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変えられるのは未来だけ

車にのっていて、Krevaさんの「変えられるのは未来だけ」という曲が流れてきました。
この曲の中で「過去の自分が嫌いでも変えられるの未来だけ」というフレーズが大好きです。

これって素敵な言葉ではないですか?

私は、「海外ニュース翻訳情報局」や「次世代に残したい人の言葉を残す」という私の活動は、まさに自分や発信を見た人にとって、未来が良い方向へ導くための考える材料の一つに使ってくれたらいいなと思って発信しています。

過去もかえられないし、現状もすぐには変わらないけど、未来においては変えることが可能だと思えば、あまり悲観的になる必要はないのではないか?といつも思っています。

なぜなら未来を良い方向に変えるには?という発想を拠点に物事を考えたり、どういう風に行動すればいいかとか、色々と希望や楽しいことが思い浮かんできませんか?

そういうふうに考えると、当然、鬱屈した現在の社会に対して、おかしいなと感じたり、こうしたらいいんじゃないか?というようなことを思いつくんですね。

特に、ネットに溢れる固定観念に対して、それはどうなんだろう?という疑問が湧き出てくることがあります。

だって未来を良くするには、同じことを繰り返して同じ間違いはやりたくないですから、現状に原因があるのではないか?と思ってしまうのは当然のことではないか?と思います。

それで、色んな記事や論文を読んだり、意見を聞いたりするわけですが、自分が考えてもいなかった見方や意見が「なるほど!」となれば、同意することもあるし、一旦考えて見ても良いのでは?となります。

しかし、そういう意見をシェアしたり、いいねを押したりすると、たちまち一部のネット保守の人たちから「リベラル」というレッテルや、「あなたは間違っている」とか「中共のプロパガンダ」とか言われたりすることがあります。

それは彼らの意見と違ったり、違うものの見方だったりするからです。

そして、時には「記事を消せ」とか、「樺島はすっかりリベラルになった。救えない」などと言われます。

これって失礼だなあといつも思っています。
人を簡単に決めつけるなと言いたいですね。

だって一つの意見や行動だけで、簡単に人を「リベラル」とレッテルを貼って、いかにも悪に汚染されたような感じで、私の意見を封じようとするんですからね。

そういうわけで、ちょっと前までは、こういうのに辟易していました。

だけど、ちょっとあることを思い出したんですよね。

私は子供の頃、今は亡き父が晩酌しているとき、父とよくディベートをやっていました。父とこれをやった兄妹は私だけで、多分父もある意味、私とのディベートが面白かったんじゃないか?と思いますね。

議題はだいたい父が出してくるんです。

最初はちゃんとディベートの形式になっているんですけど、時には段々エスカレートしてきて喧嘩になるんですよ。

こういう時決まって、私が数学の証明問題の答えのように、子供のクセに理詰めで反論します。すると、段々機嫌が悪くなってきて、最後には「理屈をいうな」と理不尽に怒られてお終いということが多々ありました。

そう言われると何にもやる気をなくすし、もう二度と父とはディベートをやらないと思ったものです。

懐かしいですね。
ふとこの時のことを思い出しました。

一部のネットの人達の自分が気に入らない意見に「リベラル」というレッテル貼りをするっていうのは、父の「理屈をいうな」的な封じ込めと一緒なのかな?と。

こういった人たちのリベラルの定義がよくわからないと思っていたので、「哲学入門チャンネル」さんの《一部界隈の「リベラル」の定義がここ最近ガバガバすぎるので紹介》という動画をみて、益々そう思いました。

いずれにしても、《変えられるのは未来だけ》

明るい未来を信じて光の方向へ進んで生きたいと思います。

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