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美しい花がある、花の美しさという様なものはない

「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」と小林秀雄が言っていたと知って、フィチーノの恋の形而上学のこのくだりを思いました。

「視力は自分だけでは永遠に闇におおわれたままで、何の働きもできない。万物にその色彩と形を与える太陽の光が射し初めた時、初めて目はその光の中に万物の形と色彩を見るのである。

この時でも目が見ているのはただ光だけである。それにもかかわらず、さまざまなものを見ているような気がするのは、

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目に注がれる光が外の物体の持つさまざまな形で飾られているからである。

たしかに、目が見ているこの光は物体からの反射光であり、光の源泉である太陽にあった時のままの純粋な光ではない。これと同じやり方で神は魂を作り、魂に知性、すなわち知力を与えたのである。」


フィチーノはルネサンス時代の人、ダ・ヴィンチの言葉にも同様な認識がありますが、ゲーテの色彩論にも影響したはずです。
三島さんの豊饒の海の、ことに暁の寺、命売りますにもこの認識のある表現がなされています。

ただ三島さんの場合、花の美しさという様なものはないということはよく知っていて、でも美しい花があるとは言わない、言うことは確実にあるのだけど言えばすぐさま交わしてしまうようで、それは文章のそうした流れにですが儚さや優しさを覚えることがあります。

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写真の花嫁は、お仕事で義足を病院でつくられていて、立体パターンでのドレスづくりとはものの考え方の通じるところがあって、骨格や型のお話などしながらご衣装つくっていったのでした。

笑顔の可愛く心根の真っ直ぐで美しい方で、白い坂本龍馬みたいと思ったことがあって(ご本人にはお伝えしてなかったと思います)どうしてかなと今考えてみたのですが、ベトナムが好きなんだと元気よく言われたことがあって。その時に思ったことだったのでした。

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