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白露

猛暑という言葉にも最近は慣れてきたが、猛残暑という言葉があることを初めて知った。今年から使いだした新しい言葉なのかもしれない。何度も書いているけど本当に暑い夏だった。これほど手ぬぐいを首に巻いた夏はない。手ぬぐいがなかったら今年の夏は乗り越えられなかった。

子供の頃から背中や腰に汗をかく。濡れたシャツが冷房にあたると冷たいので、今年は夏中背中に手ぬぐいをはさんでいた。首にも巻くから毎日2枚必要だ。これがタオルだと首に巻いたらなんだかあれだし、背中に入れたらモコモコする。薄くてかさばらないのが手ぬぐいのよさ。ツアーの時には10枚くらい持って歩いて洗濯して使った。洗濯すればするほど、布もやわらかくなって使い易かった。ありがとう手ぬぐい。ありがとう手ぬぐい。大事なことだから二回言いました。

そんな酷暑も、朝と晩にはその陽の気が少しだけ緩むような気がする。今のところ気がする程度だけど、これから秋の気がじわじわと広がるのだろうか。それとも一気に冬がくるのか。この頃の天気はまったく予想がつかない。

被爆ピアノで歌う

被爆ピアノ HORUGEL


9月に入ってすぐに「浜田真理子被爆ピアノで歌う」のイベントが米子市文化ホールであった。これは「平和のための戦争展」でのコンサートだ。広島の矢川ピアノ工房の調律師・矢川光則さんが自らピアノを運んで来た。矢川さんは、元々いらなくなったピアノを修理して公共施設などに寄付をされていたが、その中に原爆をのりこえたピアノがあることを知り、以来平和を伝えるために各地でそのピアノを使ったコンサートを開催しているすごい方だ。

HIBAKU PIANOの看板

被爆ピアノは爆心地から3キロ以内で原爆の熱風、熱線、放射能の被害を受けたピアノのことをいうそうだ。現在12台あると言っておられた。その中から1台選んで4トントラックでどこまでも運んで行く矢川さん。その活動は海をこえて被爆ピアノは2010年にはニューヨーク、2017年にはオスロへも行ったそうだ。そのことは矢川さんのエッセイ「海をわたる被爆ピアノ」にも書かれている。年間200本ほどのコンサートを開催していて、このピアノを弾いたことのある人はプロアマ問わずたくさんいるとのこと。2020年には五藤利弘監督のオリジナル脚本による映画「おかあさんの被爆ピアノ」が公開され佐野史郎さんが矢川さんの役を演じた。

エッセイと、映画原作本

エッセイを読んでとても強い信念を持っておられる方という印象の矢川さん、お会いしてみると穏やかで優しい話し方をされる方だった。矢川さんは年齢を重ねられて、活動ができなくなるかもしれないと思い、ピアノ工房の敷地内に被爆ピアノ資料館を作られたそうだ。素晴らしい活動に終わりがくるのは切ない。今度時間を作って資料館をおたずねしようと思う。矢川ピアノ工房のHPはこちら

まりまり
マリノ
平和の灯火と千羽鶴

その日は反戦歌を中心に演奏した。いつものライブだと1曲か2曲だけれど、この日はたくさん演奏した。マリノも宮古島で戦争中に起きたことなどを話した。マリノの父方のおばさんは防空壕の中で生まれたそうだ。先日「はだしのゲン」を再び読んだばかりだから、傷だらけのピアノを見てずんと胸にくるものがあった。戦争反対。

はだしのゲン
矢川光則さんと

全都道府県ツアー最終日


あと3週間もしたら誕生日がくる。誕生日自体に待ち遠しい気持ちがあるわけではないが、今年は特別だ。というか、自分で特別にしてしまった。還暦プロジェクトを(ひとり勝手に)立ち上げたのは2年前。コロナ禍であまりツアーができない時期の反動か、思い切り歌の旅をしてみようと思ったのだった。(詳しくは「白地図を買った」をごらんください)

2年、正確には2年2ヶ月5日かかって全都道府県ツアーを終えた。3日坊主のわたしにしては、まあまあがんばったと思う。車に10分乗っただけで酔ってしまう子供だったわたしに、自分のギャラやお金の計算がぜんぜんできなかった20代のわたしに、ライブの移動だけで消耗してしまう30代のわたしに、いつもどこか具合が悪くて体調管理ができなかった30代のわたしに(思えば30代いろいろ大変だったな)、仕事をすること生活をすることに必死だった、そして孤独だった40代のわたしに、続けていたら楽しいこともあるよと教えてやりたい気がする。

marino (首にてぬぐい)

全くひとりではできなかった。
まずは、全ツアーに同行してくれたマリノ。ありがとう。いつも陰になり、日向になり、日向になり、日向になってくれてありがとう。音楽的にはもちろんだけど、時にはPA、時にはマネージャー、時には荷物持ち、時には介護士として笑、いろいろお世話をしてくれて助かりました。あなたがいなければ旅はできなかったよ。感謝です。

そして、行く先々で会えた皆さん。「情熱大陸から20年待っていました」なんて泣かせることを言ってくださった方もあった。また20年来追いかけて来てくださる方も。このツアーをしなければ会えなかった方もたくさんある。ありがとうございました。

白地図

主催、箱ガシ、いろんなスタイルでお会いできた各地の会場の皆さん。全国にいろんなお店があるんだなと知ることができた。突然のお願いに答えてくださり、ありがとうございました。PAさんほか、スタッフの皆さんにも感謝。お世話になりました。

各地で共演をさせてもらったミュージシャンの皆さん。楽しかったです。ライブ会場の情報を教えてくれてありがとうございます。SNSで見守って応援してくれた皆さん、ありがとうございました。

それから家族。母、娘、妹、それから天国の父。友達。みんなに支えてもらいました。ありがとう。だんだん、だんだん。

帰宅したら母がくれた😭


ジャズ喫茶SWAN

新潟駅近く

最終回は新潟県だった。これまで新潟では十日町でライブをすることが多かった。津南町のチャンキーさんがバンド仲間と主催してくれていたのだ。市内でライブをするのは久しぶりだ。ジャズ喫茶SWANは市内の萬代橋を渡った北川にある。港も近い。船で移動していたころは、街の中心地だったけれど、新幹線が通って駅が立派になってからは、中心街はあっちにかわったんだよとマスターの和田さんが言っていた。

萬代橋あと
萬代橋
萬代橋の上から信濃川。松江に似ている。

ジャズ喫茶SWANを紹介してくれたのはとんちピクルスさん。お店のHPを見たらsince1964と書いてあった。なんと同い年ではないですか!還暦ツアーの最後を飾るにふさわしい場所だと直感的に思ってここにお願いさせてもらった。メールで和田さんとやりとりをしていたものの、お会いするまで謎だった。1964年からお店をされているということは、一体この方は何歳なんだろうって。

SWAN店内
グランドピアノがあります。

お店にはいると、大きなJBLのスピーカーが鎮座していて、木のぬくもりと歴史を感じるつくりが安心をさそう。センスのいいとんちさんが、素敵なお店だと言っていたのにも納得。店主の和田さんは78歳。1964年にお店を始めたのは和田さんのお父さんなのだった。その頃はまだお店は別の場所にあったのだそうだ。今の場所になってから50年ほどだそう。和田さんご夫妻はとても優しかった。

店内にはちゃんとレコードをかけるブースもあって、マリノ大興奮。リハーサルのあとや終演後、お店の棚にあるレコードの中からかけてもらったりもした。JBLのスピーカーは柔らかくて優しい音を響かせた。地元のミュージシャンを中心に精力的にライブを開催されていて、楽器がとてもよく鳴るハコだった。ジャズジャイアントの写真やサインがいっぱい飾ってあった。老舗って絶対に音がいいのはなんでだろう。

赤い人みたい
本物の赤い人

この日は最終日なので、還暦記念で赤い衣装でやろうねとマリノと決めていた。選曲はいつものに加えて「新潟ブルース」もセットリストに入れた。行ったこともないのに幼い頃から名前だけは知っている萬代橋、「青い灯がゆれる」と歌われていた新潟駅はとても近代的に変わっていて、歌が流行した時の情緒とは違うかもしれないけどこういう名曲があるのは昔をしのぶ意味でも素晴らしいと思う。ご当地ソングって資料的価値もあるよね。マリノのサックスが咽び泣いた。

ライブを終えて立ち上がっておじぎをしていたら、チャンキーさんが何やら丸いものを持って来た。手作りのくす玉だった。ひっかけるところがなかったので、赤い人が手に持ってくれて、ひもをひっぱった。ファンの皆さんがみんなで出し合って買ってくれたお花もいただいて感激。ありがとうございます。

くす玉
和田さんご夫妻と
打ち上げ

とんちピクルスさんのライブを新潟で主催したりもするという遠山さんがお客でいらして、もしも打ち上げに行くのなら、と場所も紹介してくださった。老舗の「喜ぐち」というお店だった。魚から肉から、いろんな名物を食べさせてもらった。いつもの面々と乾杯して感無量。

牛原秀治さんのこと


最後になったが書いておきたいことがある。いつもわたしのブログに素敵なライブレビューを投稿してくださっていた牛さん/魯牛さんこと牛原秀治さんが8月に急逝された。とてもとても残念で悲しい。全県ツアーの完走を見届けて欲しかった。最終回の新潟ライブでは牛さんのことは考えないようにして演奏した。ちょっとでも思い出したら泣いてしまうから。思えば、この全県ツアーの第一回は神戸の旧グッゲンハイム邸でのライブだった。そもそもあの場所を教えてくれたのは、塩屋在住の牛さんだった。ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。

牛さん@高松。R.I.P.

牛さんの遺品の中に10月5日のコンサートのチケットがあったそうだ。楽しみにしておられたと思う。そのチケットで牛さんのお兄様が代わりに来てくださるそうだ。ありがとうございます。これからは牛さんはチケットなくたって、どんなに遠くたってどのライブにも来れますね。待っていますよ。コンサートでは牛さんが好きだった歌、歌おうと思っている。泣かずに歌えるか心配だけど。さようなら牛さん。わたし、全県ツアー完走しましたよ。

一週間に一度くらいの頻度で記事をアップできればと思っています。どうぞよろしくお願いします。