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認識の絶対性

以前の自分の記事で「色弱」という題のものがあります。これは色の認識の絶対性について疑問を持った思いを書いてあります。35年前に書いたものです。

当時書いた事を要約すると、「僕の見ている色と、貴方が見ている色は同じなのか?」という疑問です。そして、同じでないとすると、「色弱認定の絵(色々な色の点で、数字を表現してあり、8にみえたり3に見えたりするものです)」による色弱判定は意味が無く、判定に意味が在るとすると、全員が赤は、赤として見ていると考えられる。昔から医学界に認知された判定方法ですから、世界中の人が見ている赤は同じように赤く見えていると、医学界が認めているという事でしょうか?

今朝、犬の散歩をしながら一つ需要な事に気づきました。犬の散歩はいつも面白い気付きを与えてくれます。

光は電磁波でラジオの電波と同じものです。周波数が高くなり波長が数千オングストロームになると、光として生物に認知されます。しかし、ただの電磁波です。赤い光に「赤」という情報がある訳ではなく、光を受けた網膜の視覚細胞が光の波長を感知し、「この周波数帯の電磁波が受信された」という情報を脳に送る訳です、ここまでは色の概念は有りません。脳内で、初めて、この周波数は、昔から見ているこの色ですと、過去のこの周波数帯を感知した経験と照らし合わせて「赤」という概念を連想させる結果「赤い」と初めて色を感じるのではないでしょうか。自分は、この分野の研究者ではありませんが、自分の現在までの知識を総合すると、その様に理解するのが科学的で、客観的だと思えます。

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網膜の視覚細胞には電磁波を共振でとらえる仕組みが在るとすれば、再現性良く、赤の帯域の色を捉えると思います。

前回の「色弱」の記事で言いたかったのは、「自分には上図の絵のように各周波数の光が見えて居て、別な人には、上図の黄色い所が青く見えているという事が無いでしょうか?」という問いかけでした。仮に「脳内での感じ方は人によってさまざまだ」とすると、「色弱検査で使っている判定の為の絵は意味が無いのではないか?」と言う問いでした。

脳内の認識であるのも関わらず、同じように見えているとすると、「何故、同じなのか?」という疑問が湧いてきます。

脳の構造は、神経細胞のネットワークであり、脳はその部分ごとに機能を持ちますがネットワークそのものは経験に培われるものであり、不変ではないと理解しています。だとすると、色の認識の絶対性は、脳の中にあるのではないかもしれません。

シュレーディンガー(1887-1961)は量子力学の基礎を確立した物理学者ですが彼は、「精神と物質」という彼の著書で、「この私たちの自我を、科学的な世界描像のなかに見い出せないその理由は、(中略)「世界描像とは自我そのものなのである」からだ、と書いています。この視点で演繹すると世界の全ての人々のそれぞれの世界描像の意識の共通の領域が、「私たちの周りの真実世界」ということになります。

シュレーディンガーは続けて疑問を投げかけます。「私の世界は本当にあなたの世界と同じなのでしょうか。個々人の知覚を通して投影された個々の描像と区別されるべき、1つの真実の世界があるのでしょうか。もしあるとすれば、いったい個々の描像は真実の世界に一致しているのでしょうか。それとも世界『それ自体』は、私たちが知覚している世界と全く異なっているのでしょうか。」彼は、この答えを明確にしていませんが、2つの出口を提示しています。1つは、「世界の多数性」であり、他の1つは、「精神や意識の多数性は単に見せかけだけのもので、本当は1つの精神があるだけ」と言う考えと述べています。

話は、光の色の認識の仕方に戻りますが、「色の認識の仕組みを、脳に記憶された過去の経験による」とすると「色弱判定の図」の効用に問題がある様に思え、人々の認識の仕組みに、何か万人に共通の仕組みがあるのではないかと、私は思います。

別途、記事を書きますが、目、耳、鼻、舌、皮膚等の情報は全て脳に集約され、そこに小さな劇場ががあり、全ての情報を認識しているのは、自分(自我)ですが、認識に絶対性が有るとすればその自分は、どこに居て、誰なのでしょうか。

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