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【文書版】✴️礼拝メッセージ【神と和解】新約聖書 ルカの福音書第12章49~59節(新改訳2017)

✅昨日2022年8月14日(日)の礼拝メッセージテキスト版もここに掲載しておきます⬇️

✴️礼拝メッセージ【神と和解】
新約聖書 ルカの福音書第12章49~59節(新改訳2017)
49 わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
50わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむことでしょう。
51あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。
52今から後、一つの家の中で五人が二つに分かれ、三人が二人に、二人が三人に対立するようになります。
53父は息子に、息子は父に対立し、母は娘に、娘は母に対立し、姑は嫁に、嫁は姑に対立して分かれるようになります。」
54 イエスは群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言います。そしてそのとおりになります。
55また南風が吹くと、『暑くなるぞ』と言います。そしてそのとおりになります。
56偽善者たちよ。あなたがたは地と空の様子を見分けることを知っていながら、どうして今の時代を見分けようとしないのですか。
57あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか。
58あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときは、途中でその人と和解するように努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行き、裁判官はあなたを看守に引き渡し、看守はあなたを牢に投げ込みます。
59あなたに言います。最後の一レプタを支払うまで、そこから出ることは決してできません。」
 
 主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
 まだまだ統一協会関係の話題で持ちきりだと思います。皆さんの方がよくご存じかもしれませんが、「親泣かせの原理運動」というのが一昔前にありました。最近のネット記事を少し読んでみますけれども、
 
 統一協会が日本で布教活動を始めたのは、1950年代、大学では、早稲田大学、東京大学などで活発に活動し、1967年には、「親泣かせの原理運動」として新聞にも取り上げられるまでになり、社会問題化しました。
 
 ということですね。今はCARPと呼ばれることが多いですけれども、プロ野球団ではないですね。原理研究会の英語の頭文字を取ったものですね。鈴木エイトさんというジャーナリストの方によれば、今は高校生も狙っているみたいですね。あとは、ある本にはこう書いてありました。
 
 善良な青年学生が突然、親をサタンとののしり、学業を捨てて家を出る、そのため、最初は「親泣かせの原理運動」と呼ばれた。
 
 ということですね。こういうわけで、家族の分裂をもたらしてしまうことなどがあるので「親泣かせの原理運動」と呼ばれたわけですが、実は、私は、今回の説教準備をしていまして、今日の聖書日課のこの箇所、非常に説教しにくい箇所だと思ったわけです。
 と言いますのも朗読をお聞きになってすでにお気づきになっていると思いますけれども、イエス様が非常に物騒なことを、あるいは、カルトみたいなことをおっしゃっているかのように一見見えなくもないからです。実際に聖書を悪用するような新興宗教などは、合宿などをするか何かしてですね、聖書のこういった箇所を好んで使ってマインドコントロール、洗脳におそらく使ったりするのではないかと想像します。しかし、ここで語られていることは全く違う。むしろ、イエス様がこの一連の話の中で一貫しておっしゃっているテーマは「和解」なんです。「平和」なんです。そのことに今日は心を集中していきたいと思います。そういうふうに、聖書の一見恐ろしい箇所は、主イエスの十字架と復活の光に照らして読む・聴くということが非常に大切です。
 
 先週の振り返りになりますけれども、先週は同じルカ第12章の32節~40節「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父なる神は、あなたがたに喜んで御国を与える」という確かな約束の中で安心して希望をもって、再臨を待ち望む、ということでしたね。その後に、管理人の話があって、再臨は遅くなるぞ、と思った悪い管理人が男女の召使いを打ちたたいていた姿を描かれて、イエス様が王として戻って来られることを忘れて、それならばと言って自分が王様か神さまであるかのようにふるまって、人びと支配して苦しめる人の姿をたとえ話の中でイエス様は描かれました。カルトの教祖などはまさにそうですよね。もっともカルトや異端の場合はそもそもイエス様を信じていないでしょうから、本当はここで言われている管理人ですらないんですけれども。

 その流れの中で、イエス様の今日の一連の話が続くわけです。皆さんきっと、この箇所が大好きで、愛唱聖句にしていらっしゃる方、は、おそらくいらっしゃらないと思いますね。それだけ読みにくい聞きにくい箇所とも言えるわけですが、
 
そのことについてある人は、イエス様にもっと近づこうとしたら、ピシャリと手を叩かれてしまったようだ、と表現しました。これ、凄くよく分かるような気がしませんか?「火を投げ込む」とか物騒なことをおっしゃって、今までのイメージと違う、と。たとえばクリスマスでも、赤ちゃんイエス様がお生まれになった時に、天使たちが「いと高きところに栄光が、神にあるように。地の上に平和がみこころにかなう人々にあるように」と歌いましたね。旧約聖書イザヤ書の預言によればイエス様は「平和の君」としてお生まれになった。(ここの君というのはナントカの君というような王子様と言った意味ですよね。)それからイエス様がエルサレムに入城された時、軍人が乗るような馬ではなくて、ロバにのって、柔和な王として、平和の王として、エルサレムに入って行かれた。それから、「わたしはあなたがたに平和を与える。その平和を、世が与えるようには与えません」とおっしゃってくださって、この世の国家や武力や権力が担保するような平和ではなくて、本当の平和を与えてくださるとおっしゃって下さった。こういう色んな箇所からみても、イエス様は、平和を与える方、というイメージが私たちにはあるんですけれども、
 
51あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。
 
 こんなことをおっしゃる。あれっ!?イエス様がおっしゃることは矛盾するんじゃないんだろうか?と思ってしまうかもしれません。
 
続いて52節からは、家族が分裂して対立するという話が出て来ますが、これは後で触れますが、54節から天気予報の話が出て来ますね。
 
54 イエスは群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言います。そしてそのとおりになります。
55また南風が吹くと、『暑くなるぞ』と言います。そしてそのとおりになります。
56偽善者たちよ。あなたがたは地と空の様子を見分けることを知っていながら、どうして今の時代を見分けようとしないのですか。
57あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか。
 
 ということですが、前半のところは、よく分かるような気がしますね。特に高知の農家のおじいちゃんやおばあちゃんに聞いたらですね、私も子供の頃「えー何で分かるが!?」って、びっくりした記憶が、うっすら残っているわけですけれど、2,000年前であればなおさらでしょう。ネットもテレビもラジオもありません。天気予報はありません。それならば、天気というのは、それこそ2,000年前、当時の農業にも、漁業にも影響するでしょうし、そういう産業に携わる人にとっては時には死活問題だったでしょうし、旅をするのにも天候によっては危険になりますし、メディアが何もなかった2,000年前の人らしく、群衆の皆も、そういう感性は鋭かったと思いますね。ですから、見事に、空の様子をみて、天気を言い当てて、準備することを知っている。
 そういうふうに、ある意味ではイエス様は群衆をほめていらっしゃる。しかし、それはこの世のことがらを見分ける能力がある、とほめていらっしゃるだけで、むしろ、その先のことを強調するためにおっしゃっているんですね。地上のことならそんなによく見分けられるのに、どうして、霊的なことがら、信仰のことがらは、ちゃんと見分けることができないのか?とおっしゃっているんです。
 しかも、その後に、群衆に「偽善者たち」と言われているんです。これは厳しいことばですね。これは群衆だけにではなく、聖書のみことばはいつも、自分に語られたことばとして聴くことがとても大切ですから、私たち全員に語られている。そうは言われても、私はできるだけウラオモテがない振る舞いをするように心がけています、と反発したくなる方もあるかもしれません。ここのもともとのことばは、「仮面をつけて演技をする人」という意味です。それならますますそんな者ではない、いつもホンネで生きていると思う方もいらっしゃるかもしれませんけれども、しかしここではこれは、日本語の「偽善者」ということばのもっている「ホンネとタテマエが違う」とか、そういう意味合いではなくて、パリサイ人や律法学者たちの言うとおりの仮面をつけて、そうやって宗教家たちの判断や言うことを鵜呑みにして、自分で考えることを放棄して踊らされている姿、といった意味なんです。だから目の前に来たイエスという者に向き合ってごらん。
 
どうして今の時代を見分けようとしないのですか。
 
 とイエス様おっしゃっていますけれども、この「時代」というのは、「時」ということばですね。しかも、新約聖書のギリシャ語は「時」を表すことばに二通りあります。「クロノス」と「カイロス」です。クロノスは、簡単に言えば、何時何分、と指し示すことができる単なる時ですね。そしてカイロスの方は、特別な時を意味します。「神の時」というふうに理解されるんです。「神さまのご計画の中で特別な意味がある時」あるいは「神さまとの関係において特別な時」あるいは「神の救いの時」という意味があります。そういう時が来ているんだ、それを見分けることができないのか?つまり、本物のキリスト、救い主である神の子イエスが来られたのに、その救いの「時」を見分けられないのか?と、そう問われている。そして、
 
57あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか。
 
とおっしゃったと書かれていますけれども、確かにこう翻訳するのも正しいですけれども、もう一つの訳ができて、
 
57あなたがたは、正しい方(義人)を、どうして自分で判断しないのですか。
 
 という訳もできるわけですね。そう訳した方が、一連の流れで、イエス様が話されたのは、こういうことであるということがすっきりとつながってくるんです。
 
【群衆の皆、あなたがたは、パリサイ人や律法学者たちに仮面をつけらされて踊らされているじゃないか。思考停止していないか。どうして自分で判断しないんだ?あなたがたは天気も社会情勢もちゃんと判断できる。それなら、今の「神の時」という霊的なことがらもちゃんと見抜けるはず。今あなたがたの目の前にいるわたしと向き合ってごらん。そして判断してごらん。正しい者、義人、つまり、世に来られるメシア、キリスト、救い主は誰か、自分の頭で、心で判断してごらん、そうすれば、今こそ、神に立ち帰り、神との和解を受け入れる時だということが分かるはずだ。】
 
こうして、この後に、一つの話をイエス様はおっしゃるわけですね。こういう話です。

58あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときは、途中でその人と和解するように努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行き、裁判官はあなたを看守に引き渡し、看守はあなたを牢に投げ込みます。
59あなたに言います。最後の一レプタを支払うまで、そこから出ることは決してできません。」
 
 というふうに、ずうっと一見怖いことばが続いているように見えます。牢屋からあなたは出られません、などということばを聞いて、私たちも震え上がるような気持ちがするかもしれません。しかし、よく考えて見ましょう。これはいったい何をおっしゃっているのだろうか、ということなんです。
 私は、クリスチャンになりたての頃は、ここをこう読んだんです。訴える人というのは、ケンカしたり、仲たがいしている人、そういう人と和解するように務めなさい、ということは、そういう仲の悪い人と仲直りしないと、地獄に落ちてしまうのか?と取って震え上がったことがあるんですね。自らカルト的な取り方をしているわけですが、そんなはずはないわけで、これはイエス様は何かを指し示しておっしゃっているんです。つまりたとえなんです。たとえ話というには短すぎますので、たとえなんです。
 ここで前後の文脈で読むことがとっても大事で、前後関係で意味をつかむこと・判断することですね。イエス様は第12章でこれまでずっと、再臨を待ち望むという一貫した流れの中で語っていらっしゃいます。それで、ここで急に人との和解という、人間関係の話が出てきたら、多少不自然なんです。もちろん、聖書学者、神学者の中には、ここは人との和解だと言う方もいらっしゃいますし、確かに可能な解釈なんです。しかし、やはり、ここは、「神との和解」と、そう取った方が、話が、一貫してすうっとつながるんですね。ですからここは「神との和解」と取った方がいいと思います。
 しかし、それにしても、厳しいことを言われているかのように思えますね。実際真剣な厳しさはあるんですけど、最後の1レプタを支払うまで、牢屋から出ることは決してできません、ということで、レプタ、というのは、もともと「薄いもの」という意味で、ぺらっぺら、という意味ですね。当時一番小さなお金の単位です。今の価値に直しても数十円ですし、銅貨だったわけですから10円玉みたいなものですね。だからびた一文のびた、のようなもので、この看守はびた一文まけてくれない、ということです。ここで、この人が和解ができないのは、借金のゆえだということが分かるのですが。
 おそらくこのたとえについて看守は誰で裁判官は誰で、訴える人は誰で、と分けてもあまり意味がなくて、すべて神さまと考えていいと思います。その神さまに私たちは、借金があった、ということです。負い目があった。負債があったということです。この負債が罪と言います。―罪と言っても法律的・道徳的に悪いこと、というよりもむしろ神に背を向けて、神に対して的外れな生き方をしているということが聖書の言う「罪」ですね。これを聖書は神に対する負い目、負債、借金とたとえているわけです。―でもよく考えたらこのたとえおかしいですよね。牢に入っているのに払えるのか?ということです。隠し財産でもあるか、自分を奴隷市場に売るか、そうでもないと、支払うことは不可能なわけです。
 そして、私たちが忘れてはならないことは、神に対するこの罪という借金を、人間には決して支払いきることはできません。どんなに善行を積んでも、功徳を積んでも不可能なんです。自力救済は無理なんです。そのことをイエス様は、たとえ話の中で、1万タラントの借金のあるしもべ、という話をしてくださいました。
 この人は王様のしもべでした。ところが1万タラントの借金があって、これは当時の王さまの身代金の金額だったそうで、今の価値に直すと、約6,000億円です。6,000億円という一生働いても到底返すことのできない金額ということは、つまり私たちの罪という借金を返して神と和解するのには、人間が一生善行を積んでも功徳を積んでも無理だということですね。だからこそ、その罪という借金のすべてを、免除してやったのは、イエス様の十字架上での身代わりの犠牲によってです。ペテロの手紙には、金や銀のような朽ちるものによらず、小羊のようなキリストの尊い血潮によって買い取ってくださったとありますけれども、まさにイエス様のあがないの代価によって、最後の1レプタ、ビタ一文まで全て完全に払いつくされた!だから私たちは買い取られて牢屋から出されて自由の身になった!これが、まさに福音です。
 で、これ少しことばで言い表すのが難しい微妙なところでもありますけれども、私の表現では、悔い改めないとゆるされない、というわけではない、というふうに言います。というのは、自分自身の罪に自覚のある人にとって、福音というのはグッドニュースで、あなたを完全にゆるした!という神さま側からの宣言が先に来たんです。それを受け入れる、ということ。これが福音を受け入れた、ということです。そのことをまさに「悔い改め」ギリシャ語でメタノイアと言います。
 そのメタノイアというギリシャ語が「悔い改め」と訳されるわけですが、悔い改めという日本語の翻訳がどうしても少しニュアンスにずれがあって伝わらなくて本当はこの日本語の当て方あまり良くないのではないかと思っています(「立ち帰り」の方が近い)というのも悔い改めるというと、「悔いて」「改める」と書きますから、今までのことを反省して、行ないを改める、あるいは心を改めるという響きがありますね。しかしそうではなくて、メタノイアをもっと旧約聖書のヘブル語(ヘブライ語)までさかのぼれば、シューブ、ということばで、単純に「帰る」という意味なんです。どこへ帰るのか、慈しみ深い神の愛のふところです。愛とゆるしのみを用意して両手を広げて待っておられる神のもとに、キリストイエスを通して帰るということです。それはまさにちょうど、「あなたをゆるした!」という電車がもうすでに来ていて、それに乗るということです。乗るというのが、よいしょ、と、乗る努力をするのではなくて、もうすでにゆるされていた、という事実を受け取るということです。これがメタノイアです。
 これが、「神との和解」の状態です。神との間になごむ思いが来ます。使徒パウロは、コリント人への手紙第二、第5章20節で(これは前の新改訳第二版の翻訳で読んだ方がいいと思いますが、)、こういうふうに言っています。
 
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
 
 いかがでしょうか?普通懇願すべきなのは、立場の弱い私たち人間の方であると思うでしょう?「そこをなんとか…」と言ったぐあいに。ところが!神さまの方が、どうか、って懇願してくださる姿、徹底して、あなたを求めて、あなたをいのちがけで愛した神のお姿がここにあるんです。まるで、親に悪いことばかりしてきた子供が水難事故でおぼれた時に、命の危険をかえりみずに飛び込んで、子どもの命を助けて、それで「おふくろ、ごめんな…。今までおふくろの気持ちも知らずに」って、仲直りした親子のように、いやそれにもまさる命を捨てる愛で、助けて、神はあなたと和解なさったんです。
 そうすると、最初の方のみことばの意味が分かってきます。【49節は飛ばして50節を読みますと】
 
49 わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
50わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむことでしょう。
 
 このイエス様が受けるべきだとおっしゃっている「バプテスマ」とは、水の洗礼のことではありません。このバプテスマとは、イエス様の十字架の苦しみのことを指します。そして「苦しむことでしょう」というこのことば(スネコマイ)も、「そのことで心がいっぱいいっぱいになっている。他のことにかかずらわっている余裕などないほどに、そのことばかりで心が占領されている」という意味なんです。つまり、イエス様は、あなたの罪という借金をビタ一文まで支払い終えるために、十字架に向かうということに、心がいっぱいいっぱいになっている、というイエス様のお姿がありありと描かれているわけですね。ですからイエス様が最初におっしゃった、地上に投げ込む火とは、確かにさばきの火なんですけれども、そのさばきの火で、じつはイエス様ご自身が焼き尽くされて下さった。あのゴルゴタの十字架の上で!だから、この火は同時に聖霊の火であり、愛の火なんです。その聖霊の火が、地上で燃えていたらと、本当に願っておられたし、それはペンテコステの日に実現しました。聖霊の火が弟子たちの上で燃えましたね。
 私たちはそういう主イエスと父なる神から送られた聖霊の火、燃える愛の火を受けているんです。そういうこの世とは異なるいのちを受けている。そうすると、“特定の宗教に入った”などといった浅いレベルではなくて、根本的な生きる姿勢というのが異なるようになるので、それはある意味で分裂をもたらすものでしょう。根っこの部分の価値観が異なると確かに摩擦や葛藤が生まれやすくなります。【以下を読まずにスクリーンに映す】

52今から後、一つの家の中で五人が二つに分かれ、三人が二人に、二人が三人に対立するようになります。
53父は息子に、息子は父に対立し、母は娘に、娘は母に対立し、姑は嫁に、嫁は姑に対立して分かれるようになります。」
 
 確かにこういったことが、今ではほとんど無いでしょうが、昔の日本では特に、「お前が耶蘇教に入るがやったら勘当するぞ。二度とうちの家の敷居をまたぐな」などと言われて、いのちがけでクリスチャンになったなどという話を聞きますけれども、カルト宗教と違うのは、おそらくカルト宗教の場合は、脱会しないと、あるいは洗脳が解けないと、親泣かせのままなんですよ。しかし、本当の福音の場合は、まことのいのちがあるので、ほとんどの場合、数年か、10年か、20年か経つうちに「ああお前が信じたキリスト教ゆうがは、悪い宗教やなかったがやにゃあ」言うて、和解の時が訪れるんです。
 こうして、あなたに、神との和解が来ました、そして人との和解もあなたに約束されています。この、「和解の福音」を心に、共に歩ませていただこうではありませんか。
 
お祈りをいたします。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
イエス様の、厳しいみことばを思います。しかし、その厳しさを、イエス様がすべて、十字架の上で受けてくださいました。さばきの火で焼きつくされてくださったのです。そして地上に、聖霊の火、愛の火が投げ込まれました。今、あなた様の燃える愛の火を受け取ります。あなたと和解して、あなたとの間に平和を保ち、また人とも和解して、人との間に、平和を作り出す者として、歩むことを、おひとりひとりに、得させてください。いやすでに得させてくださっていますことを心から感謝いたします。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

#親泣かせの原理運動  #神と和解

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