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感情に蓋する理由

セッションで「まりなさんは瞬時に自分に入れないようにしてる」「自分に入ることが苦手だね」という話になりました。
嫌なことが起きたとき(嫌なことを言われたり)無意識に蓋をして絶対に自分に入れないようにして、防御するかのように、相手をリーディングしてみたり、分析してみたりするんです。
そして
「この人の背景は〇〇だから、こう言うふうに言ってきたんだ」
「凄い嫌なことを言ってくるけど、〇〇な心理で言ってきているんだ」
と、解釈して納得させていました。

「分析は得意かもしれないけど、自分に向かうのが苦手だね」ということを理解してなかった私は2回目にも
「分析してその場は良い感じだけど、それを続けるとどんどん自分を嫌いになると思う。日常で小さな目覚めをしていく。目覚めた後の自分の発想は目覚める前の自分と全く違うんですよ。」と説明を受けました。

「闇に真っ向から向かう感じだから、アスリートのように体力も使うし、川の流れに逆行するような感じ。でも、それをやりたいかどうかは、まりなさんが決めると良いと思う」と選択を提供されました。

ロンドンのセミナーでもそうでしたが
「まりなさんが決めるんだよ。」
と、いつもマインドに逃げそうな私に選択を与えてくれるのです。

「してください」と強要するわけではないのがMomoyoさんのメソッドが本物だと思うところです。

そして、私は選択を与えられてやっと
自分に意識を向けるべきことに気付きます。
誰も決めてくれるわけではないとわかると、人の言葉に頼るわけにもいきません。
自分に意識を向けずに分析ばかりしても、自分と向き合ってるとは言えません。

そしてセッションのあと、私生活で問題が起きました。

私は、また分析を相手にし始めていました。
嫌なことを言われて「その考え方、改めた方がいいよ」と言わんばかりに、分析して説明するわけです。

でも、これは私に毎回起こる嫌な出来事。
説明すればするほど、的外れな返事がくる。
よけいややこしくなる。

「自分が正しいと人に押し付ける傲慢な私」
「自分に甘くて人を責める」
などセルフイメージがあるのですが
これをやっても、やっても楽にならないのです。

何が楽にならないのか?
そもそも、なぜ、私が、相手に、説明をしなければならないシチュエーションが起こる?

これは昔から人を変えて何度も起こることなんです。

そもそも、なぜこういうことが起きるんだ?と問いました。

「自分に甘くて人を責める」という文字を目にしたとき、全くもって思い込みだとは思えないトラウマを思い出しました。

中学時代、部活の顧問の先生に呼び出されて
「自分に甘くて人に厳しいんだよね」
と突然言われたことがありました。

驚き過ぎて何のことかわからず、部活の後輩に対して何かあったかな?と部活のことだろうと思いました。

でも、先生は
「この前、車の中で〇〇(クラスの子)のこと悪く言ってたじゃん。それってどうなの?」
「人に厳しくて、自分に甘いんじゃない?」

と、怒られました。

私は、まさかそれについて言われるとは思わなかったのと、そのクラスの子に関してが、当時1番の悩み、闇の根元だったので、悔しくて悲しくて辛くて
顧問の前で「何も知らないくせに!!!」と言い放って涙ぐみました。手に持っていた楽譜はぐちゃぐちゃになっていました。
その予想外の反応に顧問は口を閉じました。

クラスの子のことで悩んで嫌な気持ちになっていたことは親にも申し訳なくて言えなくて、耐えていたことでした。
明るくない自分を見せたら親がショックを受けると思っていたから。
クラスの子が嫌過ぎて、不登校になりそうだったけど、それじゃ親を悲しませる。
部活だけが、不登校になりたいくらい辛かったけど、登校する理由であり生き甲斐でした。

自分の中で悶々と耐えて耐えて日記だけが吐き出せる場所だったから、誰にもわかってもらえない辛さが溢れ出て、先生の車の中で無意識下でわざとその話に触れるような内容を部活仲間にしたのです。

結果、逆効果でした。

呼び出された後、ショック過ぎて
楽器を演奏する気力もなく
でも、演奏しないと合奏してるのに皆の音楽を壊してしまう気がして、無理やり演奏しました。
怒りや憎しみのこもった音になっていたと思います。

そして、顧問に
「その演奏いやらしい」と指摘を受けました。
その日の合奏が終わった後、事情を唯一知っていた仲間が「今日、すごいまりなだけ攻撃されてたね」と声をかけてくれました。

合奏が終わった後、顧問は部員全員の前で
そのクラスの子について褒め称えるエピソードを話し始めました。
「体育祭のとき、〇〇のこういうところが良いと思った。みんなもああいうところを見習うと良いと思う。」

私は、心の傷をえぐられるかのような状態のなか
金管楽器を手で握りつぶすかのような力で、その話に耐えていました。

結果的に原因不明の体調不良となり学校を休まないといけなくなりました。
修学旅行と演奏会の目前でした。
精神的に辛過ぎて自分の体調不良がどんな感じだったのか覚えていません。

もともと、日常的にクラスのことで辛い気持ちを耐えて日記だけが吐口だったこと。
それをえぐるかのように、唯一の生き甲斐だった部活の、顧問に呼び出され指摘された挙句、みんなの前であの子は良い子だと褒め称えられたこと。

これが強烈過ぎて、セルフイメージがべったりくっついていました。

そして、クラスで過ごす日々、感情に蓋をして耐えていた期間が長過ぎて、もはや辛いとか、悲しいとか、自分でもわからなくなっていたんだと思いました。

日記だけが吐口だったので、こんなに辛くて誰もわかってくれない。〇〇はこういうところがよくない!
と、一生懸命書き綴っていたんですね。

感情を抑圧して、人を分析して、納得させないと
とてもじゃないけど、学校に行けなかったんです。

だから、今でも突然嫌なことを言われると
自分に入れないで咄嗟に防御して相手を分析し始めるんだと気付きました。

そして、それが身近な人であればあるほど
その考えは間違えてるよ、改めた方がいいよ。と言いたくなります。

本当は、第一感情で
え、その言い方ショックなんだけど…
え、それ傷つくんだけど…

と本心を言えれば、人に説明をしなければならないシチュエーションなんて起きない。

考え方改めた方がいいよ、というようなニュアンスで説明すればするほど、相手は拒否してくるものです。
人を変えようとすればするほど、うまくいかないですもんね。

正しさを押し付けたくなるセルフイメージがやっても、やっても消えない理由は

それを引き起こすシチュエーションが
そもそもなぜできていたのか。

それは、中学の頃、感情に蓋を閉じまくって
日記に分析して思いを綴るしか自分を立て直す方法がなかった。それが癖になって、人に嫌なことを言われたとき、自分がショックだったことに気付かないで、防御のために人の間違いを指摘したくなる。

誰にもわかってもらえなくて辛すぎた感情を感じきったあとは、もう1人の自分がヨシヨシわかってもらえなくて辛いんだね、と包み込んでくれる感覚がありました。

まだ、ワークでみていくところは
この件だけでも沢山ありそうですが
ひとつ、ラクになったエピソードでした。

仲間のプラクティショナーが既に活躍しているので、自分と真っ向から向き合いたい方は、選択をしてみると、その後の自分が変わるかもしれません。

私も分析癖をやめて、感情の蓋をオープンにし
真っ向から向き合う選択をし続けようと思います。








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