解放のあとで 十四通目 α

2020年9月21日

松原さんへ

 最近はマスクをつけているのも少し楽に感じます。秋の予感のあるそんな季節ですね。この書簡もいよいよ最終週となり、改めて時間、季節の経過を感じます。いよいよものを書くことに慣れないまま最後の担当分を書くことになってしまいました。時間が経つのに伴わず進まない自分の成長を嘆きながらこの書簡を書いています。

 最初の書簡の頃から三ヶ月という時間が経ち、世界の様子も随分と変わりました。この書簡が始まった当時は緊急事態宣言が解除された直後で、まだまだ外出することはリスキーだという空気でした。当時は僕もすっかり引きこもり生活者で、ひたすら映画をみて手塚治虫の漫画を読んで過ごしていました。あの頃は本当に世界に閉塞感が満ちていたように思います。
 近況についてですが、私の生活もだいぶ元どおりになってきており、サークルに行ったり気心の知れた仲の人たちと遊んだりできています(もちろん、マスクや手洗いなどの予防策はしっかりとしています)。
 多くのことがまたできるようになってきている現在ですが、なにより嬉しいのはまた落語ができるということです。老人ホームや公民館に行ったり、学生の自主的な集まりの寄席など、去年は多い時は月に六席、年間約四十席くらい落語をやっていました。落語が生活のリズムの一部にあり、このまま学生生活を落語とともに過ごしてゆくのだろうな、と思っていました。しかし、落語のような舞台芸術は真っ先にコロナの影響を受けて、なにもできなくなってしまいました。その後、自分の部屋で録画してそれをアップロードするなどということもやりましたが、どうにも味気ない。もっとやりようはあったのかも知れませんが、続けてゆく気にはなれませんでした。先日、落語をやらせていただく機会があって、やはり少なくてもお客さんに来ていただいて、その前で落語をやって、場を共有すること、同じ空間にいるということの歓びを再確認しました。今言ったことなど、すでに多くの人が感じ、そのように言っていると思いますが、あえて私もこのことを言葉に出すことにしました。

 さて、近況の話はこれくらいにして(落語できてよかったくらいのことしか言えていませんが)、松原さんのおっしゃった「前衛との格闘」について書いてゆきたいと思います。
 もともと文学ではなく落語をやっている身としては、そもそも文学自体との格闘から始めなくてはなりません。落語をやる際は、決まったことを語るのではなく、その場その場でお客さんの反応や自分の気分に合わせて内容を作りながら語ってゆきます。ライブパフォーマンスなので、どこまで作り込んでもやはり当日のその時間のその場で始めてみないとどのようなものになるかがわかりません。しかし、それゆえにお客さんの反応や自分のテンションなどがうまくノってゆけば、自分自身に驚くようないいパフォーマンスができることもあります(その逆もあるわけですが)。その時の爽やかな達成感、これに味を覚めてしまうと、落語をやることにハマります。今も、僕はハマっています。
 その点、文学はひとりで進めてゆく孤独な作業です。私自身、高校の頃などは小説を描いたりもしていましたが、文学のことなどなにも解してなく(今も「私は文学のことわかってます」なんて口が裂けても言えませんが、当時よりはいささかマシだとは思います)、ほとんど独善的な妄想を文字に出力したようなものでした。なので、文学に関しては素人中の素人、門外漢と言ってもいい身分です。しかし少し描いてみると中々に楽しく、技巧や理論に暗いという後ろめたさはありますが、とにかくも前衛アンソロジーではこの描く楽しさを大事に進めてゆきたいと思っています。
 前衛アンソロジー。この企画が初めから前衛と名乗っているのは面白いことです。参加メンバーの誰もがまだ一文字も描いていない時から、前衛アンソロジーという名前は決まっていました。つまり、寄稿者はみな、「前衛をやるぞ!」というところから創作をスタートするわけです。私も、「前衛をやるぞ!」と意気込んでプロットを考え始めました。「どんなことをやれば前衛になるかな?」と考えるわけです。しかし、当たり前と言えば当たり前なのかもしれませんが、この前衛というのが難しい。私に思いつけるような新しさや脱構築などやり尽くされてしまっているように思いました。例えば存在しない言語を使用したり、あり得ない事象の組み合わせや関係を描いたりと、これらはもはや古典的と言えてしまうような前衛です。では、前衛的前衛とはなんなのか。奇をてらうこととなにが違うのか。奇をてらっているだけの作品は前衛作品より価値がないのか。そもそもすべての作品は違うのだから、前衛や古典とカテゴライズすること自体は無意味ではないのか。いや、しかしそんなことを言ってしまっては、すべての新しく生まれる作品は前衛ですと開き直るようなものではないか。ちゃんと前衛をしたいがでは結局どうすれば前衛ができるのか……。果たしない闘いです。まさに格闘と言ってよろしい状態でしょう。この格闘の結末は、是非前衛アンソロジーでお確かめください。今も私と同じように前衛と格闘しているメンバーのことを想います。幸あれ。幸がなくても、締め切りに間に合うくらいの余裕あれ。終わった時にはお互いの健闘を称え合いましょう。
 私も死力を尽くして闘いますが、結果、読者のアナタに私が前衛(その概念、そして「前衛」という言葉)に敗北したと判定されたら、それはそれで面白いような気がします。「前衛に敗北した作者」。なんだかこの言葉は前衛っぽいですね、なんて。

 さて、ここまで読み返してみて抱く感想は、やはり自分の文章の拙さへの恥ずかしさです。特に今回はふんわりとしたエッセイのようになってしまいました。書簡の最終周ということで、今まで自分の書いた三回分の書簡を読み直してみましたが、いずれの回でも自分の文章の拙さを謝っていました。いつか堂々と文章を書ける日がくるといいのですが(そもそも今後も文章を書き、見ていただける機会があればですが)。始める前から言い訳ばかりというような感じになってしまいましたが、前衛アンソロジー、今の自分にできる精一杯をやります。お楽しみに、と最後には強気に言っておきましょう。
 次の方でこの書簡も締めくくりですね。次の方には松原さんのおっしゃったように前衛との格闘と、書簡全体の締めくくりをお願いします。

 解放のあとで、私たちは文章を描くことを、前衛と格闘することを決めました。激動の世界の片隅で孤独に文章を連ねた私たちの作品が、アナタと出逢えますように。

歌猫まり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?