【文書版】✅礼拝説教「にせメシアなどに惑わされない」新約聖書 ルカの福音書第21章5~19節

✴️昨日2022年11月14日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✅礼拝説教「にせメシアなどに惑わされない」
新約聖書 ルカの福音書第21章5~19節(新改訳2017)
 
5 さて、宮が美しい石や奉納物で飾られている、と何人かが話していたので、イエスは言われた。
6「あなたがたが見ているこれらの物ですが、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることのない日が、やって来ます。」
7そこで彼らはイエスに尋ねた。「先生、それでは、いつ、そのようなことが起こるのですか。それが起こるときのしるしは、どのようなものですか。」
8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『私こそ、その者だ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人たちの後について行ってはいけません。
9戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」
10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
11大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。
12しかし、これらのことすべてが起こる前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出します。
13それは、あなたがたにとって証しをする機会となります。
14ですから、どう弁明するかは、あらかじめ考えない、と心に決めておきなさい。
15あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです。
16あなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにも裏切られます。中には殺される人もいます。
17また、わたしの名のために、すべての人に憎まれます。
18しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。
19あなたがたは、忍耐することによって自分のいのちを勝ち取りなさい。
 
 主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
 この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
 
 まずはこちらの画像をご覧ください【画像一枚目】。
 これは天苑宮(てんえんぐう)というものですが、韓国の清平(チョンピョン)にあります、統一協会の建設中の施設です。総工費約300億円ということで、今の状況から見て、「もし日本からの献金が止まってしまったら、来年五月のオープン式がずれ込むのでは」という人もあるそうです。
 その300億円も、日本の信者から吸い上げた献金が7割から8割使われているのでしょうから、私たちからすればとんでもない話だと思うわけですね。
 まあこういった豪華な建物をみて、報道の中で、宗教にこんなものがいったい必要なんだろうか?と、コメントしていた人もあったと思いますが、権力を誇示する目的もあるのかもしれません。
 私たち人間はですね、とにかく目で見るものに、圧倒されやすい、文字で読んだり、ことばで聞いたりするよりも、とにかく目で見たものに大きなインパクトと説得力を覚える、というのが、まあ人間の心理だそうですね。
 そういうわけで、ヨーロッパなどの国々に行きまして、カトリックでもプロテスタントでも、大変見事な教会堂建築を見る、それは、目を奪われるものですし、その中には芸術的に非常にすぐれた建築もあり、そして、その建築に、確かにイエス・キリストへの信仰のこころがありありと伝わってくるような、そんな素晴らしい心、が入っている建築もあるわけですね。ここにいるだけで、祈りに導かれるような、そんな空間ができていることがあるわけですね。あるいはそこで、何百年も祈りを重ねてきた人びとの息遣いが、その空間にあるのかもしれません。
 日本の教会堂建築もそういう素晴らしい信仰の心が透けて見えるような建築は確かにあるわけですね。その教会堂そのものが語っている、その地域に無言で何かを証ししている、そういった建物の素晴らしさ、というものを、私たちも県内外の教会堂に見ることができるかと思います。
 
 一方で何かですね、豪華さの中に疑問符を感じさせるような建物もあるわけですね。それは虚飾と言いましょうか、この天苑宮(てんえんぐう)などは、まさにそうだと思いますけれども、さわやかで綺麗で見事な建物のイメージとは裏腹に、その背後には犠牲になって、財産を奪われて、家庭をめちゃくちゃにされて苦しんでいる人々がいる。そういった背景を知っている者にとっては、こういうものがいかに虚飾にまみれているものかと思います。
 
 イエス様時代の、エルサレム神殿、というのも―これは模型ですけれどもー―
 
【画像二枚目】

 まさにそういうところがあった建築です。これはユダヤの王であったヘロデ大王が大改修工事を行なった当時最高の建築であったと言われています。当時の世界三大建築と言われました。その壁面は地中海産の大理石で装い、また金をかぶせ、その輝きというのは、当時の歴史家によれば、太陽を直接見るかのようであった。そしてその大理石の部分は、輝く雪山のように見えた、と大絶賛をしているわけですね。
 これを大改修工事をしたヘロデ大王は、建築家としては非常に優秀であったと歴史家たちは伝えますけれども、残虐な王様だということで知られています。クリスマスが近づいて来ていますけれども、クリスマスによく読まれる聖書箇所によれば、イエス様がお生まれになって、2歳位になる時に、東方の博士たちがヘロデ王を訪ねてきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか?」と聞かれた時に、「ユダヤの王じゃと!?そんな者が生まれておってはならぬ!ユダヤの王とはわしだけじゃ!」と言って、ベツレヘムとその近郊の2歳以下の男の子をみんな殺させた。
 そういったことが聖書に書かれてあると同時に、当時の歴史家によっても、このヘロデ王というのは、家族であっても、親戚であっても、さらには自分の息子であっても、自分の王位を脅かそうとする者は、皆殺してしまった、そういう残虐な王様だったということが記されています。しかし聖書は、東方の博士たちの「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか?」ということばを聞いて「恐れ惑った」と書きます。この王様の残虐さ、というのは、この恐れから来ている。王座を失うことを極端に恐れている。この王様は、権力をふるっているように見えるけれども、非常に臆病な人間だったことを、聖書は鋭く描くんですね。
 ですからある意味で、彼の恐れの裏返しなのでしょう。この豪華な建築というのは。というのは、彼はユダヤ人の民衆をも恐れたわけです。ヘロデ王は、エドム人、イドマヤ人とも言いますけれども、純粋なユダヤ人ではないんですね。ですからローマに取り入って、ユダヤの王として君臨していても、なんだか民衆は、どことなくわしをバカにして、見下しておる。そんな、ユダヤ人のかすかな態度を感じ取ったんでしょうか?あるいは被害妄想なのかもしれませんけれども、とにかくなんとかしてユダヤ人の機嫌を取っておかねば、と思ったんですね。
 それで行なったのが、このユダヤ民族の誇り、エルサレム神殿の大拡張工事です。これが、ソロモン神殿が破壊されて、その後、ゼルバベルによって再び神殿が建ちますけれども、これがソロモン王様の時代のものと比べて非常にみすぼらしいものであったわけですね。これを、ソロモン時代よりも豪華な神殿をめざし、大拡張したわけですね。その神殿改修の目玉として行なったのが、「異邦人の庭」というものを作ることだったんです。それまでは純粋にユダヤ人の場所だったのが、観光ぐらいの意識で来る外国人にも門戸(もんこ)を開くことで、今の言葉で言えば「インバウンド収益」を画策したわけですね。これが大当たり。莫大な収益にあずかることで、大祭司以下の、神殿当局は、ヘロデ王の政策に極めて従順になった、と言われています。
 そして民衆も、そんな事情を知っていたかどうかは分かりませんけれども、当時の世界最高峰の建築と、うたわれたこの神殿は、ユダヤ民衆にもほとんど大好評だったようで、この神殿はわれらユダヤ民族の誇り、われらユダヤ民族のアイデンティティと、そういうふうに思われていました。
 そういう背景を知ったならば、この神殿の豪華さにビックリして話している何人かの人と、イエス様のやり取り、というのがよく分かってくるわけです。5節以下、
 
5 さて、宮が美しい石や奉納物で飾られている、と何人かが話していたので、イエスは言われた。
 
この奉納物、というのは、ヘロデ王様が奉納した、おおーきな金のぶどうの彫刻、などのものがあったわけですね。これらのものにビックリ仰天した人たち、それは他の福音書を見るとイエス様の弟子たちなんですけれども、その人たちにイエス様はこうおっしゃるんです。

6「あなたがたが見ているこれらの物ですが、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることのない日が、やって来ます。」
7そこで彼らはイエスに尋ねた。「先生、それでは、いつ、そのようなことが起こるのですか。それが起こるときのしるしは、どのようなものですか。」
 
 ここで、人びとはイエス様に、終末のことを聞いているんですね。しゅうまつと言ってもウィークエンドのことではなくて、世界の終わりのことですね。
 ここで私たちは、よく考えると、なんだか話が微妙につながっていないような気がするわけですね。イエス様は、この豪華な神殿が、「どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることのない日が、やって来ます。」というのは、要するに、徹底的に壊れる日が来るよ、とおっしゃっているわけですが、まあその神殿崩壊と、世界の終わりというのは、まあちょっと繋がってないんじゃないの?と現代の私たちは思いがちですが、当時のユダヤ人の意識では、もうこのヘロデ王が工事したこの神殿は、永遠のものだ、と思っていたわけですね。丈夫な、頑丈なつくりをしていたのでしょう。地震が来ても、雷が落ちても、びくともしないと、当時のユダヤ人たちは思っていたことでしょう。もし、もしも、これが崩れる日が来るのだとしたら、それは世の終わり、終末、それ以外には考えられないと思ったわけですね。だから当時のユダヤ人たちにとっては、エルサレム神殿の終わりは、世界の終わり、と思っていたわけですね。(ちなみに、この神殿が崩れる、と言われた主イエスのことばはこの時からわずか40年後に実現します。紀元70年、ユダヤ戦争のさなか、ローマ軍がこの神殿をバラバラに壊して、かぶせてあった金を溶かして持って行ったりしたんですね)
 
 そしてイエス様は、今日の8節以下で、あらゆる災害や天変地異、戦争や暴動そういったものをお語りになります。そして、そういったことが起こっても、終わりはすぐには来ない、とおっしゃる。そして、迫害も起こるが、それは証しをする機会になる。しかし、その証しを、あらかじめ何を話そうか、考えないことを決心しなさい、そして、忍耐することによって、自分のいのちを勝ち取りなさい、とイエス様はおっしゃっています。
 
 これらのイエス様のことばを、私たちは自分に語られたことばとして聴く。
それならいったいどう聞けばいいのでしょうか?おそらく、皆さんの中で、8節のことばが一番目に留まった方が多いのではないでしょうか?
 
8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『私こそ、その者だ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人たちの後について行ってはいけません。
 
 このことばは、イエスさまが、わたしの名を名乗る者、つまり、偽キリスト、キリストとメシアは同じ意味ですね。偽メシアがたくさん現れる、と。そして、私こそメシアであるとか、そういうことを言い出すんだ、ということですね。
 これを聞きますと、ぴったりではないか、と思うかもしれません。これだけ統一協会の報道がなされる中で、文鮮明・ムンソンミョン氏が、われこそ再臨のメシアだと自称していたからですね。
 そして、ともすれば私たちはこう考えてしまうかもしれません。この11節の疫病とは新型コロナウィルス感染症のことではないかとか、戦争とは、ロシアのウクライナ侵攻のことではないか、とか、そういうふうにつなげてしまうこともある意味無理もないことなのかもしれません。
 
 しかし気をつけておきたいことは、福音書の中のこういう箇所、―今日の箇所も小黙示録と呼ばれていますが―それの他ヨハネの黙示録や、旧約の黙示文学であるエゼキエル書やダニエル書の記述―を通して、世界情勢などと結びつけて、そういうことを言う人たちが歴史上たくさん現れてきては、ことごとく外れてきた、ということですね。たとえば、たとえばここに織田昭先生という新約ギリシャ語学者の牧師先生の34年前の講演の記録の文書がありますが、こういうふうに書かれてあります。抜粋しながら読んでみます(1988年のヨハネの黙示録第1章の講演ですね)。
 
「新約聖書の最後の書,ヨハネの黙示録を読み始めます。実は,ここに「緊急特別講演会」と銘打った案内が届いています。―牧師のもとにチラシが届いたということですね―今日午後 2時 30分から○○区の○○教会で行われる,ヨハネ黙示録に基づく講演会です。演題は「警告!『終末の接近とキリスト者の運命』」です。
これだけでも,「オヤ?」と思わせるのに十分なのですけれど,講演内容として挙げられている項目を見ますと,「反キリストの登場」,「大恐慌」,「死者の復活」……,以下略します。
テーマ自体は,私たちもヨハネ書簡とテサロニケ書の学びで取り上げました。今の時代に,何が起こっても驚いてはならないのです。パウロ式に言うなら,「自分こそ神である」と宣言する“滅びの子”まで出現するが,「だれが何を言い出しても騙されてはならない!」のです。
 
 ところが,講師 A氏の項目を見ますと,さらに,「“炎の警告”,“第三次世界大戦”,“富士山の爆発”,“日本沈没”,“アメリカの沈没”,“三日間の暗闇”,“彗星の衝突”,“キリストの再臨”……,その他」とあります。そして「目前に迫った終末への詳細なタイムテーブルを申し上げます」というアピールを見ると,これは実際に○○町へ行って,聴講して来ないと断定はできませんけれど,私がヨハネの黙示録から学んだものとは,大分違うように思います。(中略)この宣伝文を見ても,そんなに魅力も感じないし,動揺も覚えないのです。(中略)
 
 ルターやカルヴァンのような,宗教改革の指導者たちは,大体みんな,初めは黙示録に批判的な評価をくだしていました。カルヴァンは,この黙示録だけは注解書を書きませんでしたし,ルターは,これが「聖霊によって書かれたという形跡を感じることができない」と初期には言っています。(中略)
 
 さらに,「この世の終りの時間表」という一部の人の狂信的な見方,「大戦争が起こる」,「大災害が地に望む」,「キリストは何年何月何日に再臨する」……。そういう煽動は,ルターの時代からありましたが,そういうのに食傷もしていたはずです。乗れる人は乗って,充実して,一時的に励まされたと思いますが,ルターやカルヴァンのような,聖書の本来の趣旨と力を求めた人には耐えられなかったのでしょう。
 
 それでもルターは, 8年後には「福音の慰めの書」としての黙示録の価値を見直して,「この書物も我々に有益なものとして,正しく用いることができる」と書いています。「この世の権力と異端の教えが,今にもクリスチャンの群れを圧し潰すように見える中で,最終的にはイエス・キリストがお勝ちになる。教会は主と一緒に勝利して,天で輝く!」と。(中略)
 
 私たちも頭を冷やして,この中に込められた本当の趣旨と力強い信仰のメッセージを受け止めたいのですが,うんぬん、ということですね。
 
 まあこの34年前の講師A氏の講演は、陰謀論に近いものでしょう。
 また、世界的な神学者であるイギリス国教会のNTライト先生は、この福音書の小黙示録の箇所についてこういうふうに言っています。
 
 イエスが戦争、飢饉、地震などについて語ったのは、「これらのことが起こったら、自分や自分が置かれている社会が何を悔い改めるべきか注意深く考えねばならない」 と言いたいからではありません。 「・・・・・・うろたえないようにしなさい。・・・・・・まだ終わりではありません」 (マタイ24・6) と語るためです。
 この点に注意を払ってさえいたなら、「終わりのとき」についての人騒がせな教えは(最新流行の教えであろうと)、ずっと少なかったことでしょう。陰謀論は、紀元1世紀にも現在と同じように多く語られていました。イエスはそれらを脇に押しやって、「冷静になって、私を信じなさい」と語ったのです。
 
 こういうことであって、実はその34年前の講演のような方向ですと、終末で脅す方向に行きかねないんですね。―そうじゃない良心的なものもあると思うんですけれども―
 
 たとえばエホバの証人は、ハルマゲドンを非常に強調して、信者を脅して、「ものみの塔」や「目覚めよ」といった冊子配りに、信者を動員して、いわば労働力の搾取、と言えるものをしているわけですね。
 
 他にも、さまざまなキリスト教を装った新宗教は、この終末論を使って不安を煽ることが非常に多いんですね。
 
 人の心の不安や、恐れ、というものは、依存、を作り出す、と言われているんですね。不安や恐れを煽れば、人々を自分に依存させることができる。ですから、統一協会や他のカルト団体を見ればよく分かりますね。にせメシアは恐れとウソを使い、人々をコントロールします。しかし本当のメシアである主イエスは、他のすべてのみことばを聞いてもそうなんですけれども、いのちと、魂の平安を私たちに与えてくれるんですね。そして、使徒パウロが再臨を待つ者の生活として言うように、「落ち着いた生活(1テサロニケ4:11)」に導いてくれるんですね。
 
 新約聖書のテサロニケ人への手紙第一、第4章11節(新改訳第二版)にはこうあります。
「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」
 
 それは、落ち着いていつもの生活を送る、いつのも務めを誠実にする毎日を送る、ということなのです(ルターが「明日世の終わりが来ても、私はきょう、りんごの木を植える」と言ったと伝えられているように)。
 そういうふうに、平安に、心安らかに生きるわけですね。では私たちは、それに続いて、イエス様の語られている、迫害の中で、証しをする生活、とは、どうとらえれば良いのでしょうか?何か迫害と言われても、ピンと来ない人が多いのではないでしょうか?
 
 それは今が、日本では、一応平和な時代だからですね。クリスチャンだからと言ってですね、多少悪口を言われたり、多少職場で、やりにくくなったりするくらいでしょうか?統一協会などと同一視されることも全く無いとは言い切れませんが、ほとんどないわけですね。
 そういう中で、一方、今、むしろ多くの報道やジャーナリストや弁護士の方々が次々と統一協会や他のカルト団体のことを暴いて報道している、そして質問権や解散請求命令や反カルト新法あるいは、反セクト法ですか、の法整備などの話が出ている中、統一協会の方が「宗教弾圧だ、迫害だ」また「本物だから迫害されるのだ」と言ってますます結束と信仰を深めている面があるようですが、一方、プロテスタントやカトリックは、世間では伝統宗教の一つと位置づけられて、まあまあ、まともな宗教だと、あるいは善良な宗教だと思われていることもあるわけですね。
 
 ところが、日本でも百年ちょっと前、あるいは数十年前、このイエス様の言われる迫害、というのが、まさにキリスト者(クリスチャン)の日常だった時代があります。
 
 先週の火曜日に、日本基督教団東北教区センターエマオ、というところで開催されたカルト講座、というものに、私はズームで出席させていただきました。
 そこで、齊藤篤先生という方が講師をしてくださったんですけれども、今回の学びは政治とカルト、というものでした。
 国の政治というものが、あるいは国家というものが、カルト化する、ということがよくあるんだということですね。私が例をあげるとすれば、今のロシアを見てもそうなんですけれども、先日なんとロシア正教が、プーチン大統領を、首席エクソシストに任命する、ということが(先月10月27日に)ありました。最初は、ウクライナの「非ナチ化」という論を使っていましたが、これが最近は「脱サタン化」という言い方をするようになってきているんですね。
 でもそういうのは世界の歴史から見れば、そんなに珍しいことでは無くて、講師をしてくださった齊藤先生によれば、国というのは、実にしばしば、指導者の権威づけのために、宗教というものを、利用してきた、この人は神のなんとか、などと言って、指導者を神格化することによって、国力強化を図ってきたわけですね。
 
 初代教会時代のローマ帝国も、まさにそれをしました。ローマ帝国内の信教の自由を一応保障しました。しかし、それは括弧付きの自由で、ローマ皇帝を神格化して、神の子、と呼ばせて、皇帝礼拝を強要して、皇帝礼拝さえするなら、あなたがたは他のアポロンでもゼウスでもアルテミスでもヴィーナスでもバッカスでも拝んでよろしい、と、こういうことだったんですね。キリスト者はそれはできない、ということで迫害されました。
 実はこれと全く同じようなことが、日本でもあったわけです。それは、国家神道、というものですね。斉藤先生によれば、
 
国家神道とは、明治から第二次世界大戦まで続いた、「神道を利用した日本の国家体制建設」であり、
その目的は、日本古来の神々の子孫である天皇―現人神(あらひとがみ)と呼んでいました―を中心とした「神の国」の建設という大義名分が掲げられていましたが、
実際のところは、神や天皇の権威を利用した、国家の統制であり、
信教の自由は認められても、あくまで国家神道を優先する体制づくりなので、
治安維持法によって、思想・信仰の自由は厳しく統制されたわけです。
 
 どういうことかというと、教会の礼拝にも、憲兵がいるわけですね。牧師が、天皇の権威を少しでも落とすような説教をすれば、しょっぴいていかれる。そして尋問される。天皇とイエス・キリストと、どちらが偉いか、天皇も人間だとお前は言うのか、と質問する。そこで牧師が、聖書に基づいて、「キリストこそ唯一の神のひとり子であり、天皇も神の被造物である人間である」などと言えば、拷問、そして獄中死した牧師もいるわけです。
 つまり、天皇こそ、神である、ということを告白しさえしていれば、後は何を拝んでもよろしい、という、括弧付きの、制限付きの信教の自由だったわけです。
 そういうことで、一方でカルト団体にも気をつけながらしかし、もう一方で政治にも目を向け、また再び、戦争に突き進んでいかないように、しっかりと醒めたまなこをもって、政治を監視していくこと、また選挙や他の民主的な形で発言をしていくこと、これも一つの、証しをしていくことに入ると思います。私たちが常に何をどう信じ、国家の、あるいは指導者の誤った神格化、またそれに似たものに、はっきりとNOを言い続けて行くことも、こんにちの私たちの文脈で言えば大事なことであると思います。
 しかし、イエス様は不思議なことをおっしゃいます。あらかじめ、証しすることばを考えないように、言われます。
 
14ですから、どう弁明するかは、あらかじめ考えない、と心に決めておきなさい。
15あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです。
 
 礼拝の説教の場合は、あらかじめ考えるわけですね。(特にプロテスタントでは説教準備を大変重んじます)どの牧師も大変心を尽くして準備をいたします。40時間位、一番短くても20時間くらいはかけて準備をするわけですね。原文で読み、黙想をし、注解書を調べ、他の資料や、当時の時代背景も調べるなどなどをするわけですね。あらかじめ準備をするわけです。
 それらは、いいかげんなことを語らないためでもありますし、みことばの意味を深く共に理解するためでもあるんですね。ですから行き当たりばったりではいけないわけですけれども、本当のところでの究極の証しとは、見事な理論で誰も反論できないように、ということではなくて、15あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです。とある通り、その人の存在がかかった、その人の究極というものが出て来ることばだと思うんです。普段から、何にいかされているのか。
 
 私は、坂本龍馬のいとこである、沢辺琢磨のことを思いだすんですね。
 
 龍馬の従兄弟にあたる山本琢磨という青年が、酔った勢いで起こした不祥事で切腹を言い渡されたという事件がありました。その時龍馬は、琢磨の命を何とか救おうと力を尽くし、彼を北海道へ逃がし助けました。
 北海道に着いてみれば、当時の北海道では、ロシア正教会が伝道活動をしていました。血気盛んな琢磨は彼らの活動を、日本侵略に向けた情報収集と断じ、教会を訪問し、「来日した目的を言え」と、刀を持って司祭に問い詰めた。対する司祭は琢磨の問いに対して理路整然と答え、あなたは聖書の教えを知っているのか?と質問した。
 知らぬと答えた琢磨に「私を斬るというのなら、私たちの教えがどんなものか聞いてからでも遅くはなかろう」と言った。琢磨は以後、司祭の元に毎日通い、学んでいく内に聖書の教えに心服し、遂に1868年、彼は日本正教会の初信徒となり、1875年には、日本人で初の正教会の司祭(沢辺琢磨)に任命されました。
 
 この司祭のことば、沢辺琢磨が感銘を受けたのは、当然だと思います。まさに存在から出る言葉、多分、事前にあれこれ考えていないと思うんです。乱暴狼藉者が入って来た時に、ああ言おう、こう言おうなどと、頭の中をこねくり回して、考えていたわけではないと思いますね。イエス様がどう弁明するかは、あらかじめ考えない、と心に決めておきなさい。15あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです。と言われたとおりに、イエス様ご自身が与えたことばだと思います。別の言い方をすれば、イエス様が与えて下さる生き方そのものが、とっさの時に、一つのことばとして、口に出た、ということでしょう。
 
 イエス・キリストのいのちをいただいて、そのいのちを生きている人は、そのいのちそのものがことばになる。
 
 クリスチャン詩人の星野富弘さんが、

「いのちが一番たいせつだと思っていた時、生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」
 
 と言っている通りですね。
 だから私たちはですね、何も心配することは無いんです。主イエスは言われます。
 
18しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。
19あなたがたは、忍耐することによって自分のいのちを勝ち取りなさい。
 
 私たちは守られるということですね。そして、忍耐する、このことばは、ヒュポモネーと言って、これは、ただガマンガマンというのではなくて、希望、望み、というニュアンスがあります。そして、さらに、身に引き受ける、という意味もある。私たちが希望を持って毎日を耐え忍んでいくと同時に、一番苦痛を身に引き受けてくださったのは誰でしょうか?じつに神ご自身が、イエス様が苦痛を身に引き受けて耐え忍んでくださった。
 イエス様は、このエルサレム神殿が崩れるということをおっしゃいましたが、他にも、「この神殿を壊してみなさい、わたしは三日で建てよう」と語られましたけれども、それらのことばがユダヤ人の権力者たちに、神殿冒涜だ!と取られまして、裁判でそのことを追及されて十字架に向かわれるわけですが、その三日で建てるというのはご自身のからだの神殿のことをおっしゃっていたわけですね。つまり十字架と復活です。十字架におかかりになって、三日目におよみがえりになることによって、ご自身が神殿となられた。主イエスは十字架を身に引き受けて、そのみ苦しみを耐え忍んでくださって、父なる神も、先ほど父の涙、とご一緒に歌いましたけれども、ご自身の愛するひとり子を十字架につけるという、身が引き裂かれるほどの苦しみを耐え忍んでくださった。そのことによって、私たちのいのちを、神の所有としてくださったんですね。
 
 だからイエス様の言われた、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。というのも、死なないという保証ではないんですね。人間であれば100%の確率で、いずれどこかで死ぬわけなんですけれども、いのちは神の所有とされているので、皆さんが天国の祝宴から奪われることは決して無いんですね。
 
 ですから私たちは安心して、イエス様を通して神への信頼に、日々生きさせていただこうではありませんか。それが証しの生活です。必要な時に、神ご自身が、あなたの口に、魂の底から出る、信仰の証しのことばを、授けて下さいます。
 
お祈りをいたします
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様は、私たちに主イエスをお送りくださいました。いろいろな世界情勢などを見るに、不安と混乱の時代でありますけれども、かえって、この時代の中で、落ち着いた生活と、惑わされない心を、あなたがお与えくださっていますことを、心から感謝いたします。
どうぞおひとりひとりに、信仰の証しの生活を作って下さり、いざという時に、いや、どんな時にも、存在そのものから出る、いのちのことばを、語ることを得させてください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
 
#偽メシア
#にせメシア

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