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なぜ、コスパ・タイパ主義はダメなのか

こんな文言が目に入った。

「愛やロマンスに侵入する「コスパ」思考」
「社会的地位や金銭、ジェンダーにとらわれず、純粋に相手に向き合おうとするがゆえに、ふたりの気持ちを査定し、評価し、ときには損得勘定にまで及んでしまう」

「感情資本主義」から読み解くウェルビーイング経営と未婚化の時代

コスパ主義は、近年の若者に強いとしてとかく批判されがちな思想であるが、結論から行くと、私はコスパ的思考に反対ではない。

得るものが多いと思えば面倒でも行動する。意味がないと思えば行動できない。お得なセールが好きだったり、どうせ買うなら質の高い方が良かったりする。まぁ、老若男女そんなもんではないだろうか。
逆に、得るものが少ないかもしれないのに行動せよとか、どうやっていいかわからないことにチャレンジせよと言われても、酷なことである。

ただし、ここで三つの問題がある。
1. 正しくコストとパフォーマンスを見立てることの難しさ
2. コストとパフォーマンスの可変性
3. 経済的価値へのバイアス
である

①私たちは、コストもパフォーマンスも見えていない

コスパが悪い、タイパが悪い、と言っている人の多くは、コストもパフォーマンスも正しく認識していない。

それをわたしが特に感じたのは、子供が生まれたときだ。

私は、35歳を過ぎるまで子供が欲しいと思ったことは一度もなかった。むしろ、仕事をしていく上で不確実性が高まるし、タイミングを逃したとしたら養子という選択肢だってある、くらいに消極的だった。

でも、病気になってしまった姑に孫の顔を見て欲しいと思って子を持つことを決めた(決めたからといって持てるわけではないから、志した、の方が正しい)。

そして、生まれた瞬間から、想像もしたことがなかったような喜びと多幸感に包まれているのである。
そこで、「子供がこんなにいいものだって、早く言ってよ〜」という気持ちになったのである(個人差があります)。

様々な要因があると思う。ホルモンの影響、子供を産んだタイミング、個人的な価値観、子供の特性、キャリアのタイミング、家族の支援。もちろん、とても「コスパが悪い」シナリオになった可能性もある。だが、今となっては、子供を産まなかった人生は考えられないくらいに、子供が人生の価値の中心にある。

結婚なんてコスパが悪い、子供を持つなんてコスパが悪い、一つの会社に留まるなんてコスパが悪いと考えている人の多くは、結婚や子供、留まることのコスパを正しく計算できていない可能性が高いのだ。もちろん、結婚しなかった場合、子供を持たなかった場合、一つの会社に留まらなかった場合のコストもパフォーマンスの可能性もリスクも、それをやっていない人にはわからない。

見えない理由はいくつかある。
1. 人は、経験したことがないことは、わからない
2. 人は、未来のことはわからない
3. 人は、自分以外のことはわからない

人が認知できる価値は、成熟とともに「自分」を超えてくる。他者の喜びを喜べるようになる、社会の安寧を喜べるようになる。
未来の自分が何に価値を感じるかなど、分かりようがない。特に他者が関わることについては、その不確実性はプラスにもマイナスにも無限に大きい。

②コストもパフォーマンスも変えることができる

仮に不幸が重なって、子育てによって人生において追い詰められるシナリオになったとする。

しかし、そこで費やすことになるコストとパフォーマンスは極めて主観的なのだ。

同じ子育ても「ああ、嫌だ嫌だ」と思いながらする子育てと「おもしろがろう」と思いながらする子育ては、認知的なコストが全く異なるし、小さなことでも喜べるマインドを持っているときと、悲観的な思考を持っている時では、主観的な価値が全く異なるはずである。

恋愛結婚では約40%の方が離婚するのに対し、お見合い結婚の離婚率は約10%といわれている。それは、結婚を「自分の選択」と捉えて幸不幸を評価判断する姿勢でいるのか、「コントロールできないもの」と捉えてそれを正解にしようとする姿勢でいるのか、という姿勢の違いが一つの要因であろう。

③経済的価値は、「価値」の一部に過ぎない

最後に、コスパタイパ主義が陥りやすい罠は、経済的価値にバイアスが偏りがちなことである。




資本主義において中心に据えられ、かつ唯一の価値がごとく扱われてきた「経済的価値」は私たちが人生において得られる「価値」の全体のごく一部にしかすぎない。

経済的価値が幸福に与える影響が限定的であることはすでに多くが語られている。むしろ、関係性の豊かさや健康、フロー状態、ポジティブ感情、利他行動など、経済的価値とは紐づかないが幸福感につながる「価値」は数多く存在する。

「価値」は、スーパーに並ぶ商品の値段のように、あらかじめ一義的に決まっているものではない。自分の視野と態度によって、増幅することも矮小化することもできるのである。

コスパ・タイパ主義の問題は、コストもパフォーマンスも確かでないもの、変わりうるもの、見えていないものに対して一義的に評価判断してしまいがちなことにある。

今の自分に見えている範囲のコスパは、決してある行動のコスパを意味しない。人に見えている価値は限られている。その前提を排除してコスパを計算すると、間違ってしまうということが問題なのである。

コスパ・タイパ主義、大いに結構。その代わり、「自分に見えていない価値は何か」を見るための努力を怠ってはならない。

そのために、先人の知恵や他者、コーチが存在するのである。

そうはいっても、仕事選びなどでは、若いうちはわかりやすいコスパを追い求めておくことで、いい感じで報酬を感じられて、行動量が多くなるように動機づけられる可能性が高いわけで、それによって得るものが多いと考えることもできる。

いずれその価値軸を手放すタイミングでおそらく苦難は訪れるが、それはそのときの話。そういう意味では、生き急がない(いつかは変化が訪れる)という観点で、若いうちのコスパ主義は、悪くないのでは、とも思う。

「コスパがいいものを選ぶ」というのは全く構わない。でも「コスパ悪いから『やらない』」という選択は、後になってできなくなった時に後悔する可能性もあるので、要注意だ。



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