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✴️【文書版】礼拝メッセージ『インマヌエル~あなたはひとりじゃない~』

先日2022年12月18日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✴️礼拝メッセージ『インマヌエル~あなたはひとりじゃない~』
 
聖書 マタイの福音書第1章18〜25節
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
19夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
20彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
21マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
22このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
23 「見よ、処女が身ごもっている。
そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
24ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、
25子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。
 
 主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
 この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
 先日、30年以上ホームレス支援を続けて来られた奥田知志牧師が理事長を務めていらっしゃいますNPO法人抱樸の、きぼうのまちプロジェクトというのをご紹介いたしました。暴力団の本部事務所の跡地に、いっしょに支え合うまちを作るプロジェクトなんですね。
 1階には仕切りのない大ホールを作り、子供食堂などのための自由に使えるみんなのキッチン、それから家具のリサイクルセンター(雇用も生まれます)、図書館というと堅苦しいので、買ったり売ったり借りたりできるブックシェル、コワーキングスペースなどを作るそうです。それから、どうしても施設になると手帳がないと入れない、などがありますが、何にも対象者を限定しない救護室を2階に作ったり、これまた対象者を限定せず行き場のなくなった方が泊まれるシェルターを作るなど、「わたしがいる、あなたがいる、なんとかなる」そして、「誰一人取り残さない」というコンセプトなんです。
 奥田知志牧師は、ホームレス問題またそれに付随するさまざまな問題に取り組んでこられた経験から、ハウスレス問題だけを解決しても不十分なんだ。この人の「つながり」というものを回復する必要があるんだ、ということで、「孤立する人がいないまち」また「誰もが助けてと言えるまち」そしてまた「助けられた人が助ける人になれるまち」というのを掲げていらっしゃるわけですね。
 
 わたくしが奥田知志牧師の活動を知ったのは、3、4年位前の、日本FEBCの放送だったんですね。FEBCも約70年日本で放送しておられる老舗のキリスト教ラジオ放送ですね。その中で出演しておられた時には、ホームレスになった方々の葬り・葬儀というのをテーマに話していらっしゃいました。奥田牧師らの支援によってアパートに入ったホームレスの方々が口を揃えておっしゃるのは「俺のみとりは誰がしてくれるやろうか」ということなんですね。そのこともあり、奥田牧師は、もう何百人?多分何千人?も、ホームレスになった方々の葬儀をしてこられた。
 
 時には夏の暑い日に亡くなってから2、3ヶ月経ってやっと発見された方の葬儀もなさる。名前も、人となりも分からない方の葬儀もなさる。そういう時に葬儀では、故人の略歴なんて知らないから話せないわけです。そこでただ、インマヌエル、神ともにおられるという意味ですけれども、このインマヌエルなるイエス・キリストが、この方とも共にいてくださる、という、その一心で語られるのだそうです。
「共にいてくださる」というのは、言い換えれば、見捨てない、ということです。あなたを見捨てないよって、そういう奥田牧師のこころが伝わってくるような放送だったんです。
 
 今日は、そのインマヌエル、っていうことがテーマなんです。先ほども招詞、礼拝のはじめの神からの招きのことばでお読みいたしました、旧約聖書イザヤ書の第7章14節には、
 
旧約聖書 イザヤ書第7章14節
14それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
 
 とありますが、これはメシア預言の中でも、インマヌエル預言、と呼ばれているところなんですね。それに対する色んな議論を割愛して言いますと、処女マリアから救い主が生まれますよ、っていう預言なんですね。
 この預言について、たまに疑問に思われる方がいらっしゃるんですね。「その名をインマヌエルと名付ける」ええっ、イエス様のお名前はインマヌエルじゃないじゃないか。イエスっていう名前じゃないか。預言はずれてるんじゃないですか?まあそんなふうにです。
 でもこのインマヌエルっていうことばは、当時のユダヤのことばで「神は私達と共に」という意味なんです。ユダヤのことばでは、インマーがwith、ヌーがusエルがGod。ですから神が共におられるという意味。
 イエス様のご生涯は、そのご生涯を貫いて、神が共におられるということを、最も鮮やかに体現された方です。他にも、ユダヤのベツレヘムという町で救い主メシアはお生まれになるとか、ダビデ王の子孫としてお生まれになるとか、そういうメシア預言というものが、旧約聖書に350以上ありますが、それを全部ドンピシャでぴったりの方が、救い主としてお生まれになった、というのがこの世界ではじめのクリスマスなんですね。でこの350以上の預言が全部がドンピシャで当てはまっているというのは、ある学者によれば10兆人にひとも言われますけれども、昔から約束されていた救い主を必ず送るという約束を実現させることをもって神さまは、私達を愛してくださった。
 さて、今日は、イエス・キリストのお誕生の話といっても、どちらかっていうと陰の薄い人の話です。よくスポットライトが当たるのが、マリアさんの話ですね。皆さんもインターネットで「受胎告知」などと入れて西洋の絵画を検索しますと、イエス様のお母さまマリアさんばっかり出て来ます。天使ガブリエルが現れて、あなたは身ごもって男の子を生みます、その子をイエスとつけなさい、と言われるシーンを、画家たちは好んで描きました。そこでその夫となる大工のヨセフさんは、陰が薄いですね。でも、
 数少ない絵画の一つを映してみましょう。
 
【画像2枚目】
 
 このヨセフさんは、確かに陰が薄い人物にみえますけれど(新約聖書の中にセリフが一つもないんですね)、本当に善良な、こんないい人はいないかもしれない位のいい人だったんです。この人の苦悩と葛藤、そしてそこに射し込んでくる神様の光を、私たちは一緒に味わって行きたいと思うんです。
 さてもう一度聖書のみことばを聞いてみましょう。マタイ第1章18節19節です。
 
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
19夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
 
 マリアとヨセフは婚約期間中でした。当時のユダヤでは、婚約中というのは法的には結婚しているのと同じなんですけれども、夫婦の関係を持つことはできなかったんです。
 そこに、晴天の霹靂というか、聖霊によって身ごもったことが分かった。ヨセフさんの預かり知らぬところで妊娠していることが分かった。これはヨセフにとって苦悩だったでしょう。葛藤だったでしょう。マリアは僕を裏切った、と思ったかもしれません。はらわたは煮えくり返ったかもしれません。
 しかし、ヨセフは、正しい人であった、と聖書は記します。この正しい人、ということばは、ふた通りの取り方があります。一つ目の取り方は、がちがちの、決まり規則にぴしっとした、厳格な、いわゆる律法を守るという意味で、「正しい人」という意味です。しかし、ここではそういう意味ではありません。
 ヨセフさんはそういうガチガチ屋の正しさを持つ人ではありませんでした。もしガチガチ屋だったら、当時の法では、姦淫の罪、姦通罪、不貞の罪というのは、今とは比べ物にならない位厳しくて、当時は町の門のところの広場で裁判が行なわれましたが、そういう女性は裁判の場に引きずり出して来て、石打の刑にして殺すというのが、この当時の律法(モーセの十戒からはじまる律法という法)によればそういう扱いにする定めでした。(これが、さらし者にするということです)
 しかしヨセフの正しさとは、そういう厳格なものではなくて、愛のある、優しい、配慮のある行動でした。
 ヨセフはひそかに離縁しようとした、と書いてあるでしょう。法的には結婚と同様ですから、離縁という手続きを取る方法があるわけですね。こうしますとどうなるかと言いますと、隣近所からこう言われるだけで済むんです。「あの大工のヨセフという男は、なんてひどい奴だ。まだ婚約中のマリアにこっそり手を出して妊娠させてしまって、おまけに気が変わるとポイと捨てるのか。」こういうふうに自分が非難を受けるだけで、マリアの命は助かります。ですからヨセフは、大工さんだったと言いますから、想像しますに、職人かたぎだったんでしょう。黙々と仕事をする、多くを語る人ではなかったけれども、誰にも言わずに、沈黙のうちに、孤独のうちに、人知れず、苦悩と葛藤をしながら、そうやってマリアのいのちを守る道を選ぼうとした、ヨセフはそういう愛と配慮に満ちた、神の前に正しく歩もうと努力する、そういう「正しさ」を持つ人でありました。そういう正しさをもって彼女を去らせようとした。離縁しようとした。
 しかしそこに!神様が介入されました。20〜21節!
 
20彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
21マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
 
 と。主の使いというのは天使のことです。天使というのは、神様のご意志を、割り引く事も付け足すこともしないで、そのまま100%伝える、神様のお使いです。ですから天使のことばは、神のことばと同じだと考えていいんです。その天使が「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」と言われる。
 この神のことばを聞いて、ヨセフは方向転換しました。ヨセフにとってマリアを受け入れることは、その子である救い主イエスを受け入れることでありました。マリアと、やがて生まれてくるその子イエスを迎え、そして一緒に暮らす。
 じつはここに、分かりにくいですけれども、ヨセフの罪も隠れています。ええっ、こんな善良なヨセフさんにも罪があったんですか?あるんです。その罪のところに、神様の光が射し込んだ。
 その罪とは、マリアの言うことを信じなかった、ということに表面化しています。直接マリアから聞いたのか、マリアの家の者から聞いたのか分かりませんが、他の男性と関係したからではなくて、聖霊によってみごもった、というのを信じなかったんです。神様が救い主メシア・キリストをこの家族に誕生させる、という神の御計画を信じなかったんです。イザヤの預言は知っていましたが、他人事だと思っていたんです。
 ええ?それが罪ですか?じつは聖書の言う罪というのは日本語の罪とは違いまして、これが一番分かりにくいところなんですが、聖書が言う罪とは、手が後ろに回る、というようなことではなくて、もちろん悪事というのも含みますし、嘘をついたとか、心の中の悪い思い、ねたみや憎しみ、なども含みますが、本質的には、まあ的を外す、ギリシャ語のハマルティア、ということで造り主なる神さまから的外れな生き方をしている、という説明もよくしますが、もっと言えばヘブル語のペシャーなんですね。ペシャーとは、関係が破れている、ということ。神様との関係が破れていて、神様に背を向けて歩んでいる、ということで、どんなに善良であっても聖書はそれを罪と呼ぶんです。ですから神様を信頼しない、あるいは全能の神さま抜きで何かを(それがたとえ善きことであっても)なそうとする、ということをも罪と呼ぶんですね。
 ヨセフに「恐れないで」と天使は声をかけました。この「恐れ」の根っこに罪があるんです。神様はどっか信頼できないと、あるいは神さまは何にもしてくれないと内心思っていて、自分の配慮によって、自分のできる範囲の「丸くおさめようとする計画」によって、まぁ日本人の気質に似ているかもしれませんね。できるだけ波風をたてないようにする努力によって、人生を、そして周りをコントロールしようとした。でもこれでは神不在です。そして、精一杯の配慮と努力をしたけれども、仕方が無かったんだ、ということで、結果的にはマリアを捨てることになる決断をしてしまった。そして、生まれて来る赤ちゃんのイエス様をも捨てることになる決断をしてしまったわけです(神を捨てる)。
 でも、そういうところにこそ、神は飛び込んで来られるのです。
 森有正というクリスチャンがこういう内容のことを言っています。人間の心の一つの隅と書いて一隅と読むのですけれども、こんな内容です。
 
【人間というものは、どうしてもひとに知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできない心の一隅というものがある。そこでしか神にお目にかかる場所は人間にはない。(人間が誰はばからず喋ることの出来る観念や思想や道徳や、そういうところで人間は誰も神さまに会うことができない)ひとにも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている。そこでしか人間は神さまに会うことができない。】
 
 これは私たちの心を揺さぶる言葉だと思います。
 
 私たちの心の一隅には何があるでしょうか?その心の一隅に、このキャンドルのように暖かい光が照らします。その心の一隅に、あるいは心無い人々の投げたことばによって傷付いた心があるかもしれない。子供の頃の体験による心の傷があるかもしれない。
 そこで心がうずいて、心にシワが寄ってしまう。そして誰にも言えないで苦悩している。葛藤している。そのあなたの私の心の一隅に、今日、神様が天使のことばを通して語りかけておられます。
 「恐れずに、マリアを迎えなさい」、つまり、その子主イエスをあなたの心の一隅に迎えなさい。」と。
 この主イエスという光が、私達の心に射し込む時に、私達の心のシワは伸びて、のびのびとした晴れやかな心が造られます。
 イエス様は2,000年前に赤ちゃんとして、何のためにお生まれくださったでしょうか?イエス様は30数年の生涯を送られ、そしてその最後は十字架でした。旧約聖書に何百年も前から、救い主メシア・キリストは、人々の罪のために十字架におかかりになって死ぬと、あらかじめ預言されておりました。実に私達のために、死ぬためにお生まれになったんです。
 私達が神様との関係が破れている、という罪のために、本当は私達が罰を受けなければならなかった、いやすでに苦悩と葛藤をするという罰を受けていた。しかしイエス様が十字架におかかりになったのは、全世界の人の罪の罰を身代わりに受けて赦すためでした。いや、私の罪、あなたの罪を赦すためでした。そしてこの方に信頼する者に永遠のいのちを与えるためでした。
 罪には、神様の怒りが、本来は下されるんです。神様は聖なるお方ですから、罪に対しては裁かなければならない方です。だから本来は私達が地上の生涯を終えた時に、全能の神の前に立ち、さばきを受けなければならなかったのが、この主イエスの罪のゆるしを受け取る者は誰でも、神のみ前に立つ時にも、罪無しとされて永遠の天の御国に入るのです。
 主イエスは、「あなたのことを十字架でいのちを捨てるほどに愛しているよ!」と言われます。
 ここに愛があるんです。そういういのちがけの愛であなたは愛されています。そしてこの方はあなたに「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言っておられます。ここで私達の心の一隅にある苦悩や葛藤がほだされて、暖かい光で心のシワが伸ばされて、心の絡まった糸がほどけて生きる歩みが私たちの前に開かれています。
 マリアの夫ヨセフは先行きが不安でした。恐れがありました。それは自分の計画や配慮だけで何とかしようと思っていたからです。そこに神のことばが響き渡る!インマヌエル!神共におられる。とにもかくに神はあなたと共にいるのだ!主イエスがあなたと共におられるのだ。
私たちの歩みは不安定であったり、ますます先行き不安な情勢になってきているとは思います。
私たちはこれからどのような歩みをするかは人それぞれ異なりますが、やはりそれでも日々何かを選択して歩んでいかれると思います。それから人生には上り坂と下り坂とまさかの坂があるとよく言われるんですが、ヨセフはまさにまさか!?の坂だったわけですね。そのように、思いがけないことで急な選択を迫られることもあると思います。そんな時に、自分の選択に、自分の判断に、自分の両肩にすべてがかかっていると思うと、それは大きなプレッシャーになります。それは恐れや不安が大きいです。しかしあなたのために命をも捨てるほどに愛されたお方が、いつもあなたと共におられる!決してあなたを離れずあなたを捨てない。あなたの味方をしておられるのです!
そうするとヨセフに起こった、一見人生の危機のように悪いように見えることが起こっても、ああ、でもそこで神様何か善きことをしてくださるはずだ、悪いように見えることも善に変えてくださるはずだ、と、神様に信頼するようになります。そのような形で神が共にある人生は平安をもたらします。
 キリスト者(クリスチャン)にもキリスト者でない人にも、同じように、苦難や試練はやってきます。同じように病気になったり、同じように経済的な危機に直面することもあります。同じようにウィルスに感染する可能性はあるわけですが、でもどんな時にも、私達の人生をひとときもほったらかしにすることなく責任を負っておられて、世の終わりまで愛をもって共にいてくださる方と歩む人生は、やはり幸いだと思います。
 この神は世の終わりまであなたと共におられると言われました。実はこのマタイの書いたマタイの福音書という書物は、インマヌエルパッケージの書物だと言われています。どういうことかと言いますと、マタイの福音書は第1章でインマヌエル、神共におられる、という方がお生まれになるこのクリスマスのシーンから始まって、この書物の一番最後、第28章の終わりは、復活されたイエス様のこの言葉で結ばれているんです。(マタイ第28章20節後半)
 
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
 
 このように、主イエスが今日皆さんに宣言しておられます。インマヌエル!神は私達と共におられる。
 クリスマスにお生まれになったこの方主イエス・キリストを、心の一隅に受け入れて、そして神共にあるという歩みを、私たちはしていこうではありませんか。
 
お祈りいたします。
主イエス・キリストをクリスマスの日に、この地上に人間の赤ちゃんとしてお送りくださった父なる御神、
あなたは約束に忠実な方で、旧約聖書の預言どおりに救い主をこの地上に送って下さいました。しかも私達人間を、こよなく愛して、私達を罪から救うためにです。ヨセフのように、悩みや葛藤という心の一隅に、心の中心にあなた様という暖かい光をお迎えいたします。
この先どのような困難が襲ってきても、恐れないで、世の終わりまで共にいてくださる主イエスを信頼するところから来る心の平安を、おひとりひとりにお与えくださいまして、主のご降誕とご再臨をお迎えするこころで、この時期を歩んでいけますように、お一人一人を祝福して遣わしてください。
 主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
 
#クリスマスメッセージ  #インマヌエル

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