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色弱

現実立証の問題で、視覚における色の見え方があります。
こちらは、すこし多くの方から同様思考体験があるといわれました。
例えば、「僕に見えているこの赤と君にみえる赤とは同じ赤の様にみえているか?」という疑問です。物の理解の仕方が、生まれてこの方の過去の経験における学習の結果であると仮定すれば、補色関係にある赤と緑の組み合せは例えば茶色と黄色(仮に明度差が同じくらいとして)の組み合せより強い対照を誰にも同じ様に見せることは経験の結果であるかもしれません。
生まれたばかりの猫を縦縞の環境で生活させ成長させると横縞のものは認識できなくなるという様な結果の実験が有るそうですが、形ですら認識が経験の上に立っているとすれぼ色の見え方なんぞは、他人が見る色は自分と同じ色に見えている確証は、はなはだ薄いかもしれません。
例えばどんなに「情熱」とか「鮮烈」とか言う言葉で「赤」という色を説明してみたところで、あなたにとって僕に「緑」として見えているように見えているかも知れない「赤」は生まれてこの方同じ様な言葉で説明されてきたのですから見え方が違っても同じ概念を持ち得るわけです。
この問題に悩んでいたというか楽しんでいた頃、大学受験を控え高等学校で身体検査があり、色盲検査がありました。あの色々な色の大きさも色々な点が集まった図形を見せられ「ここに見える数字を言いなさい」と質問されるあれです。
その時、僕には二つの数字が見え、「はっきり見える8と、良く見れば見える3とが見えます」と答えましたら担当された先生が、「きっ、君、これは8です、3は見えないですね」といわれ「はい」といわされた覚えがあります。
その先生はたいへんやさしい国語を担当されていた先生でした。おかげで色弱と言われずにすみました。
しかし、本当に色を識別する能力があれば、その意図を以て書かれた二つの数字が見えるのが当り前なのだから僕はむしろ色強なのだ、と思っています。
いずれにせよこの色盲検査で、もしかしたら、やっぱり色の絶対認識ということは有るのかもしれないとも思いました。
なぜならぼ、その試験紙に乗っている全ての色の全ての組み合せにおける相互関係について全ての被試験者が全く同じ過去の経験を持っているとは思えないためです。色認識は経験によるのではなく絶対認識があるのかもしれないということ。
証明不可能な問題で有ることには変りません。
しかし、その試験紙を作った人は一体全体、色の絶対認識について何の疑問を持たなかったのでしょうか?

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