とある映画を巡る、とある対話の続き。

立憲主義、民主主義社会の基本は意見の違いを可視化した上でそれぞれの存在を尊重し合う事です。それを阻害しているのが意見の違いに対する不寛容だという言い方もできますがむしろその根本にあるのは『格差』ではないかとも思います。経済的、或いは教育的『格差』が不寛容を拡大させている要因ではないかと。特に本来人間形成にとって基本であるはずの「学問」に本格的に介入し始めた昨今の政府の悪辣さ、程度の低さは正に反知性主義(米国に於ける反知性主義とは若干定義が違うが)に基づくものであり、教育格差を生じさせることにより文化を『分断』させマジョリティとマイノリティとの間の溝を深め、愚民化政策をより容易に浸透させ易くするという為政者の意図が読み取れるように思えます。話が若干逸れましたが漫画文化も文学も芸術も衰退の一途を辿る昨今、全ての元凶は『格差』であり、それを生み出しているのが<帝国>による大規模広範囲な『搾取』ではないかと思うわけで、やはりここでもネグリ=ハートに行き着くわけで、彼らの意見を避けては通れない、という結論になるわけですが……文化的学問的『権威』というものは立憲主義的デモクラシーにとって必要不可欠なものです。それこそが権力を暴走させない為のブレーキとなるのだと思います。その権威を破壊し市民もろとも文化を分断させようとする為政者。それに抗する為には個人レベルでのリゾーム的な一見ある意味非常に朧げで曖昧模糊としたゲリラ的繫りによって文化と学問の灯を守り続けることが重要なのではないでしょうか。蛇足ですが『不寛容』の問題点についてはネグリ=ハートもマルチチュードを語る上で指摘していたように思いますが、個人の多様性、差異性を無視したポスト資本主義社会はご存知の様に同じ失敗を繰り返すだけだと思います。やはりリゾーム、マルチチュード、コモン、カオス、などの概念が不可欠であろうと思います。取り急ぎ短くまとめました。また後ほど。

(再掲載です。まだこの頃は『アセンブリ』も刊行されていませんでした、という言い訳をしておきます。)

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