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【文書版】✴️礼拝メッセージ「取税人ザアカイ〜失われた者を捜して〜」🌠統一協会のやり口のカラクリも途中から少し話します。

✅昨日2022年10月30日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✴️礼拝メッセージ「取税人ザアカイ〜失われた者を捜して〜」🌠統一協会のやり口のカラクリも途中から少し話します。

新約聖書 ルカの福音書第19章1~10節(新改訳2017)
1それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。
2するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
3彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
4それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
5イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
6ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
7人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
8しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
9イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
10人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
 
 今日は取税人、税金取りのザアカイさんの話ですが、ザアカイさんの住んでいたところは、エリコという町です。このエリコという町は、今でも一年中ブーゲンビリアの花が咲き乱れる砂漠のオアシスの町ですが、世界で一番低い町だそうで、標高がマイナス250m、低い町ですねぇ。世界最古の町とも言われ、発掘調査の結果、なんと紀元前8,000年頃の集落跡が見つかっています。
 
 イエス様時代、2000年前、紀元30年頃にも、なつめやしなどの産地で、商業の町として栄えていたそうですね。そこに、あくどい税金取りのかしらでお金持ち、ザアカイという男がいた。
 この取税人というのは、ユダヤの国では、やくざではないんですけれども、はみ出し者の嫌われ者でした。ローマの手先になって属国のユダヤの民から税金を取り立てるわけですから、「売国奴」と呼ばれ、ユダヤ人であるにもかかわらず、同胞のユダヤ人たちから、毛虫のように、ゲジゲジのように嫌われていたんですね。でも、彼にはローマの帝国の権力がバックにありますから、面と向かっては誰もザアカイさんに逆らえない訳ですね。
 
 このザアカイさんは、取税人の中でもかしら、上り詰めたわけですから、もういい年のおじさんだったと思います。それなのに、イエス様を一目見ようと、いちじく桑の木に登る。こういうユーモラスな記述がしてあるところもあって、ザアカイさんの話というのは、教会学校の紙芝居などにもよく描かれるし、とっても印象に残りやすい、一度聞いたら忘れられない親しみやすい話の一つであろうかと思います。
 
 ちなみにわざわざ背が低いと書いてあるんですね。多分、新約聖書の中で、体の特徴が書いてある人物はザアカイさんだけくらいじゃないかな、と思うんですけれども、福音書記者のルカさんは、どうしてわざわざザアカイさんの背のことまで書いたのかな、と言ったら、じつは、聖書の時代、―現代の私たちだったらバカバカしく思うかも知れませんけれども―身長が高いことも、神の祝福だと、当時考えられていたんですね。だから、ルカが書いたニュアンスには、神の祝福が薄いと思われていた人物なんだよ、ということを、読者に対して言わんとしている、ということなんですね。
 
 で、体の特徴というのはですね、たやすくいじめの対象になりやすいですね。背が高くても、低くても、太っていても、痩せていても、どんな特徴でもからかわれることは子供たちの世界ではありがちなことですね。
 当時はシナゴーグというユダヤ人の会堂で、旧約聖書やユダヤ教の律法を教える寺子屋みたいな学校をしていましたから、―ここからは想像ですが―ザアカイも「やーいチビのザアカイ」と言っていじめられていたんじゃないかと思うんですね。「お前は神さまの祝福が少ないんだぞ」って。だからザアカイくんは、泣きながら家に帰って、友達もいなくて、さみしくて、みじめで、劣等感のかたまりで、そんな少年時代を過ごしたことでしょう。
 いつか、見返してやるんだ!俺はビッグになってやるんだ。くやしさをバネに、オレをバカにしたやつらに、どうにかして偉くなって復讐してやれないか、と思いながら大人になった。そうしますと、ある日、ローマから税金取りの仕事の募集がかけられる。しめた、、、。これだ、、、。これならぴったりだ。
 ザアカイさんは能力もあり、頭もよかったんでしょう。どんどん頭角を表し、ついには取税人のかしらにまで上り詰めます。取税人仲間たちのボスです。マネジメント能力もあったのかもしれない。「おかしら」と呼ばれる、仲間うちからも恐れられる存在になっていたのかもしれません。
 
 民衆だってザアカイさんにはペコペコします。だって、もめごとになったら、ローマの軍隊がバックにあるので、兵隊たちが聞きつけてやってきたらエライことになるからです。誰も表立ってはザアカイさんに逆らえません。
 
 ザアカイさんは、広―い家に住んで、毎日ごちそうを食べて、お金は腐るほどあるので、欲しいものは何だって買えます。町を歩けばみんながペコペコして、、、でも、心はちっとも満たされません。それは、お金と権力があるから、誰も逆らわないだけだって、心のどこかで知っているからです。召使いはいっぱい雇ってけれど、本当に心をゆるせる人は誰もいませんでした。
 
 そんなザアカイさんの孤独な毎日、そこに、ある噂が、ザアカイさんの耳にも入ります。
 
「おい、あの評判のナザレのイエスさまが、このエリコの町に来てるんだってよ」
「なんだって、一目見てやろうじゃねぇか」
「なんでもパリサイ人や律法学者の先生方さえ、ぐうの音もでねぇぐらいに言い負かすんだってよ」
「そそれから、なんでも奇跡も起こしたんだって。おおお俺のおっかさんの病気も治してもらえるかな」
「…いけるんじゃねぇか」
「(遠くを見ながら)おお、あそこに見えてきたぞ。あの人じゃねえか」
「遠くてよく見えねぇよ」
「ほらほら、やっぱりそうだって」
 
 エリコの町は、大変な人だかりになりました。
 ザアカイさんは思いました。「イエスだって、立派な先生らしいけれど、なんだか一味違うらしい。ガリラヤ湖の漁師連中とか、取税人のマタイまで弟子にしてるそうじゃねぇか。」
 ザアカイさんは、そういう取税人を受け入れて弟子にする、そのイエス様を見てみたいと思いました。その人ごみをかきわけてイエス様を見ようとします。「おい、俺はザアカイだぞ」でもその声は群衆の声にかき消されてしまいます。
 
 ザアカイさんは考えました。ちょうどそこに、登りやすい木がありました。木のぼりなんていい年の大人がするもんじゃないけれど、背の低いザアカイさんにとっては、イエス様を見るためには、それしか思いつく方法はありません。
 いちじく桑の木に登ったザアカイさんは、葉っぱの影に隠れて、その陰から、ちらっとイエス様のお姿を見ようと待ち構えていたら、気配がそこで止まるんです。群衆のざわめきが、いちじく桑の木のそばから動かないんです。おそるおそる葉っぱをめくってみると!あっ!!イエス様の目が、まっすぐにザアカイを見つめていました。
 「ザアカイ!急いで降りて来なさい。今日!わたしは、あなたの家に泊まることになっている!」
 
 ザアカイは急いで降りていって、喜んでイエス様を迎えました。ザアカイの中にうずく、心の中に押し込めていた何かが、その瞬間はじけました。
 
 でも、それを聞いた、エリコの町の人たちは、ぶつぶつぶつぶつ、文句を言いました。
 
「おい、イエス様凄いって聞いてたけど、あんな汚れた取税人の家に泊まるんだってよ。なんだか幻滅だなぁ。がっかりだよ。」
「イエス様って変わりもんだよな。あんな取税人と仲良くやるなんて、あんがい大したことないのかもな」
 
 って、そんな風な声がちらほら聞こえます。エリコの町の人からは、売国奴と呼ばれて、毛虫のように嫌われています。
 
 でも、少し考えてみましょう。ザアカイさんって、そんなに悪人だったでしょうか。悪いやつだったことは間違いないでしょう。自分で、脅し取ったものがあるかもしれないと言っていますから。
 それに、当時の取税人というのは、ユダヤの民衆からたくさん搾り取るのが常でした。決まった税額だけ、ローマに納めればよいので、あとは取税人の腕次第、なんぼでもふっかけて、多めに取っては、その中抜きして、その差額を自分のふところに入れていたわけですね。
 でも、ローマがどうしてそういうことをさせていたかということを知れば、当時のローマ帝国のやり方のえげつなさが分かります。
 
 この当時のローマ帝国は、見事な統治で支配を拡大し、安定した平和を実現した、と高く評価される部分があります。パックスロマーナ、ローマの平和、と言われる通りですね。
 しかし、その安定した見事な平和は、何に支えられていたか、ということなんです。まぁ強力な軍事力によって、という言い方もできるんでしょうけれども、別の見方をすれば、ローマの属国からの税収によって支えられていた、という見方もできるんです。
 ユダヤも当時、属国の一つでしたから、属国ユダヤから税金を吸い上げる。
 しかしその集めた税金は、ユダヤの社会保障、福祉、公共事業などには使われません。
 全部ローマに送金されて、ローマの軍備費ほかに使われます。
 けれどそれを集金する取税人の仕事を、直接ローマ人にやらせると、ローマへの恨みが強くなるので、この集金の役目を、ユダヤでは入札制で同じユダヤ人に権利を買わせて、請け負いでやらせる。
 ユダヤ人の取税人なら、同じユダヤ人の家族構成などの個人情報を知っているので、取り立てがしやすい。
 そしてローマは、取税人には中抜きしても黙認してやる。そして中抜きして儲けたユダヤ人の取税人は、ユダヤの民衆から恨まれ、ローマへの怒りを軽減させる盾のように使われている、という構造を作っていた。
 
 つまり、ユダヤも含め属国は、ローマのいわば経済部隊となっており、取税人のかしらでさえ、ローマの末端なんですね。
 
 末端に恨みの矛先を向けて、気付きにくいように、より巧妙に支配していく、という方法は、歴史上、権力側がよくする方法なんですね。
 
 たとえば、ナチスの収容所でも、ユダヤ人のいわば牢名主(ろうなぬし)としたものを作り、囚人のかしらを作って、ユダヤ人にユダヤ人の取り締まりをさせて、怒りの矛先をナチスからそらせていた。
 
 ですから統一協会の勅使河原(てしがわら)改革推進本部長、まあメディアなどで会見を見ますと、あまりの卑劣さや、彼の言い分に、はらわたが煮えくり返るような気もしますけれども、彼も実は末端なんです。弁護士の先生方が指摘している通り彼は実際には権限を持っていなくて、メディア対策に顔と声を出しているだけに過ぎないんですね。
 もちろんその言い分や、やり口に、批判の手をゆるめる必要は一切ないと思いますけれども、実際この組織は韓国の本部からの強力なトップダウンで、日本の末端を操って、おそらくは怒りの矛先を末端に向けさせる、ローマ帝国と同じような方法を使っているのだろう、ということは透けて見えてくるので、そこも押さえておくと、現代のことがらも俯瞰的に見ることができますね。
 
 で話をもとに戻しますと、ザアカイさんも、いばっていたけれど、そういうローマからの権力構造の中で利用されて、より大きな上の方の悪を、ユダヤ人の目から逸らすための目くらましに使われていたわけです。
 
 ですから私たちもですね、多かれ少なかれ葛藤があると思うんですね。何らかの力関係の中でひずみを受けながらやっている。たとえば組織の中で働きますと、―まあそこまでにひどいことをしている組織はめったにないと思いますけれども―まあ職場でなくても家庭でもそうかもしれませんけれども、その中にひずみがありますとですね、どうしても自分の立場では、どうしようもできない、ということがある。そして人を傷つけてしまう、仕方なかったんだ、って自分に言い聞かせても、どこか心がつきっと痛む。罪悪感がぬぐえない、または、末端が勝手にやったことにされて、しっぽ切りのようにこちらのせいにされて、心がずうっとうずいている。そんなことが私たち皆、多かれ少なかれあったんじゃないでしょうか。
 
 まさにそこに、私たちの心の奥底に、主イエスのまなざしが今飛び込むんです。その眼差しには、何一つ、責めも、さばきもありません。
 こちらの、弁明も弁解も、反論も何もいらない。
 高いところにのぼって、理論武装をしている私に、「降りてきなさい」って語りける声がする。「葉っぱのかげに、隠れなくていいよ。」このイエスさまの前では、私たちは安心して、素の自分を、見せることができる。
 あなたの存在まるごと、すべてゆるした、受け入れた、そのイエス様の声は、あの十字架の犠牲による、絶対的な罪の赦しによって成り立ちます。
 分析も評価もなさらない。絶対的なゆるしに裏打ちされた受容がある、だから私たちはイエス様に受け入れられるという体験をするんです。世の中の人が100人が、1,000人が、万人が、あなたをさばいても、わたしはあなたをさばかない!と、イエス様は今、あなたに言ってくださっている。
 
 数年前の礼拝説教でお話したかもしれませんが、ここのイエス様のことば「あなたの家に泊まることにしているから」というこのことば、実はちょっと弱めの翻訳でして、泊まらねばならない、英語でいうとマストですね。しかも、単なるマストではなくて、神の意志、神のご計画によって、泊まることが決められている、そういう意味のことばなんです。
 だからイエス様が、今日の気分で、「ザアカイ、ちょっと君と話したい気分になったから、今日は君の家に泊まりたいな」ということではない。永遠の神のご計画で、あなたの家に救いを届ける計画だった、それはゆらぐことのない神のご意志だった。そういう意味です。もっと言えば、「世界の基が据えられる前から」愛され選ばれていた、とエペソ書第1章にある通りに、世界の創造の初めから、神の救いに選ばれていた、と言うこともできるんです。
 ですから創世記の初めに、神が人間を「神のかたち」として、価値ある尊いものとして造られた時から、神の手からこぼれおち、上か下か、利用できるかできないか、利用できなくなった末端は捨てられてしまう、そんな人間の尊厳とか価値とかが失われた世界に、主イエスは来てくださって、君は、永遠の昔から、尊い神のかたちとして造られた神の作品なんだ。長い長い間、無くしていた銀貨なんだ。やっと見つけた。創世記で、裸の自分を恥じて、エデンの園の木の葉っぱのかげに隠れたように、葉っぱで自分を隠したザアカイさんのような本当のあなたを、やっと見つけたんだ、わたしのもとに帰っておいで。もう、怖がる必要は無いよ、って、主イエスは今語りかけておられる。
 
 主イエスはこうもおっしゃるのです。(第19章9節10節)
 
「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
 
 これは私たちの心に、温かい波紋を広げることばですね。「この人もアブラハムの子なのですから」
 
 ザアカイさんは、アブラハムの子だと、エリコの世間からは見てもらえませんでした。アブラハムの子というのは、旧約聖書の信仰の父と呼ばれるアブラハム、その人の子孫、という意味です。そして、ユダヤ人ならば、みんなアブラハムの子。
 しかし、取税人は、異邦人と同じに扱われました。ユダヤ人は選民意識があり、異邦人、つまり外国人を、けがれた者だと呼びました。だから、エルサレム神殿の境内には、内側からユダヤ人男性の庭、ユダヤ人女性の庭、その外に異邦人の庭、といって、そうやって差別もしていました。
 ザアカイさんのような取税人は、橋や交通の要所に、机を出して、そこで通行税を取っていましたから、異邦人と触れ合うことが多かった。だから、異邦人のけがれがうつる、などとユダヤ人から思われて、取税人というのは、けがれた異邦人と一緒、アブラハムの子だとは認めないね、と思われていた。そこでイエス様が言われた「この人もアブラハムの子なのですから」ということばは、もちろん、ザアカイさんもユダヤ人の共同体の一員に戻り、ユダヤ人の仲間として認められて、ユダヤの人びとの関係が良くなって、幸せに暮らすことを暗示しているとも言えましょう。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」とまで、パフォーマンスやポーズとかではなく、本気でそれを言ったわけですから。
 でも、イエス様がアブラハムの子、と言ったときに、もっと深い意味があります。ガラテヤ人への手紙第3章6節から9節を見てみましょう。
 
新約聖書 ガラテヤ人への手紙第3章6~9節
6 「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。
7ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。
8聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。
9ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。

 ということですね。つまり、イエス様を信じる信仰によってアブラハムの子なんですね。それが異邦人であっても、つまり私たち日本人であってもそうです。イエス・キリストを信じる信仰によってアブラハムの子なのです。その意味は、創世記第12章(1~3節)のアブラハム契約と呼ばれる、「あなたは祝福の基、原語では祝福そのもの」になるという、祝福の契約です。(以下読まないでスクリーンに映す)
 
主はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの土地、
あなたの親族、あなたの父の家を離れて、
わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
あなたを祝福し、
あなたの名を大いなるものとする。
あなたは祝福となりなさい。
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、
あなたを呪う者をのろう。
地のすべての部族は、
あなたによって祝福される。」
 
 でこの祝福とは、宗教改革者マルティン・ルターは「世俗的な祝福も含むが
何よりも罪のゆるし」という祝福だと言っているんですね。だから、
 
【以下読まないでスクリーンに映す】
 
新約聖書 ガラテヤ人への手紙第3章6~9節
6 「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。
7ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。
8聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって【福音を告げました。】
9ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。
 
 これはちょっとびっくりですよね。旧約時代のアブラハムに、神さまが、よき救いのおとずれ、祝福の音信、福音を告げられた、もちろんアブラハムは十字架と復活をまだ知りません。だから、そのアブラハムの子である私たちに、十字架と復活、罪のゆるしと永遠のいのち、という祝福の新しい契約が―これを新約と言いますが―、ザアカイにも、現代のザアカイである私たちにも、飛び込んできました。
 そして世界の人々が、この「罪のゆるしと永遠のいのち」という「福音」によって祝福されるんです。今それがすでに起こっています。世界中に福音がキリスト教会という言わばザアカイの家によって、届けられているからです。私たちひとりひとりもまた、世界の神の家、普遍的教会につながった者として、福音を全世界に、身近な人に、祝福の源として、福音、良きしらせを、届けて行こうではありませんか。
 
お祈りをいたします。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様は御子イエス・キリストをこの世に送り、罪のなわめに悩み、自分の価値や人生の意味を見失っている、失われた私たちひとりひとりを見出し、ご自身の十字架の尊い血潮による犠牲によって贖い出して、自由と解放を与えてくださるばかりか、罪のゆるしと永遠のいのちの祝福を与え、その祝福を世界に流して伝えて行く者としてくださっていますことを心から感謝申し上げます。ザアカイが、自分の財産を、今度は、貧しい人々と分かち合って、共に生きるために使うようになったように、私たちも有形無形の、神さまから与えられた良きものを、隣人と、世の人々と、分かち合って喜ぶことも、させてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
 
 #ザアカイ
#ルカ19章

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