開放のあとで 七通目 α

2020年7月26日

 古谷さんへ

 約一ヶ月ぶりにこの書簡を書くワケですが、お恥ずかしながら謝罪から始めなくてはなりません。
 自分の担当は先週だったのですが、どうにも勘違いをしていて、自分は七月最終週の担当だと思い込んでおりました。書簡の更新が一週間ズレてしまい、みなさんにご迷惑をおかけしました。申し訳ありません。

 気を取り直して書簡を書き進めてゆくことにいたします。
 『解放のあとで α』の方では、一通目の幸村さんから前回の古谷さんまで、政治や差別、SNSなどの問題について言及されています。
 自分は盛んにTwitterを利用していますが、政治や社会についてTwitterで発言するのは避けてきました。Twitter上だけでなく、現実で会って人と話す時にも避けてきました。ただし、それは政治から目を逸らしてきたということではなく、今まで自分の行ける選挙には全て投票してきました(先日の都知事選にも投票しました)。私は自分の政治への態度を、投票という形でのみ政治に関わるというように決めています(もちろん投票に際して情報を集めて吟味して決断するということはします)。

 政治学を学んでおらず、日頃から政治について語らない身ではありますが、前回の古谷さんの書簡に桜井誠氏に絡めて、差別の話が出たので差別について少し思うところを書いてみようと思います。
 都知事選の直後には桜井誠氏に投票した人が一八万人いたということが話題になり(問題という言い方は公平な立場ではないと思います)、最近では安楽死や尊厳死、優生思想の話題が盛んに話されているように思います。
 これらの話題を掘り下げてしっかりとした議論をするのは大変に労力と時間がかかるので(そもそも発見や進展、落とし所があっても決着はないと思います。しかし、なので議論するのはバカらしいよねという主張がしたいのではありません。倫理学などを踏まえて、絶えず議論はなされるべきだと思いますが今回は時間や文字数の関係上そちらに話は進めません、ということです)、一点にのみ言及をしておきたいと思います。
 それは、差別についての発言がある際に、"差別者への差別"には無頓着であることが多いように思われるという点です。
 差別というのは実に難しい問題です。そもそも差別とはなにかという定義からして困難です。十人十色、人間はみな個体ごとに差異があります(物理的にあると言えます)。差異は悪いこととみなされていないが、差別は悪いこととみなされている(by ふんわりとした世論、ほとんど雰囲気と言っていいもの)。しかしこれはよくよく見てみると、差別自体が問題なのではなく差別に伴う暴力が問題なのではないでしょうか? 「差別はいけない」、それは、差別が暴力を生み出すケースが多々あるから、その原因となる差別はいけないということだと思いますが、問題なのは差別という思想そのものなのか、差別という理由を得て働く人間の攻撃性なのか、このような議論はあまりされてないように思います。
 「差別者は最低だ」という発言は差別ではないのでしょうか? 「優生思想を肯定する発言をしてる奴は人間として程度が低い」という発言をする人は自分を優生的に見ていないようには思えません。先に述べた"差別者への差別"、これに無自覚な人によって差別の問題は議論の出発点である見識の違いを認め合わず、ただお互いを差別し口撃し合い続けるような事態が往々にして見られるように思います。
 コロナの動乱の中、BlackLivesMatterや人種差別、優生思想などの差別の話題が盛んに出てきたのはひとつ注目するべき点のように思います。コロナを取り巻く情勢によってストレスが溜まり、攻撃性が増した人が多かったから。などと簡単には言えないでしょうが、全く相関のないこととも思えません。いまだコロナに伴う混乱や模索の時期ですから、このあたりはコロナが収まった後に遡及的に観察、考察されてゆくことでしょう。
 この書簡を読んでいる方にお願いをできるようなオエライさんな立場ではありませんが、盛んに差別ということが言われながらその中身があまり顧みられ考えられていないような現在に、「差別とはなにか」、「差別はいけないことなのか」といったことを考える人が増え(言及する人が増えるべきとは考えません。あくまで差別に関することを精察し考えようという姿勢の人が増えれば変わってくることもあると思います)れば、小手先の差別問題にストレスを溜めるだけ、怒るだけという状態にはならずに済むかなと思います。大枠から考えてゆく、自分もこれは政治や思想に関する多くのことで実践してゆきたいと思います。

 さて、長々と稚拙に議論、提言未満の感想のようなものを書きました。念を押して書くまでもないとは思いますが、この書簡で特定の思想や人物への支持や不支持を表明していないことは一応断っておきます。
 次にコロナという状況下での過ごし方、興味関心ということについて書いてゆきたいと思いますが、これには一ヶ月前に「解放のあとで 三通目 β」にてある程度言及しました。相変わらず映画と手塚治虫の漫画(『ブラック・ジャック』と『ブッダ』を読了し『三つ目がとおる』を読み始めました)にばかり触れていたのであまりニュースがなく困ってしまいます。長い梅雨に辟易としながら「もう七月が終わるなんてあっという間だな」と考えるのは、変わりばえのしない生活を続けているからでしょう。ただ、今は七月の終わり、大学生にとっては期末の時期です。私も大学生らしくレポートに追われています(レポートが追ってきているのではなく私が逃げているだけですが)。私個人の生活については本当に変化がなく、こんなところです。
 私個人の生活はほとんど変わりませんでしたが、社会情勢は随分と変わったように思います。日本の一日のPCR検査新規陽性者は過去最高を更新し、東京では連日二百人前後の陽性者が出ています。その一方でGO TOキャンペーンも始まり、なにか用事があって外に出た時には街に多くの人がいる現状です(マスクをつけている人は多いように思います)。一方でイギリスでは制作中のワクチンの効果が認められたというようなニュースもありました。
 「解放のあとで」というタイトルのこの書簡ですが、このタイトルにある「解放」は緊急事態宣言解除だったと記憶しています。「解放」から二ヶ月経った今も、なんとなく閉塞感の漂う世の中のように思います。
 次の一ヶ月は果たしてどのようになるでしょうか。「一寸先は闇」というのは世の常でしょうが、それを強く思わせられる時代だと感じます。

 つらつらと書いてきましたが、読み返してみると前回同様になにか言ってるようでなにも言っていないような文章になってしまった気がします(その愚痴を書き始めたらこの書簡が五つほどできてしまう分量になりそうなので書きませんが)。
 次の方には私の稚拙な文章はごくさらりと飛ばし読みしていただいて、前の方々がおっしゃっていた「今の情勢から思い、考えること」や「今までの過ごし方、興味関心」について書いていただければと思います。

 読んでくださった皆さんの健康と、すべての大学生の皆さんの単位の安寧を祈っています。

歌猫まり

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