解放のあとで 十二通目 β

2020年9月4日

水底さんへ

 書簡、読ませていただきました。文学における「語り」への視点、実に興味深く(大学生がレビューシートに書く「興味深かったです」ではなく、本当に)、今後の書簡にも是非水底さんの「語り」への考察を書いていただきたいと思いました。口語体、文語体、口述筆記、書簡体の文学、私小説……「語り」に絡んでくるものは実に多く、その数だけ覗ける深みがあるように思います。私も私なりに「語り」という視点を持って文学に触れてみたいと思います。

 さて、うだうだと言っているうちにうだるような暑さの8月は過ぎて、もう9月になってしまいました。暑い日は続きますが、ピークは越したかなという肌感覚、夏休みも折り返しです。暑さよりもあんまりの自身の遅筆ぶりに汗をかきながらこの書簡を書いています。
 「自由に、時事ではない最近の関心事についてのお話」とのことでしたので、まずはそのことから書いてゆこうかなと思います。
 最近はアニメ『プリパラ』を見ています。なかなかボリュームのある作品なのでまだまだかじったにすぎませんが、『プリパラ』を見ていて考えたことをここに書き連ねてみます。

 『プリパラ』は「理解の物語」だと思います。
 私たちは普段、役割を生きている。それは、中学生だったり、親だったり、株式会社○○のヒラだったり……わかりやすいものはこういったものでしょう。他にも優しい人、オシャレに興味のないそぶりの人、男子校出身で高校時代の話ばかりする人……思えば、人と関わるときに役割を演じていない瞬間というのはほとんどないように思えます。コミュニティによって違う態度、話し方をする自覚がある人も多いことでしょう。各々が各々の役割を演ずる。社会の構造はそれで成り立っているのでしょう。
 私たちは社会に生きています。役割を生きている時間の方がきっと長い。ほとんどと言っていいほどの時間かもしれません。ひとりでいる時間にも、考えることは明日の予定や仕事のことということが多いでしょう。
 『プリパラ』の世界でも同じです。登場人物たちは役割を生きている。それは、表向きは誰もが羨むカリスマアイドルである私だったり、女の子らしくない私だったり、校長先生の言うことだから仕方なく従う私だったりします。『プリパラ』の世界にも学校や地域
という社会構造があります。しかし、その役割を生きることを優先して、自分を見失っているのではないか。本当は、カリスマアイドルではない自分、女の子らしい服装を楽しんでみたい自分、校長先生の言うことなんて聞かないでプリパラの世界に行ってみたい自分がいるでしょう。主人公の真中らぁらちゃんは自分も葛藤しながらも、他者と関わる中で、その人と共に、その人の本当にしたいこと、なりたいもの、それらを一緒に見つめようとします。他者の、そして自分自身の理解。社会の中で役割を生きている人々に「本当は何を望んでいるの?」と『プリパラ』は問いかけます。そして作品の中で本当はなりたい自分を自覚し、プリパラ(ここでのプリパラは『プリパラ』の世界の中のプリパラです)の世界に飛び込み、そこで自分なりの輝きを手にするキャラクターたちは、プリパラのない現実の世界を生きなくてはならない私たちにもなにかやりようがあるんじゃないかと、希望を与えてくれます。
 自分なりの輝きとは言いましたが、プリパラという社会での役割をふるまうという構造自体は変わりません。しかし、社会構造の中で生きていることに自覚的になり、自分の本当にしたいこと、なりたいものを見つめれば、きっとまた違う自分を生きることができるように思います。誰しもが抱く変身願望、でも、自分はこういう人間だから……。浜田省吾(『プリパラ』の登場人物ではありませんが)は「自由に生きる方法なんて100通りだってあるさ」と歌い、立川談志(これまた『プリパラ』の登場人物ではありません)は「勝手に生きよう」と語ります。きっと私たちの命はもっと自由なのでしょう。残念ながらプリパラのない世界に生まれてしまった私たちですが、この世界の私たちにも、私たちなりの生き方が普段思っているよりもあると思います。私たちが「もっと自分に素直になっていいのかな」と思う時、真中らぁらちゃんは「かしこまっ!」と背中を押してくれることでしょう。

 長々と書いてきましたが読み返してみるとウサンクサイなにかの教祖みたいな文章になってしまいました。『プリパラ』に興味のある方は私の言ってることなどすべて忘れて是非見てみてください。『プリパラ』の好きな方もやはり私の言ってることなどすべて忘れてください。お互いの好きなキャラクターの話などしましょう。
 この書簡を書かせていただくのももう3回目ですが、毎度のようにこんな内容でいいのかなと思っています。どうかご容赦いただきたい。

 もう9月。季節の廻りの早さへの驚きはいつも枯れることがありません。この書簡は文フリに出品する前衛アンソロジーに寄稿するメンバーによって書かれているのですが、書簡ももう最終周になります。
 前衛アンソロジー。「前衛」と自ら名乗っているのが実に楽しみな作品です。前衛とはなにか。前衛でなにができるのか。それは寄稿する作者の数だけ答えがあることでしょう。ここでひとつ私の考えを述べておくと、前衛とは、舗装されていない道を選び旅することだと思います。
 前衛アンソロジー、そこに描かれる旅は、描く私を、読むアナタを、どこへ連れて行ってくれるのでしょうか。楽しみな気持ちだけが、今わかることです。

 ここまで持ち前の遅筆ぶりで書いてきたのですが、ついさっき自宅のエアコンが壊れました。なにか悪いことの予兆でないことを自分のために祈っていますが、これは閑話休題というやつ。書簡の返信が遅くなり大変に申し訳ありませんでした。
 次の方には筆に余裕があれば、とお断りをしたうえで前衛アンソロジーに何かしらの形で触れていただくことをお願いして、筆をおくことにします。

歌猫まり

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