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【文書版】礼拝説教「神の前に富む」新約聖書 ルカの福音書第12章13~21節(新改訳2017)

🌠昨日2022年7月31日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします。
✴️礼拝説教「神の前に富む」
新約聖書 ルカの福音書第12章13~21節(新改訳2017)

13 群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」
14すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」
15そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
16それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
17彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』
18そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
19そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
20しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
21自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

 主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
 この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。

 皆さん、ガリガリという言葉がありますね。ガリガリくんというアイスキャンディーのことではないんですけれども、人の体形をばかにして言うことばですね。まあ小学校ぐらいでしかあんまり使わないと思うんですけれども、私も子供の頃やせすぎぐらいの体形でしたから、「ガリガリやにゃあ」と言ってからかわれたこともあるんですね。
 じつはあのガリガリということば、なんと仏教用語だそうなんですね。ガリガリ亡者と言ったりすることもあるそうで、我に利すると書いてガリなんですね。仏教では、我の利益ばかりに執着(しゅうじゃく)して生きた者は、(飢えた鬼と書いて)餓鬼に生まれ変わるというふうに説かれます。仏教の絵でご覧になったことがありますよね?お腹が出っ張っていて上半身は肋骨が見えている、というような姿ですね。
 他にも、ガリ勉という言葉も、ここから来ているそうで、やはり我の利益のために勉強に執着している姿ということなので、まあ両方ともあんまりいい言葉ではないですね。むしろ生活の中では使わない方がいい言葉ですね。

 さて、今日のイエス様のたとえ話は、ある意味で、我(われ)の利益、ということが、物凄く全面に出ているんですね。

 ある金持ちの畑が豊作だったので、倉を取り壊して、穀物や財産をためこんで安心しようとするこの人物、そこに神さまがこの人に言われる。「愚か者、おまえのいのちは今夜お前から取り去られる。そうしたらお前が用意したものは誰のものになるのか」と問われてしまう、というたとえ話ですね。
 ある意味でとっても分かりやすい話なんですが、この人は、―この新しい翻訳は改善されていまして、彼の「われのわれの」というのが、よく出てる翻訳なんですね。前は「作物」となっていたのが「私の作物」「あの倉」となっていたのが「私の倉」と、ちゃんと私の、私のと、訳されていますし、「私の穀物や財産」、こうなっているんですね。そんなくどくど「私の」「私の」なんて言わなくても文脈で分かるんですけれど、イエス様は彼の「私の」っていう姿勢を強調して語っていらっしゃるんですね。まさに彼は、仏教で言えば我利我利亡者のようだ、ということになったかもしれません。
 ところで、イエス様のたとえ話には、どのたとえ話でもたいてい、語られるきっかけとなったできごとがあるわけですね。
 今回のきっかけとなったできごとは、兄弟間の遺産相続問題で、イエス様に訴えてきたある人物の言葉でした。
 この時のシチュエーションとしては、非常に緊迫したムードだったと思うんですね。ルカ第9章51節から、イエス様が御顔をエルサレムにまっすぐ向けて進んで行かれているその流れの中で、弟子たちにイエス様が真剣に神の国について語っておられる。その話が一区切りするのを待ち構えるように、群衆の中から多分想像するに、かきわけるようにして大声で、「せんせーい!私の兄弟に遺産を私にも分けるように言ってください」と言うわけですね。
 群衆はみんなズッコケるような思いがしたかも知れません。お前シチュエーション考えろよ、と皆思ったかもしれません。こんな真剣に神の国について語られているのに。
 しかし当時の常識としては、ユダヤ教の教師であるラビというのが、こういう民事と言っていいんでしょうか、こういう問題の調停役をすることも一つの仕事でしたから、またイエス様もそういうラビの一人なんだと民衆には思われていましたから、きっとこの人にとっては、この公正な、だれの顔色もうかがわない、まっすぐなイエス先生なら、きっと他の人に相談しても解決しなかったこの問題も、解決してくださるのではないか、という一縷(いちる)の願いを込めて、もうイエス様がいらっしゃる今!この時を逃してはいけない、と思ってのことなのでしょう。

 彼はある意味で被害者とも言えると思われます。私の兄弟と言っていますけれども、年上の兄弟か年下の兄弟かを一言で区別して兄とか弟とか言う言語は、日本語と中国語とたぶん韓国語と、あといくつかしかないようでして、ブラザーとかシスターとかですね、外国語では分からないんですね。だから兄弟と訳しているんですけれども、おそらくお兄さんなんです。それで当時の風習からすれば、割り合いとしては、長男が弟の二倍にあたる財産を受ける、と。これも不公平な気がするかもしれませんが、分配の手順も、長男が、一旦全部遺産を受け取って、そして、それから弟たちに分配するということだったそうです。ですから、その手順において、いつまで経っても、兄ちゃんは、死んだおやじの財産をひとりじめして、弟に、まあ兄の半分に当たる額でしょうか?それさえも分けない、弟は当然の権利を奪われている、そして弟の方も、別にありあまるお金があった上で、もっともっとって思っていたわけではおそらくなくて、生活も苦しくて、この先生活して行けるかどうかが、この遺産を受け取れるかどうかにかかっている、それぐらいの状況だったのではないか。まあひどいお兄ちゃんだったのかもしれません。そういう切羽詰まった状況であったならば、なりふりかまわずに、発言する、というのも、―彼にだいぶ好意的に解釈していますけれど―とっても自然な流れだったのではないか、と思えるわけですね。

 しかしイエス様は彼に、「(人よ、)いったい誰が、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのか?」という非常に厳しい答えをなさるわけですね。そんな調停役はやらないとおっしゃるわけですね。しかも続けて、「人びとに言われた」とありますから、その人だけではなくて、群衆みんなに語りかけることばとして、このことばを言われるんですよね。

15「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」と。

 貪欲って強いことばですよね。彼は当然の権利を主張しているだけなのに、という気もしなくもありません。むしろ欲っとしいのは、お兄ちゃんの方じゃないか、と思うかもしれません。
 そして、イエス様は、じゃあたとえば、、、ということで今日の「愚かな金持ちのたとえ」と私たちが呼びならわしているたとえ話をなさるわけですが、ある意味では、話がつながっていないような気さえもします。なぜなら、弟はこのたとえ話の豊作の金持ちのようではないからです。この弟の方は、財産がいっぱいあってもっともっと、と言っているわけではないし、私の作物、私の倉、私の穀物や財産!と言っているような、われのわれの、と言っている人ではないようにも思えます。しかもこの「貪欲」ということばは「さらに」と「持つ」が合わさったことばだそうですから、ますますお兄ちゃんのことを言っているのかとさえも思えます。じゃあ、弟じゃなくて、今そこに来ていないお兄ちゃんのことをイエス様はたとえ話に登場させておられるかというと、そういうことでもなくて、皆に言われている。質問した弟にも、イエス様の弟子たちにも、群衆の皆にも、そして私たちにも。豊かであっても、貧しくあっても、皆、人間は貪欲なのだ。―これは日本語の貪欲とは意味が異なりますけれども、それは後で説明します―それに気付いてほしい。そして、そこに注がれる神さまの恵み、祝福に気付いてほしい。そう思って語りかけられているイエス様のたとえ話です。
 
 このたとえ話の中での金持ちは、豊作だったんですけど、どうも喜んでないみたいですね。むしろ悩んでいます。「どうしよう」って。「どうしよう?私の作物をしまっておく場所がない」って。そういうわけで、前の私の倉を壊して、もっと大きいのを建てて、穀物だけではなくて、財産も全部しまっておこう、と。これで一安心。一生遊んで暮らせるぞ、さあ休んで、食べて、飲んで、楽しめ。と自分のたましいに言い聞かせて、「これで悩みが解決したぞ」と安心したところに、神さまに「愚か者、お前の命は、今夜お前から取り去られる」と言われてしまう。これはショッキングですけど、よく分かる話です。
 たとえば仮に私がすごく健康に気を使う人だったとして、もうスポーツジムに毎日通う、これで健康寿命も延びて元気で長生きできる、と思っている人だったとしましょう、そんなに鍛えていても、たとえば健康のために行ったジムの帰りに交通事故であっけなく死んでしまうことだってあり得るわけでしょう?だから人の命というものは分からない。神さまの手のうち。だからどんなに備えをした人でも、「いやお金があれば、先進医療も受けることができるから、命だってお金で買うことができるものんだ」なんて言う人が周りにいたとしたらですね、「そんなこと言ってても、突然、って言うことあり得るからね」とちょっとシラケた目で私たち見るかもしれません。
 そんなことで、私たちはこのイエス様のたとえ話を教訓として聞いて、それこそ仏教的に、モノやお金への執着を捨てて生きて行こうと、そういうことをこのたとえ話は言っているのでしょうか?そうではありません。
 イエス様はこのたとえ話のまとめとして、

21自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

 とおっしゃいました。この「神の前に富まない者はこのとおりです」「神の前に富むとはどういうことか!?」これが、まさに、このたとえ話の一番大事なポイントなんです。
 この神の前に富むとはどういうことか、これまで聖書を読む人々がいろいろと考えまして、たとえば一例としては、こうだと考える解釈があるんです。この先にイエス様が、たとえ話の続きのルカ第12章22節以下で、心配するな、っていうことをお語りになるんですね。何を食べようか何を着ようか心配するのはやめなさい、空の鳥を見なさい―ルカの方ではカラスのことをよく考えなさい―になっていますけれども、種まきもせず刈り入れもせず、納屋も倉もありません、と。―倉を建てた金持ちとの対比ですね―。ゆりの花がどうして育つのか考えてみなさい。栄華を極めたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。だから何を食べようか、何を飲もうかと心配するな、と、経済的なことを心配するな、神の国をまず求めなさい、とおっしゃった後で、33節から、イエス様はこうおっしゃるんです。

新約聖書 ルカの福音書第12章33節
33自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。

 この33節の「自分の財産を売って施しをすること」が、神の前に富む、ということなんだ、という解釈なんです。そうしますと、これも魅力ある可能な解釈だと思うんです。こんにちの私たちに対して、慈善活動を行ないましょうということになるので、われのわれの、ではなくて、自分のためにたくわえるのではなくて、与えられた金銭を神に感謝して受けたら、それを自分のものだと思わずに、分かち合いましょう。祈って、人を助けるために、慈善事業のためにそのお金を使ったり、クリスチャンの慈善団体を支援するためにお金を使いましょう。これは素晴らしいことなんですけれども、21節の、

21神に対して富まない者はこのとおりです。」

 の解釈がそれだとしたら、下手したら、施し、つまり寄付をして功徳を積まない者は、滅びるぞ(だから財産を売って壺や印鑑を買って教祖にささげなさい、それが神に対して富むことですよ)というようなですね、変なカルト宗教の教えとして悪用する人まで出て来るかもしれませんし、ここは丁寧に、神の前に愚か、というのはどういうことか、ということもきちんと考えないといけないと思うんですね。
 聖書が言う愚かさとか、愚か者というのは、世の中の価値観の「愚か」というのとは、意味が異なります。世の中の価値観では、このたとえ話の金持ちは、ある意味賢いですよ。先見の明がありますね。すぐに湯水のように使ってしまおうではなくて、ちゃんと考えて貯蓄と、老後の備えをしています。そういう意味では賢いんですけれども、聖書が「愚か」と言ったら、神を知らない愚かさなんです。もしくは「神を信頼しないという愚かさ」なんです。それは、自分の力や、持ち物や、行ないに信頼する、それらのものによって安心する、ということにつながるんです。
 イエス様は、たとえ話の前に「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい」とおっしゃいました。使徒パウロは、この貪欲について「貪欲は偶像礼拝です(コロサイ人への手紙第3章5節)」って言っているんです。
 貪欲がなんで偶像礼拝?全然結びつかないように思えるかもしれません。神さまを信頼して安心と思っていないので、周りにいろんなものを集めて安心しようとするんですね。それを貪欲って、「聖書は」呼んでいるんです。偶像礼拝というと、仏壇や神棚を拝んだりとか、目に見える神さまの像を拝んだりとか(お焼香は偶像礼拝に入りますかどうなんですか?)、そういうことだと思いがちなんですが、それは表面だけのことなんですね。偶像礼拝の本質とは、天地の創り主である父なる神さまから離れているので、そのまことの神のふところで安心しようとせず、他のものを集めて安心しようとする姿、これを偶像礼拝と呼ぶんです。だから宗教改革者マルティン・ルターは、お金も、地位も、名誉も、偶像になる、と言っていますね。他にあらゆるものが偶像になります。行ないもそうなんですよ。パリサイ人や律法学者たちの律法主義というのは、ある意味で偶像礼拝なんです。「よっし、これだけ、きちんと神の律法を守れていれば大丈夫だろう。私の魂よ、さあ安心せよ。」って、自分の行ないによって平安・安心を得ようとしているんです。(自分の行ないを礼拝しているんです。)
 それがまさに、イエス様の言われるところの「神の前に富まない」ことであるので、「神の前に富む」というのは、全く自分の行ないとか、持ち物とか、そういったものを誇りとしたり、頼りとしたりしない姿、「神のみに信頼して安心している姿」であることが分かります。ある人はこの姿を、【神との関係において富んでいる】と言いました。本当に豊かである。(たとえ行ないも金銭もなくても安心している。)

 ですから私たちが、神の前に富むため、神との関係において富むために、神様がどんなことをしてくださったかということですね。

 イエス様がこのたとえ話をなさった時におそらく念頭にあったかもしれないと思われるのは旧約聖書の詩篇第49篇です。抜粋して呼んでみますけれども
 
6彼らは 自分の財産に拠り頼み
 豊かな富を誇っている。
7兄弟さえも 人は贖い出すことができない。
 自分の身代金を神に払うことはできない。
8たましいの贖いの代価は高く
 永久にあきらめなくてはならない。
9人は いつまでも生きられるだろうか。
 墓を見ないでいられるだろうか。
10彼は見る。知恵のある者たちが死に
 愚かな者 浅はかな者も等しく滅び
 自分の財産を他人に残すのを。
11彼らの心の中では その家は永遠で
 住まいは代々に及ぶ。
 彼らは 土地に自分たちの名をつける。
12しかし 人は栄華のうちにとどまれない。
 人は滅び失せる獣に等しい。

13これが愚か者の道。
 彼らに従う者も その口のことばを喜ぶ。 セラ
14彼らは 羊のようによみに定められ
 死が彼らの羊飼いとなる。
 朝には 直ぐな者たちが彼らを支配する。
 彼らの形はなくなり よみがその住む所となる。
15しかし 神は私のたましいを贖い出し
 よみの手から 私を奪い返してくださる。 セラ

 と、悲しい、はかないような響きの中から、神がたましいをあがない出してくださる・救い出してくださる、という希望を歌っている詩篇です。

 私は、このルカ第12章のたとえ話とこの詩篇第49篇を読めば、すぐにあのイエス様の1万タラントのたとえ話を思い出すんです。王に1万タラント、今の日本円に直すと6000億円、そんな借金をしていたしもべを、王はかわいそうに思って―これも「はらわた痛む」っていうことばですー断腸の思いで、わがことのように痛んで、深―くあわれんで、その借金を免除してやった。この借金とは、私たちの神の前の罪です。その罪の代価を支払うために、主イエス・キリストは、十字架へと向かわれた。その尊い血の犠牲によって、私たちの罪はゆるされました。使徒パウロによるコリント人への手紙第二、第8章9節にこうあります。

新約聖書 コリント人への手紙 第二第8章9節
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

 これは、イエス様が貧しくなられたという意味は、家畜小屋で貧しいマリアとヨセフの貧しい大工の家庭にお生まれになったということよりも、全能の神の前で、神の栄光に富んでおられた方なのに、人間になられた、そのことを「貧しくなられた」と表現しているんです。そして、そのキリストが人となって、しかも十字架にかかってくださり、ご自身の尊い血潮という6000億円のいやそれでも足りない計り知れない代価・身代金を払ってくださったので、私たちは「キリストの貧しさによって富む者」とされた。つまり、「神との関係が豊かな者として」神のみ前に立つことができる。これが、【神の前に富む】ということです。

 ですから私の皆さんの魂を贖い出してくださった方、生活のことであくせくしたり心配しがちな私たちひとりひとりに、おまえのいのちを買い戻したいんだ、と親しく語りかけてくださるお方の手には、釘の跡があるんです。この方は、民事のことで気をもんでいる弟に向かって、「そのような裁判官にはならない」とおっしゃりながらも、もっと別の重大な意味での裁判官として、世のさばき主としてやがてこの世界に来られる。またその再臨を待たずして、私たちが地上の生涯を終えたとしても、天の御国を、相続財産としてくださる。それは、豪華な宝が天国にあるというよりも、永遠に、イエス様が婚礼の祝いの宴会にたとえられたような、永遠の祝福に満ちた世界が待っている。この相続財産を受けた神の愛する子と神に呼ばれている皆さんです。その愛する子に、どうして御子キリストと一緒にすべてのものを恵んでくださらないことがあろうか、と神は聖書を通して皆さんに約束しておられます。この神の前の豊かさと、この地上においても、どんな苦境でも神が皆さんを守って下さるという、その安心の中を、歩んでくれと、主は皆さんに呼びかけておられます。

お祈りをいたします。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様は、平安のない私たち、いろんなものを集めて安心しようとする愚かな私たちをあわれんでくださって、そのたましいをあがなうために、最も高価な贈り物をしてくださいました。その犠牲と愛が大きすぎて、私たちにははかり知れません。1万タラントでも足りないほどの、金や銀によらず、子羊のようなキリストの尊い血潮によって、私たちを買い取って下さり、あなたのふところの中で、自分が自分のたましいに語りかける不確かな「安心せよ」ではなく、神の確かな「安かれ!」というみ声を聞いて、天の御国という計り知れない相続財産を与えられて、地上での守りも与えられた者として、安心して神の前に富む者として歩むことをおひとりひとりに、すでに得させてくださっていますことを心から感謝いたします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

#ルカ12章 #愚かな金持ち

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