解放のあとで 三通目 β

 2020年6月21日

 ↑Bさんへ

 本日は夏至です。かなり久しぶりに髪を切り、これまたかなり久しぶりに喫茶店に来てこの記事を書いています。夏至。3月の後半くらいからずっと外出自粛をしていて、外出するペースは月に2,3回という生活を続けていました。春を見ぬまま夏に来てしまった、ちょっとタイムスリップをしたような気分です。

 さて、私も松原さんの「つぎの投稿者にはぜひこの3ヶ月どのように過ごしたのかをしたためてほしい。そしてそのときあなたはなにを読み、なにを思い、これからなにを読み、なにをしたいのかを訊いてみたい。」という問いから出発して書簡を書いてみようと思います。

 この3ヶ月、合計して10回未満の外出の生活の中で、自室にこもって映画をみることが多かったです。余談ですが「みる」と表記しているのは、映画館で上映することを前提として作られている映画をスマートフォンで視聴していたため、「見る」も「観る」もどちらの言葉も自分の中でしっかりこないため「みる」と表記しています。Amazon Primeで映画をみることには、どちらの言葉がしっくりくるでしょうか。もしご意見のある方はお教えください。
 閑話休題。数えてみたところ、外出自粛を始めてから昨日までの約50日強の日々の中でみた映画はちょうど50本でした。すべてを列挙するとそれだけでこの書簡が埋まってしまいますし、みた中でオススメを紹介するというのではあまりに不粋でしょうから、映画をみて考えたことをコロナに絡めて書いてみたいと思います。

 映画をみて考えたことをコロナに絡めて書くと言いましたが、それはなにかということを言ってしまえば、すべての人が自分の生まれた時代を生きるしかないということです。
 『戦場のメリークリスマス』、『日本のいちばん長い日』や『ヒトラー〜最期の12日間』の時代には戦争があり、『砂の器』の時代にはハンセン病への誤解と差別があり、『プロジェクトA』の時代には英国の香港統治があり……挙げればキリがありませんが、特殊ではない時代などないように思います。新型コロナパンデミックという、歴史的出来事。あたりまえの日常が瓦解して、「with コロナ」なんていうこれから始まる日常は特異なものに思えますが、元々の日常も終戦直後から見たら、高度経済成長期から見たら、バブル期からみたら、特異なものだったように思います。日常と言いますが常なる日々なんてなくて、本当に明日のことはわからないように思います。(ちょっと読み返してみると、思ってばかりの文章ですね。どうも私は断言するのが苦手で、自分のすべての文章に「あくまで私の偏見から強いて申し上げるなら」という含意があるため思うという言葉が頻出します。読みづらいでしょうが、どうかお許しください。)
 さて、冗長に自分たちの時代を生きるしかないということを述べてきましたが、それがなんなの? と問われると少し答えに詰まってしまいます。ただ、個人的な心境の話をすれば、そのことがわかっていれば、時代という巨大なものを敵にしなくてよくなるということがあります。
 私自身はこの一年はサークル活動を思いっきりやろうと意気込んでいて、部員と色々話し合い計画していたのですが、すべて台無しになってしまいました。新歓活動から始まり引退までの一年、思い描き計画したすべては結論から言えば無駄に、無意味なものになってしまいました。最初のころはコロナに対してなんだようと苛立ちや嫌悪感がありましたが、上記のことを考えついて、コロナに対しての気持ちは収まりました。仕方ない、本当にただひたすら仕方ない。そんな現在の心境です。きっとコロナに対して怒りや敵意を抱いている人も多いことでしょう。しかし、コロナという時代を敵にすることは勝ちも負けもない、ただ傷が増えるだけの戦いのように思います。世界中が不幸な時期でしたが、時代への戦いをやめて、また明日に期待しながら過ごすことは心が楽になる方法のように思います。弱腰な意見ですが、私個人としては自分の中でそう心の整理をしました。

 さて、次の話題にゆきたいと思います。なにを読んだか、という問いでしたが、特筆したいのは手塚治虫の漫画です。これまた余談になってしまうのですが、個人的に手塚治虫に先生や氏とつけて呼ぶことができません。手塚治虫を漫画を読んで「漫画の神様」という呼称は伊達じゃないと敬服のしたおしで、ゼウスをさんづけで呼ばないように、敬称をつけて呼ぶことがなんとなくためらわれてしまうのです。
 話に戻ります。手塚治虫の漫画時代は幼少期に何点か読んだことがあるのですが、外出自粛中、その魅力を再発見し、読んでいました。
・奇子
・シュマリ
・アドルフに告ぐ
・ブラック・ジャック(読んでる途中。15巻まで読了。)
 すべて著者は手塚治虫です。手塚治虫の全作品にわたる最大のテーマは「生命の尊厳」。コロナによって死が多くの人に意識されている今、タイムリーなものかもしれません。
 そもそも生命の尊厳とはなんでしょうか。そしてそれはあったりなかったりするのでしょうか。この問いに答えることは実に難しく、正解や不正解が判定できるものではないと思います。ニーチェの言うように「解釈があるだけ」。でしょうか。
 手塚治虫が描く生命の尊厳を自分なりに少し考察してみたいと思います。手塚治虫の作品には自然への畏怖、人間のエゴイズムへの因果応報、科学や文明の発展の功罪などが描かれます。手塚治虫の描く生命の尊厳は、生きていることそれ自体が素晴らしいということのように思います。誤解や思い上がりをして周りの人、動物、自然などを傷つけてしまうことがあってなお、周りの人や環境と共に生きてゆくこと。その素晴らしさ。手塚治虫はそんなことを繰り返し描きます。『ブラック・ジャック』で手塚治虫が描いたのは「医療の素晴らしさ」ではなく、「医療の限界と、生命の神秘、それに挑む人々」だったことからも伺えるでしょう。

 さて、長々と書いてきましたが、読み返してみると色々なものに言及しながらも、なにも言っていないような文章になってしまったような気がします。自分語り、憶測、拙い考察。悪文の見本市のような文章でお恥ずかしい限りですが、これを読んでくださる方がなにか少しでも考える契機を見つけられたらいいなと思っています。解放のあとで。アフターコロナという歴史が辿り着いた時代にどうあればいいのか。考え続けて答えのわからないまま、また次の時代に突入してしまうような気がします。しかし考えることはやめず、自分なりにできることをしたいと思います。
 次の方にもまた、この3ヶ月の暮らしをどう過ごしたのか、どんなものに触れてなにを考えたのか、聞いてみたいと思います。

 最後に、『アドルフに告ぐ』より、戦争を生き抜いた主人公の峠草平のセリフを引用してこの稚拙な書簡を終えます。
「誰も彼も……
日本中の人間が
戦争で大事なものを失った……
ーーそれでもなにかを期待して精一杯生きてる
人間てのはすばらしい」
 私もなにかを期待して、この時代を生きてみることにします。

歌猫まり

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