このエルサレムの聖なる都のてっぺんから、華々しく飛び降りて、さっそうと登場なさるのだ、こういった話がまことしやかにささやかれていました。ヒーローの登場の仕方としてはぴったりですよね。「あなたは神の子なんだから、やっぱり地道に活動するより、そうやってハデなパフォーマンスをして、人の心をがっちりつかむのが一番ですよ。ほら、聖書にも、書いますよね。天使たちが支えてくれるって。あなたはメシアなんだから、神と天使の守りがあることは当然のことですよね。やってごらんなさい。それが一番の近道ですよ。何も地道に村々町々を回って活動するなんてコスパもタイパも悪いことしなくていいじゃないですか。それに民衆もあなたが華々しく登場することを望んでいますよ。」って言って、誘惑するわけです。新興宗教の教祖みたいなやり方ですよね。空中浮遊ができたとかなんとか言って人心を惹きつける。これも、自分の力を発揮して、栄光を求めなさい。それがあなたが人々を救うための近道ですよ。そういうふうに言うわけですね。これも、イエス様は、「あなたの神である主を試みてはならない」と書いてある、とおっしゃって、旧約聖書の申命記第6章16節のことばを用いて、みことばで撃退されました。
 
 3つ目の誘惑はこうです。
 
8悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
9こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
 
 これはこういうことですね。「いやいや、天の父なる神様を何も裏切らなくっていいんですよ、ちょっとだけ、一回だけ、私に頭下げるだけでいいから、一回頭下げるだけで、なんと!このローマ帝国内のすべての国々の支配権をあなたに差し上げます。そうしたら、あなたのメシアとしての活動、素晴らしく祝福されますよ。私は敵対しようとしているんじゃなくて、協力して差し上げようとしているんですよ。神の国の王として来られたんでしょ。じゃあ、あなたの素晴らしい力と仁徳で、これらの国々の民衆をぜひ幸せにしてください。そうしたら栄光のメシアとして、人びとから後世まで語り伝えられることでしょう」
 
 そうするとイエス様は(10節)、
 
「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」
 
 とおっしゃって、申命記第6章13節のみことばで撃退されるわけですね。
 
 そうやって、みごとに悪魔の誘惑にすべて勝利されるわけですが、悪魔の誘惑、いろいろかいろ言っていますけれど、結局は1個しか言っていません。要するに貫いている一本の線は、まとめるとこれだけなんです。
 
「自分の力で自分の栄光を求めよ!」
 
 3つに見えて、この1個だけです。悪魔の誘惑は。それで、今のことばに言い直すと、最初にご紹介した「内なる優生思想」ということと、かなり重なるんですね。
 
 なぜ安田菜津紀さんが、この2020年の記事をもう一回シェアされたかというと、やはり、最近色んなところで、優生思想が出てきているからですね。前にもお話しましたけれども、イェール大学の経済学者を名乗る人がしょっちゅうテレビなどのメディアに出ては、これからの社会保障をどうするか、という文脈の中で「高齢者集団自決・集団切腹」をせよ、などということを語る、そして、あろうことかそれを笑いながら聞いている人がいる。テレビの製作者側は、「政権批判などをしなければ、強めの主張をしてくれた方が番組は盛り上がるから、今後も彼を起用する」という内容のことを言っている。
 いったいテレビの放送倫理はどうなっているんだ、とも思いますけれども、ある意味でこういう報道がウケている、ということは、皆の中にある優生思想が表面化しているだけではないか、とも思います。
 
 私たちはですね、でもひとごとではなくて、私を含めて、人間であれば、全員がそういう内なる優生思想をもっているということですね。それは、人間が食べて行けなくなると死んでしまう、つまりパンがないと死んでしまう存在である以上、それはある意味で、ある程度避けられないところがあると思います。
 パンがないと生きられない、まぁ米、ごはんでもいいんですけれども、食べて行かなくちゃ生きていけない。だから、人は努力し、能力をつけ、働く力を獲得して、働き、金銭を得る。そして食べて行くわけですが、その日ぐらしということではなくて、たくわえることも必要です。病気をしたりケガをしたり、老いたりした時のために、たくわえておきたい。これは悪いことではないんですけれど、死への不安や恐れを忘れるために、自分のためにたくわえたいという欲求があるからこそ、人を押しのけてでも、誰かを切り捨ててでも、自分あるいはせいぜい自分の家族や、自分の限られた仲間だけ、豊かであればいい、という考えも生まれて来るのです。
 だから社会が不安定になり、社会不安が広まると、排外主義や、自国第一主義が流行りやすい、と言われています。社会が不安定になると、「私たち」という枠が狭くなるわけですね。それは心理学的にも言われていまして、有名な青シャツ黄シャツ実験というものがあります。これは、どういう実験かというと、今は倫理上そういう実験できんと思いますけれど、6歳から9歳の子供を、青いシャツと、黄色いシャツを着た2つのグループに分けて、テストの平均点を競わせたりしたそうなんですね。そうして数か月経つと、シャツの色以外になんの根拠もないのに、自分たちのグループの方がやることなすこと優れてる。あっちのグループは、やることなすこと、ぜんぜんダメだね。なんてやるわけですね。子供でも。私たちは優れていて、あっちは劣っている、と何の根拠もないのに思い込むんです。これを心理学的には「内集団バイアス、外集団バイアス」と言うそうですが、人間の脳に、すでに、自分たちは優れていて、その枠の外の人は劣っている、と考えて安心するという脳の癖が刻み込まれているんですね。
 ですから、社会が不安定になりますと、国レベルで言いますと、わが民族の優等性であるとか、わが国家の誇り、であるとか、そういう大きい主語の中に人々が自分を置いて、安心したがる、ということも起こりますし、でもそれというのは、その枠の外の人を見下し、劣等とみる、という考えと分かちがたく結びついているわけですね。かつてナチスドイツが、アーリア人種を(まぁ正確にはドイツ人はアーリア人種ではないそうなんですけど)優等とみて、ユダヤ人を劣等な民族とみなしたことも同じですね。
 
 何もそれは国のレベルだけでなくて、私たちの普段生きているレベルでもそうなんですけれど、私が数年前に、内なる優生思想に気付いたのは、こういう時でした。以前にもお話しましたが、数年前、自分がどうしても知りたい情報が語られている動画を見ていました。その時私は急いでいました。そこで、日本人の方が話して、それをある外国人の方が通訳するという、通訳付きの動画でした。急いでいた私はイライラしました。そして「もう日本人の言葉だけでえいき!もうこの通訳してる外国人、邪魔!」って思ったんですね。私はその瞬間、すぐ自分の中にこんな醜い差別意識が潜んでいたのか、と思って、愕然として、すぐに悔い改めの祈りをしました。
 
 ですから、人間には、不安であったり、恐れていたり、あせっていたり、そういう時には、私たち、という枠を、ぐっと狭めてしまってですね、自分たちの狭い枠内だけで安心したいという心理が働くわけですね。
 それで社会全体のパイが減ると、ある種の人々を劣等だとしたり、生産性が無いなどと言って排除したり、限られたパイを取り合うゲームからこぼれ落ちないように努力して行くという、きりがない栄光レースに、気付かずに、乗せられていることがあるんですね。(だからそうやって人間を切り捨てておいて、「いや、あなたがそうなっているのは努力が足りなかったからでしょ?自己責任」ってやったりもするわけですね。)
 
 ですから、私も思うんですけれども、私は自分が努力するの、好きなんですけれども、色んなことを学ぶのも好きなんですけれど、そういうことをする中にも、自分の力を上げよ、とか、自分がひとかどの人物となって、人々からほめられるように・称賛されるようになりなさい、つまり、自分の力で、自分の栄光を求めよ、というささやきを、常に聞いているんですね。自分の能力を高めて、それを神さまと人々に仕えるために使う、ではなくて、自分の力と、自分の栄光で、安心を確保しなさい。その誘惑に乗ってしまう時に、私の中の「内なる優生思想」が出て来るし、言葉には出さなくても、外国の方などを見下す思いなどが出て来るかもしれないわけです。
 
 それでみことばの方に戻りたいんですけれども、「自分の力で自分の栄光を求めよ」とイエス様に言った悪魔サタンなんですけど、3つの誘惑を通して、一貫してそれを言っているわけですけれども、それを言ったサタンの主張は、裏返すとこうなります。
 
「ほら、メシアとして、華々しくデビュー。そんな素晴らしい栄光の道がありますよ。だから十字架なんてメンドクサイこと、やらなくていいんじゃないですか?私だってあなたが苦しむのを見てらんないんですよ。もっと楽にやってくださいよ。あなたにとっても辛くて、キツくて、苦しい十字架なんてやんないでくださいよ。」つまり、
 
「十字架なんてやめちまえ」
 
 これがまさに、この自分の力で自分の栄光を求めよという一本の線の裏側。イエス様が、十字架と復活によって、全世界の人の罪からの救い主になるという、この永遠の昔からの神のご計画を、徹底的にじゃましようとしていたのが、これが悪魔サタンの働きでした。
 
 ですから、イエス様の一番弟子のペテロもある時、「下がれサタン。」と、ここと同じことばで叱られました。そして「あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」と言われてしまいました。これは、まさに、ペテロが思っていたのは、十字架を通らない栄光のメシアだったんですね。ローマ帝国をお追っ払ってくださって、ユダヤ独立王国を建ててくれる栄光のメシアだと思っていたので、人々に引き渡されて死ぬなんて、そんなことおっしゃらないでください、ってわきへお連れしていさめ始めたんですね。でもその主張はサタンと同じものでした。十字架を回避させることでした。
 
 ところで、イエス様が言われた、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」というのは、申命記第8章3節のみことばだと申し上げました。
 これは実は背景がありまして、モーセの率いるイスラエルの民が、エジプトから脱出して約束の地カナンに入る前に、荒野を40年間旅したことを語る場面なんです。ここで、イエス様の荒野の40日40夜というのは、イスラエルの荒野の40年をトレースしてマタイは書いているわけですが、荒野の旅の中で、神さまは、不思議な食物、マナを天から降らせて、イスラエルの民を養われました。これが、天からのパンなんです。
 
 ここに、実は今日の箇所は十字架ということばは全く出てこないんですけれども、まさにイエス様の十字架が表されているんです。イエス様は、私たちを養ってくださいます。それは必要な食物や仕事や金銭を与えて下さっているというのもあります。だからこそイエス様は、悪魔に対して「人にはパンは要りません。」とおっしゃっているのではない。「確かにパンも必要だ、それはよく知っている。だけれども、人はそれだけで生きているのではない。」そうだ、人はパンのみにて生くるにあらず、精神的なものも必要だ、心が大事だ、芸術も文化も、教養も、家族の愛や友情も、それから哲学も、宗教も必要だ、そんな浅いことをイエス様はここでおっしゃっているのではありません。神の口から出る一つ一つのことばで生きる。ここである牧師先生は、こういうことをおっしゃっています。
 
【イエス様は、格別な、いのちのパンを贈り与えて下さる。
けれど、近道をして、ここで手軽に、ではなくて、「あの丘の上で、あの十字架の木の上で。救い主のあの苦しみと死をもって】
 
 与えてくださっている、と言っているんです。イエス様は、ご自身のことを、わたしはいのちのパンである、とおっしゃいました。どうしてご自身のことをパンと呼んだんでしょうか?それは十字架の上で肉を裂かれてくださったからです。40年の荒野の旅になぞらえて、これから、十字架に向かうことによって、ご自身がいわば、天からのマナになってくださった。皆の食物となってくださった。
 それが一番よく分かるのは、何よりも聖餐式でしょう。イエス様の裂かれたみからだと、そして流された血潮をいただくのです。またここの礼拝でも近々再開を考えておりますけれども、その「聖餐」をアウグスティヌスは「見えるみことば」と呼びました。「わたしが十字架の上で裂かれることによって、あなたのきりがない栄光レースと、内なる優生思想という罪の重荷から解放したんだ。自分のために集めて安心するレースの奴隷から、わたしがあなたを買い取った。」そういう、主イエスのことばが、目に見えて、手に触れられる、そして味わうことのできるリアルさで迫ってくる。聖餐式のない礼拝でも、みことばの宣言によって、同じ主イエスのことばが、耳に迫ってくる。この罪のゆるしと永遠のいのちという、天からの贈り物、天からの日ごとのマナが、毎日みことばを読み、あるいは聞くことによって、霊的な私たちの日ごとの糧として、いただいているわけです。
本当に究極的に頼りになる神が、永遠の天の御国まで責任をもって皆さんを背負い続けてくださる神が、「愛するわが子よ」と皆さんに言ってくださっています。「わたしの愛があるから、それでよいではないか。愛されるために、栄光を求めて、有名になって、ひとかどの人物にならなくても良い。この世のパンを集めて、金銭を集めて、安心するよりも、わたしの懐の中で、安心して憩ってくれはしないか。」そういうイエス様は、父なる神と声を合わせて、あなたに招きの声を語りかけて下さっています。まさにその神の愛こそが、誘惑に打ち勝つ本当にただ一つのことです。
 そこでこそ、私たちは、悪魔が全く別の意味で使った神の言葉、詩篇第91篇の神への美しい信頼の歌が、全く別の響きをもって迫ってくるのです。中略しながら詩篇第91篇の11節12節と16節をお読みします。
 
旧約聖書 詩篇第91篇11~12節、16節
11主が あなたのために御使いたちに命じて
 あなたのすべての道で あなたを守られるからだ。
12彼らはその両手にあなたをのせ
 あなたの足が石に打ち当たらないようにする。
16わたしは 彼をとこしえのいのちで満ち足らせ
 わたしの救いを彼に見せる。」
 
 神は天使たち(御使い)に命じて、皆さんの人生を支えられます。そして、イエス様の十字架と復活によってとこしえのいのちで満ちたらせ、わたしの救いを見せると、約束してくださっています。
 レントに入りました。レントの40日間は、悔い改めの期節だと言いますけれども、反省してクヨクヨする期間ではないんです。神の愛のふところに帰る期間です(もちろん信仰者の生活は全生涯が「(神への「立ち帰り」ですから、一年中がその神の愛のふところに立ち帰る期間ですけれども)。ですからどうか、闇の声は大声でメディア等でも語られますけれども、どうかそのような声に惑わされずに、また内なる優生思想にも惑わされずに、闇の声ではなく、光の声に、どうか耳を澄ませてください。神のかたちに造られた人間を大切にすることばである、神のことばを全身によく行きわたらせて、光の声を、人々に届けさせていただこうではありませんか。
 
お祈りをいたします。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様は主イエスを私たちに贈り物としてくださいました。あの極限の苦しみの中でささやかれた悪魔のささやきに、すべてみことばで勝利されました。悪魔のささやきは、常に私たちの内側にあります。人間が、パンを食べないと生きて行かれない存在であるから、自分のためにたくわえよ、外の者は切り捨ててでも、そういう誘惑に世界中の人が載せられています。だからこそ、私たちには、光の声を聞かせてください。そのような、自分の生活や自分の身だけを守ることから自由にしてくださって、自由に、保身に走ることなく、人々と霊的な糧も、肉体の糧も、分かち合って、輪を広げて、連帯していく生き方をさせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

#マタイ4章
#荒野の誘惑

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