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【文書版】礼拝メッセージ『レギオン~時代の霊~と大切な一人のいのち』

✴️先日2022年6月19日(日)の礼拝メッセージのテキスト版(全文)もここに掲載いたします。
礼拝説教【レギオン~時代の霊~と大切な一人のいのち】
新約聖書 ルカの福音書第8章26~39節(新改訳2017)

26 こうして彼らは、舟で、ガリラヤの反対側にあるゲラサ人の地に着いた。
27イエスが陸に上がられると、その町の者で、悪霊につかれている男がイエスを迎えた。彼は長い間、服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいた。
28彼はイエスを見ると叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください。」
29それは、イエスが汚れた霊に、この人から出て行くように命じられたからであった。汚れた霊はこの人を何回も捕らえていた。それで彼は鎖と足かせでつながれて監視されていたが、それらを断ち切っては、悪霊によって荒野に駆り立てられていた。
30イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「レギオンです」と答えた。悪霊が大勢彼に入っていたからである。
31悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行けと自分たちにお命じにならないようにと懇願した。
32ちょうど、そのあたりの山に、たくさんの豚の群れが飼われていたので、悪霊どもは、その豚に入ることを許してくださいと懇願した。イエスはそれを許された。
33悪霊どもはその人から出て、豚に入った。すると豚の群れは崖を下って湖へなだれ込み、おぼれて死んだ。
34 飼っていた人たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や里でこのことを伝えた。
35人々は、起こったことを見ようと出て来た。そしてイエスのところに来て、イエスの足もとに、悪霊の去った男が服を着て、正気に返って座っているのを見た。それで恐ろしくなった。
36見ていた人たちは、悪霊につかれていた人がどのように救われたか、人々に知らせた。
37ゲラサ周辺の人々はみな、イエスに、自分たちのところから出て行ってほしいと願った。非常な恐れに取りつかれていたからであった。それで、イエスが舟に乗って帰ろうとされると、
38悪霊が去ったその人は、お供をしたいとしきりに願った。しかし、イエスはこう言って彼を帰された。
39「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」それで彼は立ち去って、イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広めた。

 主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
 今日もご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。

 「レギオン」という悪霊の名前、そして聖書に記されたこのできごと、一度聞いたら忘れがたいできごとの一つであると思います。
 聖書には、一度聞いたら忘れられない話がたくさんあるわけですね。放蕩息子の話、この暖かいお父さんの愛の話、誰もが聞いて感動するわけですね。他にも99匹の羊を野に残してでも1匹の羊を探し求めるやさしい羊飼いの話、両方ともこれはイエス様の「たとえ話」なんですけれども、これもまた、一度聞いたら忘れられない話の一つだと思います。
 けれども、聖書の中の忘れがたい話の中でも、少し趣が違うと言いますか、どちらかというとサロメの話に近いんですよね。(聖書にはサロメという名前は記されていませんけれども、ヘロディアの娘ですね)踊りを踊って洗礼者ヨハネの首を望んだ少女の話、そういったのに近いおどろおどろしさというか、そういった意味で、聖書の中でも、ある主の恐ろしさと言うか、とっても奇妙で、ことばの持つ物凄い迫力があって、迫ってくる話、しかも私たちの心の中の「何か」がゆさぶられる話、私たちの心の中に色んな思いが去来するような、そんな力あるみことばなんです。そしてさらに恐ろしさだけでなくて、それを大きく超えるイエス様の物凄い力と、そして、一人の人間をとことんまで大切になさるイエス様の愛がほとばしり出て来るようなできごと、それが今日私たちに神のことばとして与えられました。
 この悪霊の名前、レギオン、これは非常に耳に残りやすい印象深いことばですね。特撮怪獣映画のサブタイトルにもなったことがあるくらいですが、この悪霊の名前であるレギオンということばは何を意味するかというと、軍隊の名前なんです。当時最強の軍隊だと言われていたローマの、えーと百人隊長って聖書に登場しますね。その人は100人隊のリーダーですね。その隊を5つか6つ並べて5、600人になりますね。その塊を10個並べて、一個師団というそうですが、5,000人から6,000人、それに付随する騎馬兵と戦車―戦車といっても大砲付いているやつではなくて原始的な木でできていて馬で引っ張るやつです―それに兵たんの部隊がついている、最強のローマ軍の恐ろしい軍勢なんですね。
 ある牧師先生が、このレギオンという名前について、ある牧師先生が、20年近く前ですけれども、こんな文章を書いていらっしゃいます。

 「(レギオン、)それは軍隊の名前である。なんと今の時代にぴったりなことだろう。日本も多国籍軍への参加をいち早く表明し、日本軍を―自衛隊という言い方していないんですねこの先生は―イラクの地へ送ろうともくろんでいる。しかし、私たちは知らなければならない。―その次が大事ですね―軍隊が、【戦争こそが、人間を非人間化する悪霊であることを。】戦争はまさに、人の名前を奪い取り、人間の尊厳を根本から破壊するものである。そして、【人間を使い捨てる社会を作り上げる悪霊】に、私たちの国は取りつかれようとしている。これはもう18年も前の文章ですけれども、今のウクライナ情勢を考える上でも、とても大事なことではないでしょうか。いつの時代でも、どんな国でも戦争は人間を非人間化してしまう、人間ではないものにしてしまう。それが、まさに悪霊レギオンの働きであると言えます。
 そしてこれは何人かの方が推測していることなんですけれども、このゲラサの地の墓場に住んでいたこの男、彼は、退役軍人であったのではないか、彼は戦争のトラウマに苦しんでいたのではないか、という話です。このレギオンという一個師団に属していた人か、100人隊か1,000人隊の隊長であったか、司令官であったか、もしかしたら自分の命令が原因で、あるいは自分の判断ミスで、部下の兵士を死なせてしまった人であったか、これらは推測にすぎませんけれども、あり得ない話ではありません。こんにちで言うPTSDになって、自分の犯した罪にさいなまれる。その時の犠牲になった兵士の亡霊が、毎晩夢に出て来る。その罪意識が、彼を墓場での自傷行為に走らせていたのかもしれません。日本でも旧日本軍として先の大戦に参加したおじいちゃん・ひじいちゃんが、その時のトラウマを思い出しては家族に暴力をふるった、という話も見聞きしまして、戦争がいかに「人間性」を失わせてしまうものかということがここに語られている、と読むこともできます。
 ただ、そうしますと、ことを戦争だけに限定してしまうことになります。この一連のイエス様と出会ったゲラサの男の話が、力をもっていて、色んな思いを私たちの心の奥深いところに呼び起こすものですから、今まで、いろんな人がいろんな視点から、このできごとをとらえてきました。そしてさらに、より大きな視点でみれば、一つにまとまると言いますか、一つのことに、集約していくと思うんですね。

 他に現代的な読み方とすれば、たとえば、私は、高校時代、不登校、ひきこもりをして非常な苦しみを通りましたから、このゲラサの男に自分を重ねやすいんですけれども、彼も、誰とも関係を持たずに墓場にひきこもっています。
 今の50、80問題ですね。これはもちろん大変な問題なんですけれども、もうちょっと若い学生ぐらいのひきこもりのことを考えて、本質的なところまでみて、不登校、ひきこもり、というのが、本当に悪いことなのか、ということは、数年前、10か20数年前から、言われていまして、不登校の子供たちに関わる時に、その子が学校に行くことを目当てとするアプローチは逆効果になるということですね。「学校に行くのが〇、学校に行けないのが×」という視点をもって支援者なり親なりがアプローチすると多くの場合失敗する、ということですね。これは私当事者でしたからよーーく分かります。優しい声で来たとしても、「学校に行けないのが×」つまりあなたはダメだ、という価値観と、エネルギーをもって支援者や親が来るわけでしょう。人は「あなたはダメだから変わりましょう」という意図を持ってやってくる人には心を閉ざすからです。逆に「変えよう」ではなくて「分かろう」という心だけをもってやってくる人、そして受ける側の心を操作しようと、―分かってあげたその先に学校に行くように説得しようとか、話を聞いておいてそこから特定の宗教に入信させたり興味を持つように話を持っていこうとか―そういう話の持って行き方の操作なしに、本当にその子に興味をもって「一人の人間」として扱ってくれる人の前では、だんだんと心を開いて、希望を語るようになります。そして、必ずしも学校に行くという形ではないかもしれないけれども何らかの道を、どんどんと、生き生きと、前に向かって、進んで行くようになります。
 そもそも先日に触れたとおりに、近代の学校のモデルというのは、19世紀のプロイセンですね。軍隊の下部組織として作られたものですから、―もちろんその頃よりは改良を重ねられています―人間というのは本来とても多様な存在なので、色んな工夫で90何パーセントの子供は包摂できると思いますけれども、すべての子供を一つのシステムで包摂するなどということが、土台から無茶なことであると、ひきこもり経験者の私は思います(コロナ以降、学校は制度疲労を起こしているとも言われています。先生方もとても疲弊していらっしゃいます)。
 それから古代や中世の修道士や修道女たちはある意味引きこもりなんですよね。私は妻と「彼ら彼女らの中にはHSPですね、「ひといちばい敏感なひと」であるHSPの人が多かったんじゃない?」「きっとそうよそうよ」という推測を、語り合ったりすることがありますけれども、根拠が無いわけじゃなくて、HSPの人って人の集団の中にいると、脳が刺激に対して深く処理する、脳が敏感であるがゆえに心理的エネルギーの減りがすごく激しいんです。そこで一人の時間を持ったり、自然の中に出たりすると回復するんです。
 ですので、たとえばヒエロニムスという修道士がそうだったかは分かりませんけれども、砂漠に引きこもりました。彼は人間関係が苦手だったと言われています。でも彼の脳の深く処理するという力が生かされたと思うんですけれども、一所懸命旧約聖書のヘブル語を勉強してですね、ウルガタっていうラテン語訳聖書を完成させました。これがローマカトリックの標準訳として約1,500年以上使われるということになりました。
 まあそういう偉大な功績を残すかどうかは本質的には関係ないんですけれども、ここを読んで、現代や古代や中世のひきこもりが、悪霊のしわざであると、考えるのは、少し的がはずれていると言えるでしょう。

 それから2番目―これらは全部重なってくる部分はあるんですけれども―、このレギオンというのは、大勢を意味します。6,000もの顔のある悪霊ですね。ですから、これは、今風な言い方ですと、一人の人の中に、多くのキャラがいて、それらのキャラを相手によって使い分けなくてはならなくなっている現代人の象徴だと取るような理解ですね。これは確かに現代の問題としてはあると思います。中高生なんかは特にですね、キャラを演じないといけない。「お前はこういうキャラだろ」っていう期待を読み取って、演じることが求められる。そして友達向けの顔、親向けの顔、教師向けの顔っていうのを使い分ける、それをレギオンに取りつかれている姿だ、いう見方をしてキャラを使い分ける学生を責めるのは、おそらく少し解像度が荒くて、それはなぜかと言うと、平野啓一郎という人が、2012年に出した本の中で「個人から分人へ(分けるに人と書いて「ぶんじん」)」ということを言っているんですね。個人というのは、今までそれ以上分けられない単位だと考えられてきたけれども、分けることができるんだと、それを分人(ぶんじん)と呼んでいるんですね。どういうことかと言うと、人には色んな顔があるんだと、それは職場での顔とか、家での顔とか、使い分けるのはある意味で相手に対する愛なんだという方向の理解ですね。
 職場には職場向けの顔があって、「おはようございます」「お疲れ様です」きちんとした態度をするわけですね。そこで、家でソファーに寝っ転がっているような時の顔を見せて「だるーい」とか「ねむーい」とか言っていたらいけないわけですよね。ですから相手に、そこで求められている態度を取るということは、良いことだと言えるわけですね(ビジネスマナーだけに限らず)。
 逆に、恋人とのデートの時に、あるいは配偶者や子供や孫に、あるいは親に接する時に、ビジネスの時の顔で、接することは私たちしないですよね。当然相手に求められているであろう顔を見せて反応するわけですし、それ用のコミュニケーションをするわけです。(このコミュニケーションの反復のパターンのことを人格だと呼ぶんだと平野さんは言うわけですね。)
 (まぁそこまで言っていいのか分かりませんけれどもともかく)ですから顔を使い分けること自体は何にも悪いことでは、おそらくなくて、問題は、中高生の多くが、そのシーンによって求められるキャラの多さ、あるいはその圧迫・圧に苦しんでいるんだと見た方がいいと思います。スクールカーストという呼ばれ方をする学校でのカーストがありますけれども、そのカーストが求めて来るキャラを演じることが求められてくるわけです。そのスクールカーストというある意味での彼らの中での「世間(あるいはその「世間」が流動化したところのものである「空気」)」の圧に苦しむんです(私の学生時代の経験からしても)。「LINEグループ」という世間の圧に苦しむんです。後で述べますけれども、キャラを使い分ける現代人がレギオンつきではなくて、その私たち現代人をあるいは日本全体を?もしかしたら世界を?取り巻く「空気」というものに、人間を非人格化する悪霊がかかわっていると見る方が多分、解像度が良い理解だと思います。

 さて3つ目の理解は、これも重なって来るんですけれども、この悪霊つきの男は、心の病、精神病あるいは精神障害であった、という方向性の理解ですね。
 その方向の理解で、もし礼拝説教として私が講壇から、「精神病は悪霊つきですから、イエス様はここで悪霊を追い出されたでしょう?だから現代の精神病は信仰によって癒されます。」とか、信仰があれば、「心の病にかかることはないのです。」などと語り続けたとします。礼拝には、うつ病か、統合失調症かの当事者の方がいらしていたとしたら、たぶん確実に私のその礼拝メッセージで少しずつ悪化していきます。間違いなく悪化します。それは私も鬱病とは言わなくても、「鬱状態」を経験したことがありますからよく分かります。それは「あなたは悪霊つきです」と言うに等しいことですから、相手を否定することばだからです。相手にバツのシール・ダメシールを貼りつけて、ある意味で関係を断ち切ることばだからです。
 それは考えてみれば当たり前で、そういう心の病は、うつ病も一部そうなんですけれども、統合失調症等は特に、「関係の病」だからです。ですからオープンダイアログという方法があって、グループの会話だけで治っちゃう。または症状が緩和されるんです。つまり、一切否定されないで、そのグループに受け入れられる経験をすると、関係が結ばれますね。そうするとよくなってくるんですね。
 それまでの人生に、あるいは社会もしくは世間との関係をうまく結べなくて、あるいは関係性にひずみがあって、そういう病と「呼ばれるもの」になっているんですけれども、北海道浦河のクリスチャンのソーシャルワーカーむかいあちいくよしさんが作った「べてるの家」というのはとても象徴的ですね。みんな元気に病んでいるというか、心の病気だけど、ある意味で心の病気ではない人よりも元気に、商売やったりいろいろやって、生き生きと、苦悩をかかえながらも、とっても幸せそうに、やっているんですよね。それを見ると「病んでいるのは私たちの社会の方じゃないか??」とさえ思えてくる。実際そういう見方もできると思うんですよね。社会の方がー世間かもしれませんけれどもー高度経済成長時代の影響も少しはあると思いますけれども-、多様な人を包摂できない窮屈な社会になると、心の病にかかる人というのは増えてきますので、心の病の当事者の方が「今の社会の方が実は健全ではないんですよ、病んでいるんですよ」って病気になることによって無言で教えてくれている、表現してくれている。という見方・言い方もできるんじゃないかと思いますね。だから、このゲラサの人を心の病、精神病、精神障害と見るべきではないんですね。今日、和製テゼの歌をご一緒に歌いました。「キリストの平和」。他にも「見よ兄弟が」などの、たくさん純粋な、単純素朴な、素晴らしい讃美をたくさん作曲なさっている方、塩田泉さんというカトリックの司祭の方なんですけれども、この方は30年近くうつ病でして、今もそうかなと思いますけれども、教会の働きはほぼ、ずっとできなくて、ただ時々素晴らしい讃美の歌を作るんです。うつ病のままで。もし塩田泉神父が、ゲラサの男だと言うんだったら、悪霊によってうつ病になっているのだとしたら、こんな素晴らしい日本中で世界中で歌われている讃美の歌を、作れるでしょうか?答えはNOだと思います。―もちろんどんな信仰者にも悪霊は誘惑するという意味では、塩田泉神父も毎日悪霊と戦っていらっしゃると思いますけれどもー、それは私たちも同じです。彼が素晴らしい讃美の歌をお作りになるのはまさに聖霊の働きだと思いますね。「栄えの主イエスの」というとっても教会で愛されている讃美の歌を作ったアイザック・ウォッツという人も心の病にかかっていた人であったと言われています。彼らが病んだのは、教会の組織のひずみなのか、彼らが敏感すぎたのか、分かりません。複数の見方ができるでしょうけれども、うまく適応できなかったというか、そういう方向のことだと思います。うつ病も人間関係によってなったりしますので、人格として尊重されて扱われることや、人間性を取り戻すということが、ここでとてもキーになってくることなんだと思います。(もしかしたら彼らにとって、賛美の曲を作るということが、人間性を取り戻すことだったのかもしれません。それは分かりませんが。)

 ここでゲラサの男が正気に返るために、豚がどどどどどぉっ!と物凄い迫力で湖になだれ落ちて死にますね。それは悪霊がイエス様にそう懇願したからです。底知れぬところに落とさないでくださいって。ちょうどそこに、たくさん飼われている豚がいたので、その豚に入らせて下さい、と言った。イエス様はそれをおゆるしになったからです。
 それで豚飼いたちはどうしたでしょうか?あの裸同然で暴れていた墓場の男が、きちんと服を着て、おとなしくなって、正気に返って、イエス様の足元に座っているのをみて、「ああ素晴らしい、奇跡だ、彼が治ったぞ」って、喜ぶんではなくて、恐ろしくなった。そして、イエス様に、この土地から出て行ってください、って頼んだんです。彼らは非常な恐れに「取りつかれていた」、ってルカは記します。このイエス様の力に、驚いて、びっくり仰天して、神をあがめたというのでもなく、自分たちの地域の仲間が癒されたといって喜ぶのでもなく、ただ得体の知れないものを見ておそれに取りつかれたんです。豚を飼っていたということから、ここは異邦人の地であったということが分かります。豚というのはユダヤ人は汚れた動物だと考えていましたから飼うことはありません。さらには、この豚というのは、ローマ軍の兵士たちのための、食料として飼育されていたのではないかとも推測ができます。
 ですから彼らの恐れは一番はイエス様への恐れなんですけれども、正しい「畏れ」ではなかったので、この正気に戻った男と一緒にイエス様の足元に座って、イエス様の教えを聞くということはできなかったんです。千人隊長とか、ツロフェニキアの女のような異邦人のように、正しくイエス様を畏れて、イエス様をメシア、救い主として認めることができなかったんですね。ある意味で悪霊がもたらすような恐れにとらわれただけであった。

 一方同じできごとがマルコの福音書第5章にも記されていまして、この時に死んだ豚は2,000頭いたことを記して、経済的損失のことを言って、それは一人の人間の救いよりも経済的価値の方を優先した彼らの心というものをあらわしているとみることができます。
 これは、現代の時代精神ととてもよく通じます。近いところで言えば、メンタリストDaiGoさんの「ホームレスの命は軽い」と言った発言ですね。他にはもっと前のやまゆり園での障がい者を何十人も殺害した植松被告のことですね。これらは共通した価値観に基づいています。世の中の人間には有用な命と、無用な命があるんだという考えにとらわれています。それはたぶん、生産性があるかどうかなどの、経済的価値の有無によってはかられるといった類いの価値観です。だから寝たきりでしかも言葉を発せない障がい者を生かすために税金を使い続けている。だから彼らを殺すことによって、僕は、―経済的損失を減らすことによって、という思想によってでしょう―「役に立つ人間になれた」、って言っているんです。奥田知志牧師が面談した時に。どうでしょうか?恐ろしいことのように思います。この思想を、ナチスのようだと、多くの人が指摘しました。でもそれよりずっと前に、ドイツの牧師先生方は、そういう思想を、「時代の霊」と呼びました。これは、おそらくヒトラーの時の傷というものが、ドイツのクリスチャンたちの心に深く刻まれているし、その時に働いた悪霊の力というものに、警戒する心が、育っているということでもあるでしょう。
 人間を、役に立つか立たないか、有能か無能か、そんなことで、人間を人間として見ずに、モノとして、扱うこと、これがまさに悪魔的な精神とも言えましょう。それは何もDaiGoさんや植松被告だけがもっているのではなくて、私たちはそういう時代の霊を、空気のように吸って生きていますから、私たちも彼らほど極端でなくても、そういう精神を自分の中に取り込んで、その価値観でもって他人を責めたり自分を責めたりして生きていることがある。ですからまさに、ひきこもっているかいないか、心の病や障害のなのか、それとも心が「健常で健康なのか、そういうことは一切関係無しに、まさに全員が、」もっと言えば、この社会・世界全体が、レギオンに取りつかれ、「無用な者?」になることへの恐れにとらわれて、暴力にとらわれて回っている。その一番悲劇的な現れが、人間を使い捨てる「戦争」というものにもなることがある。それは国境や国際法という鎖や足枷だけでは縛ってはおけません。

 それでは私たちはどうすればいいでしょうか?もう答えは出ています。この主イエスがすべての答えを与えて下さっています。自分の存在を、何かができること、なんらかの有用性や生産性があること、そういうことでしか示すことができない私たちの人間存在の悲しさ、その状態を罪と呼ぶわけですが、そういう者として、自分自身もまた、底知れぬところに行って滅びゆく存在だったのが、自分もイエス様の放蕩息子のたとえ話のように、お金が無くなったら周りから使えないと言われて捨てられる、そんな異邦人の国の中で、自分自身を見失って、豚を飼って、イナゴマメで腹を満たしたいほどに、自分の存在を見失ったけれども、はっとわれに返った。僕は私はイナゴマメによって満たされる豚ではなくて、父の家に帰ろう。お父さんの家にあるパンで満たされる者として、いや、そればかりじゃない。最高の子牛をほふってもらえる、一番いい服と靴と指輪をつけさせてもらえる、お父さんの子供として、父なる「神の子」として、創世記で神様に創られたままの、神の似姿としての尊厳ある人間としての姿を回復するんです。「あなたは愛されるために生まれた」「わたしの目にあなたは高価で尊い」そんなふうに言ってもらえる、扱ってもらえる、父の家のふところ、その世界に、価値観に帰るんです。
 ひとりのひとを取り戻すために、このゲラサの場合は、多くの犠牲がありました。獣が犠牲になりました。豚という獣が2,000頭です。すさまじい量の犠牲です。この豚たちが湖におぼれ死ぬほど、この人がレギオンから解放されるためには犠牲が必要だった。
 でも、私たちが救われるために、イエス様はどんな犠牲を払ってくださったでしょうか?豚ではなくて、完全な神の小羊としての、ご自身が犠牲になりました。十字架の上で、その尊い命を投げ出して、湖の底よりはるかに深い、救いの手が全く届かないような深い死の底知れぬ所にまで、魂の地獄まで落ちて行ってくださったんです。私たちの身代わりにでした。そして三日目に復活なさいました。だから私たちは、その地獄の苦しみを一切味わうことなく、完全に罪がゆるされました。永遠のいのちが与えられました。絶対に失われることのない天国の約束です。私たちはこのレギオンの支配下にはもういないところに完全に移されたんです。私たちはもうイエス様の足元に座っているんです。確かにまだ悪霊は世の人々を支配し、繰り返しクリスチャンたちをも誘惑します。だけれども、もう支配下にはいないんです。その時代の霊の価値観は、幻のようなもので、嘘にすぎません。なぜなら、人のいのちの価値は、経済でも国でもなくて、いのちをお創りになった方が厳然とお決めになるからです。私たちは父なる神の家にいて、イエス様の足元に座っていて、聖霊という、レギオンという時代の霊とは全く別のきよい霊の教えてくださることによって、人間を人間として、見るまなざしで、自分を愛して、隣人を愛して生きる道に生きております。
 イエス様は、お供をしたいと願ったこの解放された人に、ここでは、ついて来なさい、とおっしゃいませんでした。

39「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」

 とおっしゃいました。イエス様はここでは、他の地でそうなさったように、起こったことを話すなといって沈黙を命じられませんでした。それは異邦人の地だから誤ったメシア観で担ぎ上げられることがないためでもありますけれども、むしろ、ここで、伝道者をひとり残して行かれたんです。もといた家に帰って、家族に告げなさい。

それで彼は立ち去って、イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広めた。

 何も難しいことではなかったんです。自分にイエス様が何をしてくださったのか。彼の存在そのものが、物凄い説得力をもって、家族にも、町中の人にも迫ってきます。なにしろあの彼が全く新しい人になっているんだから。
 私たちもまたそうではないでしょうか?新しい人になって全く新しい霊のもたらす価値観の中を生きている。勇気を失って、ああ自分は無能だ無価値だと、いのちの価値を見いだせない人たちに、出会って、私たちは自然に、世の人とは全く違うことばを語るのではないでしょうか?あなたが何かできるか関係ない。あなたはたいせつな人、あなたが生きていて嬉しいって。そういういのちとことばをもって、世に遣わされて行きましょう。

恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様は、悪霊にとらえられて、自分の価値さえ見いだせず、他人の価値も見いだせず、役に立つか立たないか、生産性があるかないか、そんなことに恐れ迷っている私たちをはらわた痛むほどにあわれんでくださって、そのあわれみと愛は極まって、たくさんの豚の群れではなくて、神の小羊なるイエス様の十字架の犠牲によって、私たちを救い出すというそのような、ある意味で愛の暴挙に出て下さいました。そのご愛の計り知れなさは、どのように感謝申し上げてよいか分かりません。イエス様は、自分の家で、町中で、神があなたにしてくださったことをすべて話して聞かせなさい、と私たちに告げて下さいました。私たちが主イエスと出会って新しい人になった、その事実を自然に、語り告げる者として、私たち一人一人が遣わされていますことを心から感謝いたします。主イエス・キリストの御名によって感謝してお祈りいたします。アーメン。

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