愛しさの形なんて(日記)

*****生まれる少し前*****

37週に入ったのに、往生際悪く毎日泣いてばかりいる。赤ちゃんはもういつ産まれても大丈夫らしいのに、わたしは「赤ちゃん」というふわふわした響きを口にすることすら、いまだに躊躇している。

産みたくないわけじゃない、後悔してるわけでもない。育てる自信はないけどなんとかはするだろうともおもってる。一番現実的な不安は復職後のこと、それからもっと先のことだけど、そういう何か具体的なことを挙げて理由づけるとどれもしっくりこない。

妊娠が判明する少し前、こどもを持つか仕事をどうするか…などと毎日通勤中に悩み続けていた頃のある日、ふと推しの声で「それでも私たちは、前に進まなきゃいけないんだよ」と某劇中のセリフが頭に浮かんだ。
一瞬はっとしてから、(そうはいってもさ…)とおもった。その時の、(そうはいってもさ…)の気持ちがずっとうっすら続いてる、そんな感じがする。自分の人生と、他人の人生と命の問題だから。何一つこれでいいとおもえることなんてないまま時間ばかり過ぎて、自分の力でなんて何一つ前に進んでいないまま、いよいよというところまで来てしまう。

胎教のために音楽を聴かせたことなんて、ほんとは片手で収まる程度しかなかった。言葉をかけたことなんてたぶん一度もなかった。そういう、いかにも「お母さん」みたいに見えるようなことは、誰も見ていないとしてもなぜかできなかった。もうすぐだね、楽しみだねと言われるたび、曖昧にしか返せないことが後ろめたかった。でも「楽しみじゃない?」と苦笑されたときは腹が立った。

後ろめたさを埋め合わせるみたいに、時々こっそりお腹を撫でてみた。ただの鼻歌ですみたいな顔をして歌った。全然こども向けでもなんでもない、頭に浮かんだ歌をそのまま歌った。たまに優しい歌を歌うと、「お母さん」になっているような気がした。子守歌とか童謡とか分からないけど、産まれてきたらたくさん歌おうとおもった。全部優しく聞こえたらいいし、安心してくれたらいいなとおもった。


ベビー布団、お昼寝用のベッドインベッド、ミッフィーちゃんのベビーバス、プーさんのメリー、たくさんの肌着、ガラガラなるおもちゃ、ファミリアのうさぎさんのラトル…。
最低限と言いながら、それなりにいろいろなものを用意した。どれもびっくりするくらい小さくて、おままごとみたいだとおもった。
こんな小さなベッドの中で、どんな顔で眠るんだろう。1才になったとき、2才になったとき、5才になったとき、どんな顔に育つんだろう。
わたしもあの人も一重だし歯並びも悪いし大した顔してないから、あんまり恵まれた容姿にはならないかもしれない。歯は矯正してあげたいな。どんな容姿でもたくさんかわいいと言ってあげられるだろうか、にこにこ笑えるように育てられるだろうか。

よく泣く子だったり癇癪持ちだったりしたら、発達が定型じゃなかったら、病気や事故で障害が残ったりしたら、それでも育てられるだろうか。育てるしかないけれど。

小さいうちはかわいくても、だんだん生意気になってかわいくなくなったりしないだろうか。何かの間違いでカースト上位女子みたいになったり、恋愛と美容にしか興味のない頭空っぽ女子みたいになったり、逆に一切身だしなみを整えようともしないタイプになったり、早口オタク女子になったり、引きこもりになったりそのままニートになったり謎の陰謀論にハマったりしないだろうか。
してほしくはないけど、育て方と育ち方はイコールではないとおもうから可能性はゼロではないし、それでも大事にできるだろうか。大事にしつつ、ちゃんと一人で社会に出してあげられるだろうか。

できればかわいい優しいものばかりに触れてほしいし、こわいものや傷つけるものになんて出遭わないまま大人になってほしい。ブラクラとか踏まないでほしいし、興味本位で広告から飛んだアダルトサイトでハードな性癖の存在を知ってトラウマになったりしないでほしいし、深夜にうっかりこわいテレビを観て眠れなくなったりもしないでほしい。できることならずっと温室にいてほしい。無理なのもよくないのもわかってるけど。

家庭をもって、「生活」がしたかった。結婚したら何か変わるかとおもったけど、まだどこか仮暮らしの気持ちだった。こどもが産まれたら何か変わるだろうか、今度こそ仮じゃない自分の人生だとおもえるだろうか。そういう期待はあまりすべきじゃないけれど。
産まれてくる子は100億%こちらのエゴで形成された家族でしかない。大人になるまで仲良くできるだろうか。もし同性として仲良くなれなくなる日が来ても、家族としてはずっと味方でいたいとか、なんとなくおもったりしている。


*****産まれてすぐ〜1週間*****

とんでもないことだ。神様でもないのにいのちを発生させてしまった。いや、昨日までもずっとそこにあったのだけれど。

新生児はべたべたでじとじとでくさくてかわいくないという予備知識を得ていたので、思いの外かわいく感じることに驚いた。もっと冷静に見られるかとおもった。病院のコットの中でニコニコ笑う子に助産師さんが「あら〜ニコニコして、かわいいちゃんねぇ」と言ったのが聞こえて、麻酔後の熱でベッドに横たわりながら「名前、かわいいちゃんにする?」と馬鹿なことを言った。

寝られなくなることも、乳がすぐ出るようになるわけじゃないことも、身体がすぐもとに戻らないことも、何しても泣きやまないときがあることも、もちろんわかってた。
授乳時間が来るのがこわいし、ミルクの量は分からないし、夜になるといつ泣き出すか、今日は何時間まとまって寝られるかと身構えて落ち着けない。語りかけ育児なんて本を買っていたけど、語りかける余裕なんてろくにない。
それでも寝顔を見ていると、よく産まれてきてくれたなぁとおもっている。

お腹の中にいる間、散々ひどいことおもったのに、愛せるかわからないとおもったのに。産まれてきてくれてありがとう。
産んでなんて頼んでない、といつか言うだろうか。でもそちらサイドだって勝手に育って、こちらがしんでしまいたいときにも人の気も知らずドコドコ元気に蹴飛ばしてくれていた。

ほんの数週間前には、産まれる前最後の外食って2人で串カツ屋さんに行ったのに。予定日を過ぎても兆候がなくて、陣痛がくる前の晩に2人で駅まで散歩したのに。数ヶ月前には仕事帰りに駅前ビルの汚い居酒屋で待ち合わせて飲んで帰ったのに。どんどん大きくなるお腹を恐る恐る撫でてくれたのに。ぜんぶなくなってしまった。あの日々もぜんぶ大事だった。多くは未来永劫なくなったわけじゃないとわかっていても、やっぱりまだ悲しいし寂しい。
産まれた日にずっと隣にいてくれたこと、喜んでくれたこと、労ってくれたこと、柄にもなくたくさん写真を撮ってくれたこと。あの日が人生の全部のピークで、もうあれ以上なんてこの先現れないんじゃないかとおもってしまう。

あの子が産まれてから、あの人はこんなに優しくこどもをあやすのか、こんな声を出すのかと知った。あの人を通すと、あの子がもっとかわいくおもえた。力尽きて並んで寝ている姿に、ちゃんと新しい幸せを受け止めなきゃとおもった。まだ難しいけれど。


2月、もうどうにも隠せないくらい大きくなったお腹を抱えて、まだこれから数カ月後にやってくる生活への希望と絶望の間で揺れていた頃。大好きな人が弾き語った「愛しさの形なんて人それぞれだろう」という言葉に涙が止まらなくなった。
何度揺れ動いて永遠に覚悟なんてできなくても、肯定してくれる歌も、それを歌ってくれる人たちもいる。何度(そうはいってもさ…)とおもっても、ちょうどその言葉が刺さる時がきて大丈夫になる。そのことを忘れたくないし信じていたい。


こうして産後ホルモンに任せておセンチな文章を書き連ねている間にも、何も知らないあの子は口を開けたままスヤスヤ眠っている。
さっきのゲップが足りなかったのか、唸りながら全身をもぞもぞ動かす。短い手足を思い切り伸ばしてビクっと縮む。また静かになる。大丈夫、今日もちゃんとかわいい。
もう1時間もすれば起きるかな。まだおままごとみたいだ。これもちゃんと新しい生活で日常になるよ、大丈夫。

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