【文書版】✴️礼拝メッセージ「起きなさい。恐れることはない」新約聖書 マタイの福音書第17章1~9節

✅昨日2023年2月19日(日)の礼拝メッセージのテキスト版をここに掲載いたします⬇️

✴️礼拝メッセージ「起きなさい。恐れることはない」
新約聖書 マタイの福音書第17章1~9節

1それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
3そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
4そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
5彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
6弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。
7するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。
8彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。
9 彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」
 
 主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
 この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
 
 先日インターネットの記事で、このようなものがありました。
 
「はだしのゲン」を不使用に 広島市の平和教育教材 原作者・中沢さんの妻「残念です」
 
 皆さん、漫画の「はだしのゲン」はご存じでしょうか?私も小学校のころに図書館で読みまして、衝撃を受けたことがあります。しかし、本当にこれは大事な事を世代を超えて語り継いでいる作品だと思いました。以下記事を読んでみます。
 
広島市教育委員会は、新年度から市内の小学校で使う平和教育教材の内容を見直し、漫画「はだしのゲン」を使用しないことにしました。
 
広島市は小学生から高校生までに独自の平和教育プログラムを導入しています。今年度までの教材では、小学3年生のパートに漫画「はだしのゲン」の一部が使われていました。
 
プログラムの導入からおよそ10年が経ち、市教委は大学教授や学校関係者などと改訂について検討しました。この中で「はだしのゲン」については、「漫画の一部を教材としているため被爆の実相に迫りにくい」という指摘がありました。
 
また、ゲンが生活費を稼ぐために、街角で浪曲をうなる場面も「いまの児童の実態に合わない」といった課題もあげられたということです。そして、改訂された新年度からの新たな教材では、「はだしのゲン」は使わず、代わりに原爆で家族を一瞬で失った女性の実体験を、教材として採用したということです。
 
広島市教委は「あくまで平和教育プログラムの見直しの中の一つで、『はだしのゲン』を外すことが前提ではない」と説明しています。
この方針に、原作者の妻は、「残念です」と話します。
 
「戦争の残酷さを伝えているのがゲン」原作者・中沢さんの妻
 
「はだしのゲン」の作者、故 中沢啓治さんの妻・ミサヨさんは、「教育委員会が決めることなので、仕方がないとは思いますが、残念です」と肩を落としました。
ミサヨさんは、「いまの児童の実態に合わない」といった指摘について「あの時代は食べる物もなかった。豊かな時代に暮らす子どもたちと実態が合わないは当然」と話します。
そのうえで、「なぜゲンが街角の浪曲で稼がなければならなかったのか、なぜ母親のためにコイを盗まなければいけなかったのか。子どもでも、そうしなければ生きていけなかったからです。『生きろ』というメッセージが込められている」。こうした背景をしっかりと教えることこそが重要だと訴えます。
 
また、ゲンの父親が家屋の下敷きになり、火の手が迫る中で、ゲンに逃げるように迫る場面も、教材では使われなくなります。
 
連載当時、アシスタントをしていたミサヨさんは、啓治さんがこの場面を描いている姿が忘れられません。「描いていた手が突然止まるんです。『熱かったろう、熱かったろう』って涙を流して」
 
描き始めては筆を止め、また描き始めては筆が止まる。啓治さんは、つらそうに机に向かっていたといいます。「被爆者は言いたくても言えないことを心に持っている。その思いを込めたのが、はだしのゲンなんです」。
ミサヨさんは力を込めて訴えます。「きれいな戦争なんてない。戦争ほど残酷なものはない。その残酷さを伝えることが、戦争反対、二度と戦争しないという気持ちにつながるのです」
 
 いかがでしょうか皆さん、はだしのゲンの作者の中沢さんは被爆者です。そういう被爆者の方の作品ほど、その戦争の実態、実相を伝えるものは無いと思います。
 しかし、ここ最近の、どんどんまるで軍国主義であるかのように傾いて行きつつあるような日本の現状の中で、こういった平和へのメッセージの非常に強い作品が―以前10年くらい前に神奈川県で、図書館で閲覧制限がかけられましたよね。この本。―こういった本が、だんだんと子供たちに手渡されにくくなってしまうことは、非常に残念なことであるし、このことも含めて、だんだんキナ臭くなって行きつつあるということは、私たちの心を暗くさせるものであると思います。闇が深まりつつある。加えて経済的な問題や、その他さまざま生活の問題、心配がある、そうしますと、私たちの生きる気力とか、そういったものも削がれてしまうような気持ちになるかもしれません。しかし、今日も、イエス様の光をあびてですね、新しいいのちが生き生きと生きる、そういう体験をご一緒にして行きたいと思います。
 
 さて、今日は、レント・四旬節に入る1週間前の、主の変容主日、ということで、山の上で、イエス様のお姿が光り輝いた、そのことを記している福音書の記事が、聖書朗読の箇所として必ず選ばれます。福音書記者の4人のうち、マタイもマルコもルカも書き記しているできごとでして、それだけに非常に重要な場面である、ということですね。3人の福音書記者の記述は当然全く同じではなくて、少しずつ特色があるわけで、昨年はルカの福音書から神のことばを聞きとりましたが、今日はマタイの福音書からです。
 
 それで、第17章の1節から始まるわけですが、聖書の章や節というものは、どの箇所か探しやすいように、けっこう後代に付け加えられたものです。福音書を書いた人は、そんな章なんて意識していません。紙というのは非常に高価なものでしたから、段落を開けたりスペースを開けたりすること無く、ギリシャ語の大文字で、ダーッっとびっしり書いたんですね。ですから章が分かれていますと、章が改まったら、話が新しい区分に入るのかな、と思ったら、確かにそこで切れていることもないこともないんですけれども、あんまり信用しない方がいいんですね。何が言いたいかというと、このイエス様の変貌とか変容と呼ばれるできごとは、実は16章の続きなんだというか、話は全然切れていないわけですね。ですから聖書というものは、いつも前後の文脈で読んで意味を判断するということがとても大事なわけですね。
 
 さて、ではどういう話からの続きかというと、ペテロの信仰告白から続いていることなんです。マタイ第16章でペテロはイエス様に対して大変素晴らしい信仰告白をしました。「あなたは生ける神の子キリストです」と言いました。これは内容としては、言葉としては100点満点の答えでした。イエス様はそれを大変おほめになりました。それを言わせたのは、天の父なる神だと、そうおっしゃいました。
 それでペテロがこうして素晴らしい信仰告白をした舌の根も乾かぬうちになんですけれども、イエス様が、ご自身の死と三日目の復活を予告されるんです。そうしますとどうなりましたでしょうか?ペテロはイエス様をわきにお連れして、「ちょっとちょっとイエス様、そんなとんでもないことおっしゃらないでください。あなたはメシア・キリストとして、ローマを追っ払ってくださって、ダビデ王国の再来である神の国の王様となっていただかなくちゃいけないんですから、死んだら王様になれないでしょう。そんなこと起こりっこありません。どうかそんな発言はおやめください。」そうやっていさめ始めたんですね。イエス様はそれに対して、「下がれサタン!あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」とおっしゃいました。
 一番弟子の愛弟子であるペテロに対して、サタン呼ばわりするとはイエス様は酷いのではないですか?そう思われるかもしれませんが、これはペテロの背後にいるサタンに言われたと考えてもよいです。次週マタイ第4章の荒野の誘惑というのを共に学びますが、サタンは荒野で、イエス様に3回誘惑するんですね。どれも、いい誘惑でした。いい誘惑と言ったらおかしいんですけれども、神の力でいいことやりなさい。あなたの評判を高めなさい。そうしたら、民衆の人気も上がって、メシア・救い主としての活動がやりやすくなりますよ、こう誘惑したんですけれども、どれもすべて、十字架を通らなくさせる方法ばっかりだったんですね。そういう十字架を、ひいては神の永遠の昔からの救いの計画を邪魔すること、これがまさにサタンのやり口だったんですね。ですからペテロの台詞も、イエス様に十字架を通らないようにさせる、サタンの誘惑と同じ路線の言葉だったわけです。
 
 さて、それから6日目に、となっていますが、つまりペテロがイエス様に厳粛に「下がれサタン」と言われてしまった6日目、ということですね。ルカは8日ほど経って、と正確さを捨てて書きましたが、マタイの方がどうも日付は正確に書いているようです。
 イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネの三羽がらすを連れてですね、高い山に登られました。この山は何だったか、古い説ではタボル山、これは標高500m台ですので、エルサレムでも約700mの丘の上にありますから、とても高いとは言えない。ですから標高2800mくらいのヘルモン山ではないか、という説が有力ですし、また最近の説では、メロン山という―何かおいしそうな―名前の山ではないか、と議論がありますけれども、つきとめる必要は全然ないと思います。どの福音書記者も書かなかったということは、どの山であったかということに、あまり意味は無いからなんですね。
 そして、そうすると、山の上で、イエス様のお姿が光り輝いて、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった、と。そして、モーセとエリヤが現れて、イエス様と語り合っていた、という不思議な光景ですね。
 しかし、変貌とか、変容というふうに呼ばれますけれども、何か戦隊もののヒーローや仮面ライダーやウルトラマンのように、変身!としたわけではなくて、イエス様の本来のお姿に戻った、いわば正体を現したと言った方が正確だと思いますね。神のひとり子なわけですから、こちらの方が真の姿でしょう。
 それで、それを見たペテロが、6日前に余計なことを言ったように、また余計なことを言うわけですね。ペテロさんらしいというか、まぁこういったオッチョコチョイなところが、私たちがペテロさんに親しみを覚えるところであるかもしれませんけれども、「よろしければ、皆さまがたのために、一つずつ幕屋を作ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」と。―幕屋というのは天幕・テントのことですね―
 これはですね、他の福音書記者は、ペテロは何を言っているのか自分でも分からなかったんだと書いています。気が動転して「何か言わなくちゃ」と思ってそんなことを言ったんだと、でもマタイはそう書いていません。これは背景としては、ユダヤ人たちのうちに「神の国が実現ると、全人類が仮庵の祭りを祝うようになる」という言わば民間信仰のようなものがあったそうで、仮庵の祭りはそれを象徴していたわけですから、ペテロの意識の中にその仮庵の祭りがあったのだとすれば、―仮庵と天幕・幕屋は同じですから―そんなにおかしなことを言っていたわけではないと言う人もありますけれども、しかし、いずれにせよ、神様の前には、イエス様の前には、このペテロの発言は的外れだったわけですね。十字架をまず通らなければならない。
 ですからここで、光り輝く雲が彼らをおおってですね、声がしたんです。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け。」
 いかがでしょうか、皆さんの中にもピンと来る方がいらっしゃるでしょう。どこで聞いたことばだったでしょうか?
 イエス様の洗礼の時ですね。バプテスマのヨハネからイエス様が洗礼をお受けになった時、天が開け、聖霊が鳩のように降って、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という父なる神の声がしました。これがメシアのいわば就任式でした。それは、詩篇とイザヤ書の組み合わせで、詩篇の方からは、王としてのメシア、イザヤ書からはしもべとしてのメシア、この2つが両立するメシアとしての就任だったわけですね。
 その就任の時の父なる神の声に加えて、「彼の言うことを聞け」ということばが付け加えられています。これが言ってみればペテロへの父なる神さまからの直接の叱責だったんです。
 ペテロは、いわゆる悪意はもっていません。イエス様のために一所懸命だったと思います。そして親切心があったと思います。何か気を利かせようという思いがあったと思います。イエス様のために全力でサポートしようという気持ちもあったと思います。しかし、イエス様に対しては、それは余計な事であり、的外れなことであった。それはまさに、王であり、同時にしもべであるメシアの役目をじゃますることであった、ということですね。
 
 このイエス様の洗礼式の時のことばを父なる神はお選びになったことは深い意味があると思います。つまり、王であり、同時にしもべであるメシアなんだ、わが愛する子であるイエスは。ということですよね。
 王様であって同時にしもべ、というのは、普通の感覚で考えると、両立しないように思えますね。王様と言うイメージは、ペテロさんも多分思ったと思いますけれども、豪華な肘掛付きの金や宝石でできた椅子にデンと座ってですね、威厳をもって命令をだす、そういったイメージでしょうか?しかし僕となると全然違ってですね、僕とは仕える者ですから、王様をあの大―きな葉っぱでできた団扇であおぐ人でしょうか?それは、エジプトくらいの国のイメージでしょうけれども、ペテロたちのイメージでは、主人の足を洗うという、そういうイメージが強かったのではないかと思います。
 ですから、それがまさに第16章の、イエス様による受難の予告とつながっていまして、メシアは苦しみを受けて、殺される、皆の罪を負う。それがしもべの姿なのだと、暗におっしゃっているわけですね。でも、それはまだペテロたちにはまだ分からない。ひょっとしたらイエス様の十字架の3日後の復活をす過ぎて、復活のイエス様にお目にかかってもまだ、いまいち分かっていなかったかもしれない。イエス様にペテロが「3度わたしを愛するか?」と問われて、わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです。と告白した時に、このイエス様の十字架の死が、私の罪の赦しのためだったのだ、私の罪を洗い清めるために、イエス様がしもべとなって十字架に赴いてくださったんだ、ということが腹に落ちて分かったのかもしれない。そして聖霊降臨・ペンテコステの日に、聖霊が弟子たちの上に下った時に、完全にすべてが分かり、ちょうどこの変貌の山での父なる神のみことばの意味も完全に分かり、聖霊に満たされて大胆に語った時に、ペテロの説教で、その日のうちに3000人の人が洗礼を受けて信仰に入った。こういうことであったのだろうと思います。
 しかしペテロをはじめ、弟子たちは、まだそのことはまるで分かっていません。分かっていませんでしたけれども、その父なる神の御声を聞いた時に、ひれ伏して、非常に恐れたんですね。
 これは当然の反応でして、旧約時代には、神を見たら死ぬ、って言われていたんですよね、ですからその恐れ多さに打たれた、がたがたがた震えながら、地面に額をつけていたでしょう。
 顔も上げられないでいると、イエス様が来られて、弟子たちに手を触れて下さった。暖かい慈しみに満ちたその手だったと思います。人々群衆に手を触れて病をお癒しになった、そのイエス様の愛の手です。それが、弟子たちだけではなくて、今私たちに、皆さんに触れられています。そして「恐れることはない」と、主イエスはおっしゃってくださいました。ここで、私たちの恐れは消え去るんです。
 そう、ペテロは、余計なことをしようとしました。焦燥感からの言動だったかもしれません。焦燥・あせり、私たちも焦りから行動や言動をすると、ロクな事にならないことも多いですが、ともかくペテロは、イエス様のみことばを聞いて、従うよりも、自分がなんとかしなくちゃ、と思ったんですね。それがたとえ善意であっても、神様の御声を聞くこと無しにですと、神様の方向性が十分に分かりません。そのため、自分の考えるベターというか、そういうものに目的や目標を設定して動くわけですね。それは人間の社会で悪いことではありません。どうしてもこの考えで、社会に善をもたらしていくんだ。社会に、世界に価値を付け加えていくんだ。それらは素晴らしいことだと思います。しかし、じっくりと聖書を読んだり、黙想を深めたりするうちに、もしかしたら自分の行動は何かが違うんじゃないかな、そういうことに気付くことがあります。その時にまさに「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」というみことばが私の心の中に響くわけですね。その時に、ああ、そうか、自分がやらなくちゃと思っていた善は、もしかしたら余計な事で、イエス様のみことばは、微妙に別の方向を指し示しているのだなと、軌道修正させられることがあるわけですね。それがある意味で山の上の経験と言いますか、かなり黙想を深めないと見えて来ないこともありますけれども、「恐れることはない」と言われるイエス様のみことばを聞いて、目を上げると、そこにはイエス様だけだった。他には何もなかった。イエス様とたった二人っきり、そういった霊的経験をですね、一人で黙想する時にも経験することがあるし、泊まりがけの聖会や修養会などに参加する時にもよく起こるかもしれません。
 
 ペテロは、後に教会の指導者になってから、手紙を書きました。明らかに、この時の山の上での体験を記しているところがあります。ペテロの手紙第二、第1章16~18節です。
 
新約聖書 ペテロの手紙 第二第1章16~19節

16 私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨(これは再臨のことですが 括弧内田村)を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。
17この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
18私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。
19また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
 
 というところですね。まさに、今日のみことばのできごとが記されていますが、19節で、明けの明星、ということばをペテロは語りました。これは地球と水星の間にある惑星である金星のことですが、空にひときわ明るく見える惑星ですね。今でも、俗称で宵の明星とは、日没から始めに見える金星のことですね。逆に、明けの明星は、夜明けに初めに見える金星のことですね。これは今も昔も変わりません。それで当時のユダヤの理解では、宵の明星は死を象徴していたんです。そして、明けの明星は、復活、よみがえりを象徴していたそうなのです。ですから、ここでは、ペテロは、来臨といって、再臨を意識していますので、明けの明星がうんぬんというのは、イエス様の再臨が来るまで、ということでしょう。
 いずれにせよ、イエス様の復活の光と再臨の光、というのをペテロは意識しているわけですね。
 ある人は、ここで「待ちきれない光」という印象深いことばを言いました。イエス様が、変貌の山から下りる時に弟子たちに
 
「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」
 
とおっしゃいました。限定つきの沈黙命令です。イエス様は普段、たびたび沈黙命令をなさいました。それはイエス様の評判が、間違った形で、必要以上に広まって、政治的なメシアとして担ぎ上げられるのを防ぐためにこういった沈黙命令をなさったわけですが、弟子たちは待ちきれなかったと思います。人の子が死人の中からよみがえる、とは何のことだろうか?象徴的に何か捕まっても牢屋から3日目に出て来るとかそういうことだろうか?と、ひょっとしたらペテロたちは思ったかもしれませんけれども、でも本当にイエス様がおよみがえりになって、聖霊が注がれて、この限定が言わば解除された時に、どんなに嬉しかったことだろうか?どんなに思う存分語れたんだろうか?そう思います。そして私たちにはすでにこの限定が解除されています。それを大胆に遠慮なく語ることができるとは、何と幸いな事でしょうか。
 
私たちは、今日のみことばが示すできごとを聞いて、ペテロたちは、こんな神秘的な凄い体験ができてうらやましいな、と思うかもしれません。しかし、考えてみれば何もうらやましいことはありません。なぜなら、まさにここが、主日の礼拝こそが、この変貌の山でのできごとだからなんです。なるほど、目に見える形では、イエス様が眩しく光り輝くのを私たちの肉体の目では見えないかもしれません。しかし、確かに語りかけられているんです。人間の説教(朗読者)者の口を使って、神が、主イエスがお語りになっているんです。
この7節でイエス様がおっしゃってくださいました「起きなさい、恐れることはない」のこの、起きなさい、ということばは、復活せよ、とも訳すことができることばです。ただ立ち上がりなさい、ということではない。今ここにおられる復活の主イエスが、あなたに罪のゆるしと、それだけでなく、わたしと同じ復活のいのちを与えた、世とは異なるいのちを与えたから、あなたはそのいのちをもって、立ち上がることができる!世間の色んな知らせや声を聞いて、心も沈んでいるのか?恐れているのか?恐れることはない!やがてわたしの光が全世界を輝かせる日が来る!そして今も、わたしがここにいる!あなたと共にいる!さぁ顔を上げてごらん!そう主イエスが声をかけられる、そうして目を上げてみると、そこには「イエス一人のほかには、だれも見えなかった」この方があなたに暖かい慈しみの手を触れて、あなたの手をとって、1週間、いやこれからのち、人生のすべての日において、御国に行く日まで、一緒に歩んで、行くべき道を示してくださいます。
 
 
お祈りをいたします。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様は、主イエスを変容させ、輝くみ姿を私たちに見せてくださいました。ここが変貌の山です。ここにおいて主イエスの復活のお姿にお目にかかった私たちは、その復活のいのちをいただいて、世の中の闇がどんなに深くなりつつあっても、その光を、ただ主イエスだけを見つめて、歩むことを得させてください。復活のいのちをいただいた者として、地の塩、世の光としてこの世において歩んでまいります。どうかお一人一人を祝福し、あなたのご復活の光を照り輝かせる者としてください。いやすでにそうしてくださっていますことを信じて心から感謝いたします。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

#主の変容
#はだしのゲン

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