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「利己的な遺伝子」とやさしい社会

以前読んだ本を見つけようと本棚の奥底を探っていたら、大学生のときに読み漁った進化心理学の本がでてきました。

特にリチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」は私が進化心理学に関心を持つきっかけになった本です。人の心の「わからなさ」に迷っていた私にとって、進化心理学は人の心に関するあらゆる「なぜ」に答えてくれる考え方であるように思えていました。

そこにいただいたこんなつぶやき。

cotreeという会社は、「やさしさでつながる社会をつくる」を企業理念に、オンラインカウンセリングの「cotree」や、起業家を社会が支援する「escort」という「やさしい」サービスを展開しています。

確かに「利己的な遺伝子」と「やさしさ」とは一見して相容れないように思えるかもしれません。

でも、実は「利己的な遺伝子」の考え方の延長線上に、利他性や倫理観があります。人間という生き物が遺伝子の乗り物であって、遺伝子にとって適応度の高い特性が進化の過程で残ってきたという「利己的な遺伝子」の考え方に基づけば、乗り物である人間の利他性や共感性は合理性に基づいて進化したものです。

Robert Wrightが「Nonzero」で言っていますが、人の関係性は勝敗が一方に決まるゼロサムではありません。そこにおいては、やさしくあることこそが遺伝子にとって適応度が高かった、ということです。

そこにたちもどると「やさしい社会」というのは社会が向かう合理的で現実的な方向性でもあります。

興味のある方はこちらをどうぞ。

やさしくあるために必要な想像力と知性

社会的人間にとって利他的にふるまうことは、遺伝子にとって合理的かつ利己的な行動でありうる。でも人間の意思決定には二重性(Fast&Slow)があるので、常に究極の合理性に基づいて振る舞えるわけではありません。

そのときに必要なのが他者に対する想像力であり、知性です。

想像力を持てば、人の痛みを感じることができる。
知性があれば、衝動的な攻撃性に身をまかせずにすむ。

やさしい人というのは、人の痛みを自分の痛みとして感じることができる想像力を持ち、利他的であることの合理性を捉える知性を持った人なのではないかと考えています。

これはフロムが「愛することは技術である」と言ったことと似ています。愛は能力である。「真の意味で人を愛するには、自分の人格を発達させ、それが生産的な方向に向くよう全力で努力しなければならない」

やさしさや愛を自然と生じてくるあたたかい感情と捉えるのではなく「覚悟」であり「意志」であると捉えるということです。

ちなみに想像力と知性と覚悟のないふわっとした「やさしさ」は、自己満足のための押し付けや単なる自傷行為のように害になることすらあると思っています。

なんとなく相手を喜ばせれば良いのではない。「やさしさ」を問い直し続ける姿勢が本当のやさしさなのだろうと感じます。

人はそもそも利他的である

利他的であることが利己的であるという話は、自分が得をするために打算的に人にやさしくする、ということとは違います。ここでいう利己的というのは遺伝子レベルの話です。利他的にふるまうことが遺伝的に適応度が高かったからその「乗り物」である人間は利他的にふるまうように進化してきた、ということです。

私たちが意識的に「利他的であろう」とするまでもなく、人は利他性を兼ね備えています。そもそも人間はやさしい。でも身体的・精神的「飢え」や社会の暴力的構造が、人がやさしくあるための余裕を奪っていることも多い。

私自身は、精神的な飢えを最も癒すことができるのは誰かのやさしさだと思っています。だからやさしい人が増えることがやさしさの連鎖を生むと思っていて、それができると信じて活動を続けています。

「なぜ」を超えて、あなたは何を信じるのか

進化論は「なぜそうなってきたか」を説明してくれますが、私たちの「なんのために」を定義してはくれません。

生きることに意味や目的を付与するのは私たち自身の「覚悟」であり「飛躍」です。そこには論理的必然性などなく、ただ「決断する」「信じる」ということです。

人間とはどんな生き物なのかということ以上に人生を方向づけるのは、「自分は何を信じて生きるのか。」ということ。信じることは「過去」や「論理」から切り離された「意志」の力です。

みなさんは、どんなことを信じて生きているでしょうか。



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