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ただいとしい 4.7

中目黒駅は凄まじい混雑だった。何かあったのかと思ったら桜。みんな桜を見たいのだ。

目黒川とは真反対の方向、岩茶房へ。

歩いている途中、前を歩いてきたたぶん子と父の2人連れ、ふと手を繋いで歩いていることに気づく。いわゆる恋人繋ぎというあれ。(この言い方はなんで恋人限定なんとキモいが……)

小学生か中学生くらいの男の子と父親というのは近くにいると喧嘩になるからなるべく一緒にいないようにするものだと思っていたので驚いた。
もしかしたらどんな父子にも、別の世界線ではそんなふうに歩く今がありえる(ありえた)のかもしれない。

岩茶房の軒先にある一本の桜の木が見事に満開。
この木は何度も見ているはずなのに、桜だと知らなかった。
看板猫の茶々が入口にいる。 

今日は「名茶に合わない世界の家庭料理」の会に初めて参加。ずっと楽しみにしていた。

名茶に「合う」世界の家庭料理だった。
口にしている間、時が止まる。
完全に時が止まりただたゆたうモードになった。

料理を作ってくださったのは料理人の柳谷晃子さん、石野晶子さん。

柳谷さんはとても明るい話し方をされていた。
料理や食材の説明をしてくれたときに、ほんとうーーーに何気なく、
「どの食材にも一点の邪念もありません」と仰った。

清濁併せ持つとか闇があって光がとかもうそういう次元じゃない。

何気なくだけどそう言い切った姿があまりにもすごすぎて、たった一言だけど、その言葉にはメコン川のように全部流れ込んでるような感覚(メコン川行ったことがないので想像だけど…)。本当にすごい人はいるんだと畏敬の念すら感じた。眩しかった。

私はその人が発光してるように見えることがある。というかみんなゆっくり一緒に座ると大体そう見える。
オーラとかそういうわけではないと思う(色とかはない、光度)けど、トークイベントとかをやると皆光っているので、ほお、と感動する。
今日も、というかひときわ、会にきている人たちがそう見えた。
岩茶という同じものを大事にしているからだろうか。それぞれがそれぞれの長い時間(短くても長い)をかけてこられたことは、佇まいや眼差し、所作から伝わる。
でもそれはその人がすごいとかそういうことより、そうした大事な何かに向き合うとき、燐光のようにその人の何かがひかるのかもしれない。
それは魂であり生命であり存在そのものかもしれない。
そういうのを見ると、そこにいさせてくれてありがとう、ひとってすごいなと思う。

佐野先生が「変なものがよぎる瞬間」の話しをされていた。それこそが大事で、こうした食事やお茶の会も、そんな何か変なものが皆によぎる瞬間が生まれるからやっているのかもしれないと。

確かによぎっている。

こうやってここにいられて嬉しいなと思う。
いろんなことがあるし、辛かったこともいっぱいあったけど、それでも人生のあるひとつの交点の中でここにいられたことが、その前の人生もその後の人生もじんわりと、どこまでも、肯定し続ける。

おいしいお菓子を爆買い。プレゼント用と自分用と。希望者多数の場合は、カードを引いて決着。ジャスミン茶の生チョコを勝ち得た。
ジャスミン茶の生チョコ……どうやったらそんな発想が出てくるんだろう。パティシエすごい。

その後、激混みの中目黒と渋谷を抜けて、日本に一時帰国中の、恩師に会いに行く。
慧ちゃんも誘ったらタイミングが合い一緒に先生のところへ。

舩田先生と、息子の海くんと、久しぶりに先生宅へ。懐かしさと、こんなに自然が多いところだったっけと、改めて良い場所だなと思う。

慧ちゃんを紹介できて良かった。
その後緑の中を歩いてみんなで温泉に歩いて行ったら、一体ここはどこ?みたいな、今群馬の中之条に来てますと言ってもおかしくないような、小旅行感があった。

歩きながら、語りかけてくるものをただ感じればいい、感じなきゃとか、うまくやろうと構えないで、と先生に言われる。
たしかに私はそういうのが怖い。

お風呂も変わっていて、〜〜風呂みたいなのがたくさんあり、泉質は茶色でぬるぬる系。家を出たときに温泉入るつもりは一切なかったのでメイク類持っていなかったけど、もうええわと顔も洗ってツルンツルンになる。

いろいろある露天風呂を試す。電気風呂だけ割と刺激が強くて結構怯えた。「開運風呂」にも浸かる。浸かる人浸かる人全員どんどんますます開運すればいい。それぞれの地で頑張って。

1時間近く浸かって、上がって温泉のレストランでご飯。ここはご飯も美味しい。そばを頼み、色々つまむ。

舩田先生と会うのは数ヶ月?半年ぶりなのに、いろいろお見通しだった。
お互いの声しか聞こえないような不思議次元にはいる。
向かい合って話すうちに、自然と私も私の内なる気持ちに気づく。

私は今一切の行動や感情の説明をやめたいなと思っている。
ただそう。ただそうしたかった。
みたいな。

ようはただ自分自身でいたい。といいつつなんなら自分自身(と思ってるもの)じゃなくてもいいくらい。

これが自分だと思ってるものを全部壊したいし、私が手を下さずとも崩れ落ちてほしいけど、同時に全部無条件に受け入れたい。壊さなくてもいいくらいに。

なんでもいいよ、を自分の隅々まで行き渡らせたい。
めちゃめちゃ受け身になってみたい。

といいつつ、そうしたいと体が思うようになったのは、自分が違うと思うことはもう絶対やらないし、やったとしてもなんとかなると思うようになったからかも。
なんとかならないにしても、もうなんとか、、、。

なので破壊と再生とかではなく、ただ生成と生成という感じ。
生まれてくるものを見てみたい。

ミドルライフクライシスというアレなのか?

最近なんだかムズムズする。むき身の中身の自分が変わりつつあるのか。明太子の皮みたいな薄皮をぱつんと破りたい感覚がある。

もてあまし気味だけど、深追いせず、ぶらぶら遊ばせてみる。なんでもええのよ。

かわいい茶々

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