#猫を棄てる感想文~思いを馳せて「降りること」

「降りることは、上がることよりずっとむずかしい。」
「上がること」とは、自己を他者と明確に区別して自己を強烈に主張すること。「降りること」とは、自己が「集合的な何か」に溶け込み(自己が消え)「永遠」の一部になることと私は理解しました。
「集合的な何か」は、過去から未来永劫の時空を超えて存在する有形無形の全てであり、全ての創造の源。春樹さんのイメージする例えで言えば「地下二階」と受け止めました。
春樹さんのお父様は、毎朝仏壇に向かってお経を唱えるのが日課で、それは春樹さんが知る限り一日たりとも怠ることはなかったとのこと。そのお父様の戦争体験…寺の息子に生まれ、仏教の勉強をし、俳句に傾倒していた青年千秋氏が、中国戦線に送り込まれ、中国兵の処刑の場に立ち会ったことを春樹さんは詳細に綴られました。お父様の体験に向き合い、お父様の苦しみに思いを馳せることで、春樹さんは「集合的な何か」に溶け込んだのではないでしょうか。
私は終戦から20年が過ぎて生まれましたが、20代後半までずっと、自分はアンネ・フランクの生まれ変わりだと思っていました。小学校5年生の時、子供用に書かれたアンネ・フランクの伝記を読んで、アンネの日記が1944年8月1日の記述で終わり、8月4日にナチスに見つかる、その間のことがフラッシュバックして蘇ったのです。恐怖で眠ることもできなかったこと、家族と体を寄せ合っていたこと、その体温の生々しい感覚まで蘇り、私はアンネの生まれ変わりだと疑いなく信じていました。
しかし、20代後半、ひめゆり学徒隊だった方のお話を聞いた時、看護要員として恐怖の中で過酷な労働をして一日が終わり疲れ果て、鞄に入れてきた教科書を取り出す気力もなくじめじめした洞窟の中で横になった時の記憶がまたもやフラッシュバックして蘇ったのです。私は実はひめゆり学徒隊の生まれ変わりだった!?と思ったのですが、その時、どちらも私の想像に過ぎなかったこと、しかし想像によって私は、アンネ・フランクであり、ひめゆり学徒隊であることを悟りました。(その後、想像により、私はヒトラーでもガンジーでもあることに気づきました。)
春樹さんは、「我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒」の「名もなき一滴」と言います。すべての人、物、この世に存在する森羅万象は雨水の一滴であり、その一滴は、どれも春樹さんの言うように固有の歴史、思い(物であっても)を持ち、また、価値を持っています。私たちは、自身の価値を確認しようと学び、努力します。けれど、自身の価値のみを意識し主張したとき、他と途切れて孤立に向かいます。大切なのは、一滴の意味を大切にしながら「集合的な何か」へと深く深く降りていき、融合すること。融合したとき、その一滴は永劫の流れの一滴として、はかりしれない豊かさを生み出すのだと思いました。
松の木の上で白骨になりながらしっかりとそこにしがみついている子猫のように、目の眩むような遥か直下の地平を見つめ、恐怖と向き合い、想像すること、思いを馳せることを生活の中で続けたいと思っています。
美しく懐かしい挿絵に誘われ、春樹さんの文章に浸った幸せな時間をいただいたことに心より感謝を申し上げます。ありがとうございました!!

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