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I will change

自信がなくて、自分がなくて、いつも誰にどう思われるかを気にしていた子供の頃。

中学に入る頃、父を嫌い始めた。それと同時に、人も私のことを嫌っているかもしれないと思うようになった。

当時は「すべては自分の思いの鏡」などという法則を知る由もなかったが、自分が人を嫌っているから、人も自分を嫌っているかもしれないと思うんだ、ということを、なんとなくわかっていた。

その思いの延長で、友達といることは楽しい反面、誰かと居ても、この人は本当は、私のことを嫌いかもしれない、という思いを、体の奥底に広がっている暗雲のように、常に抱くようになった。

仲良くなっても、いつもどこかで、いつか私のことを嫌いになるんじゃないか、という思いがあった。

本当の私を知ったら、きっと私を嫌いになる、と思っていた。

本当は私のことは嫌いなのに、しかたなく一緒にいるのかもしれない、という思いがあった。

それは私が母に対して抱いていたものだった。

本当は私のことが嫌いなのに、自分の子供だからしかたなく世話をして、しかたなく話をして、しかたなく一緒にいるのじゃないか、という感覚。

だから私はなんとかして母に好かれなければならなかった。

母の嫌いな性格の自分を嫌い、別の性格のふりをした。

うまく隠せていると思っていたのは自分だけだったかもしれないけれど。

私以外の人は、みんな、本当の私など最初からお見通しだったかもしれないけれど。

私は、本当の私でいてはいけない、とずっと思っていた。

本当の私では嫌われるのだと、子供の頃から、思っていた。

別の性格の振りなど上手くできるわけはないのだが。

自分では、本当の自分を上手く隠して、違う性格の子になっているつもりでいた。

だけどきっと、私のことを、元気で明るくて外交的で、ハキハキものを言って、どんどん前に出ていくような子だと、思っている人は、誰一人としていなかっただろう。

私だけがただ、自分はこんな性格なのだと人に知られてはいけないと、隠さなければいけないと、それを知られたら終わりだと、思い込んでいただけだった。

おとなしいね、などと言って、自分の体裁を保つために、まるで馬鹿にするように、その一言で勝利したかのように言ってくる大人を、私は嫌った。

だからなんなのだ?

それが悪いのか?

と、表情には出さずに、心の中で憎んだ。

表面しか見ることのできない人間を、私は見下した。

私のことを何も知らないのに、ひとことでそうやって決めつける大人を、くだらない人間だと思った。


心を表情に出さないことを学んだのは、ずいぶん幼い頃だった。

私は感じることを自分に禁止していた。

それでも、静かに水の底に沈んでいって少しずつ溜まった澱のような、感情の塊を、

時折、私は自分の外へ出した。紙の上に、誰にも伝えない、文字として。

無表情、何を考えているかわからない、と中学の頃からよく友人に言われた。

感じることを禁止した私は、表情もなくなっていたのだ。

黙っている時には、怒っているようだと言われたこともあった。

だが笑うときは心から笑った。

お愛想で笑うことができなかった。

笑う時には本当に心からおかしいと思った時だけだった。

笑うと別人みたいだとよく言われた。

泣くのをやめたのは幼稚園の頃だった。

もっと幼い頃は、私は泣き虫だった。

お前はすぐ泣く、ずるい、と姉に言われ、絶対に泣くものかと思うようになった。

どんな注射でも(アレルギー性鼻炎だったので、鼻腔に鍼を打たれたこともある。幼稚園の頃だった)、泣なかった。

強い、と母から褒められた。

そのために、泣かない、強い自分を、私は誇りに思った。

泣いているところを見られるのは、人から馬鹿にされるような、恥ずかしいことだった。

子供の頃に一滴も涙を流さなかったわけではないが、

泣きそうになると、必死で、涙がこぼれないように抵抗した。

泣いているところを見られたら負けだと思っていた。

こぼれそうになった涙をふいているところを人に見らるのさえ嫌だった。

私は、何かしらの感情を感じていることを、私の心の動きを、人に見られるのが、知られるのが、何よりも嫌だった。

それを笑われるのを、馬鹿にされるのを、そしてそんな弱い感情を持っていることで非難されるのを、恐れていたからだった。

私には泣いて帰れる場所はなかったのだ。

泣いて帰れば、私が悪いのだった。

だから子供の頃から、嫌な出来事があっても、誰にも言わずに一人で抱えて生きてきた。母に非難されることの方が、耐え難かったからだ。

私はすべての感情を、押し殺して成長した。

本当の自分を無視し、置き去りにし、別な人になろうとばかり思っていた。

明るく元気で、ハキハキしていて、どんどん前に出ていくような、積極的な人間でなければならないと思っていた。

そんな人間に変わらなければ、と思っていた。

別人になど、なれるわけはないのだった。

別の人だったら簡単にできるようなことも、私にとっては苦痛だった。

人と話すこと。自分から話しかけること。輪の中に入っていくこと。輪の中でみんなと同じようにワイワイ話すこと。電話をかけること。電話に出ること。

だがそんな苦痛なことを、私はずっと自分に強いていた。

苦手なことばかり、自分に強いてきた。

そんなことができなければダメなのだと思っていたから。

私以外の人は皆、自信を持っていて、楽に生きているように見えた。

ただ、おとなしいというだけの理由だった。

ただ、おとなしいというだけで、母が私を嫌っていたから、というだけの理由だった。

そのために私は本当の自分を捨て、隠し、嫌い、別人になるために人生をついやし、そしてそのために、苦しんだ。

若い頃は、なぜこんなに生きるのが苦しいのか、ということさえわからなかった。

いつも何かの影に脅え、崖すれすれのところを歩いているような感じだった。

私は自分を嫌い続けながらも、幸せになるための方法を探し続けた。

どんな雑誌に書いてあるヒントも、どんな人の言うアドバイスも、

役に立つものはなかった。

このアドバイスを聞いてそうしてみたら、楽に生きられるようになりました、

などという誰かの感想を読んでは、この人の問題は私ほど根深くないんだ、と思った。

私のはそんな簡単にいくものではない、と思っていた。

誰にもわかってもらえない、誰にも助けられないもののように感じていた。

恋愛も、同じ間違いを何度もおかした。

一度の間違いで学んで、幸せになっていく友人を見ては、

そうできない自分を、私はどこかが違うのではないか、と思い始めたのは、かなり年齢を経てからだった。

もっと根深いものがあるのではないか、と思うようになった。

ある恋愛をして、それまで押さえつけていた私の感情が、一度に溢れ出した。

それまでの人生で、流さずに押さえつけていたすべての涙を、一度に溢れさせたようだった。

感情を閉じ込めていた一つの場所が破れると、他の場所も破れ始めた。

私のすべての感情が、その時から外へ出るようになった。

その時から、私は自分について学び始めた。

心理学、精神分析、さまざまなものを読み漁った。

そのためしばらくの間、頭でっかちになり、分析し、解剖し、原因追求し、私をそうさせた人に責任をなすりつけるという年月を過ごした。

それでも、本当の自分を嫌い、人も私を嫌っているのではないかという思いが消えるわけではなかった。

私は相変わらず違う人になろうとしていたし、母の愛と賞賛を勝ち得るために、何者かにならなければいけないと信じていた。昔決めたその思いを、そのまま持ち続け、いつまでもこだわっていた。

うまくいかないことがあれば、うまくできない自分を責めた。

いつも他人と自分を比べ、そしてその誰かに負けていると思っていた。

いつも私は充分ではなく、劣っていると感じていた。

誰かが私に冷たいのは、私がダメな人間だからだと思っていた。

そしてそんな人たちに、どうしても私は好かれなければならないと、思い込んでいた。そして好かれるように努力した。

それでも、いつも、私のようなタイプを好きではない人たちは、私を好きになってくれることはなかった。いつも真逆の、明るくて元気でハキハキしている、積極的な子たちを優遇した。

そんな人たちばかりが目にはいって、

そんな人たちに好かれようとばかり努力していた。

私を評価してくれる人、私に普通に好意を持ってくれる人には、注意が向かなかった。

私を嫌う人ばかりを見つけ、その人に好かれなければならない、と懸命になった。

そして傷ついてばかりいた。


そんな精神を<死>までに追い詰めたのは、20代の半ばだった。

身体を<死>にまで追い詰めたのは、40代になってからだった。

自分で自分の身体を痛めつけ、痛めつける場所に身を置き続け、傷つける人の輪の中にばかり自分の身を置き続け、そして死にまで至らせる病気になり、

退院したその日、すべては、自分で自分にしていたことだったと気がついた。

私がその輪の中へ行くことを選び、私がその人たちに私を傷つけさせることを許し、私が、自分がそんな扱いに値する人間だと決めていた。

私を苦しめ続けていたのは、誰でもない私自身だったのだと、やっとわかった。

いままで辛い思いをさせてごめんなさい、と自分に謝った。

置き去りにしていた、自分を連れに戻った。

私を一番に愛するべきだった人から、愛されなかった。嫌われていたと、少なくとも、そう感じていた、私という人間は、どこも悪くはなかったのだと、生まれて初めて知った。

母の方が、人を愛せない人だった、というだけのことだった。(そしてそんな母も、子供の頃、母親から愛してもらえなかったという思いを抱いて育った人だった。)

こんな自分だっていいのだと、初めて、心から理解できた。

必要な愛情をもらえなかったとしても、私は、私を認め、愛せばいいのだと、私は愛を持っているし、愛を与えることもできるし、愛を受け取るに値する人間なんだ、と、思いを変えるようになった。

それからは、一から、自分を見つけていく作業だった。

自分のことを何も知らなかった。

私は本当はどんなものが好きで、そんなものが欲しいと思っているのか。

どんなことが本当はしたくて、どんな自分に本当はなりたいと思っているのか。

私は何もわかっていなかった。

答えを探すことはとても難しかった。

どこへ隠したかも忘れてしまったほどだった。

本当の自分を無くし、隠してきた年数は、それだけ長かった。

偽りの自分で生きてきた間に、本当の自分をすっかり忘れてしまっていた。

それでも、ひとつひとつ、見つけては、思い出しては、拾っていった。

自分が好きだと思うものを、ひとつひとつ、集めていった。

自分の好きなものを自分に与えてあげることさえ、慣れていないことだった。

そうすることを、自分に許していくことから、始めなければならなかった。

自分が、欲しいものを、手にしてもいいんだよ、と自分に言い聞かせることから始めた。

私が否定してきた自分を、そんなのでもいいよ、と自分に言ってあげた。

ダメだと思っていた自分に、こんなことができるよ、意外と悪くないよ、と言ってあげた。

40年かけて積み上げてきた、造りものの自分を捨てていった。

それまでは自分が嫌いで、自分なんてダメだと思っていて、こんな私では愛されない、別の人格にならなければいけないんだ、と思っていて、自分を変えようとしてきた人生を送ってきたが、

今度は、そんな自分をすべて壊して捨てて、本当の、本来の、もともとの、素の自分へと、変えていく日々だった。

身体の隅々にこびりついて、本物と見分けのつかないほど馴染んでしまっている、古い考え、古い私を、一枚一枚、剥がしていく作業だった。

簡単に終わる作業ではなかった。

一日、一カ月、一年、十年、とかけて、少しずつ変わっていった。

その作業は、今もまだ続いている。

その「古い私」「古い思い込み」は、何かあると、まるで瘡蓋が乾いてその端っこがめくれるように、ざらざらした違和感を私に与える。

その度に、私はそれを剥がして、捨てていく。

自分を嫌い、誰か別の人のようにならなければ、と信じてこれまでの人生のほとんどの年月を生きてきた自分で生きるのはもうやめて、本当の自分に戻るという道を歩き出した。

今では、私は本当の自分を見つけ出したと思っている。

感情を取り戻し、自信も、それなりに、見つける方法を知っている。

好きなものはたくさん見つけた。

欲しいものはーーまだ遠慮がちだけれど、だんだん良くなってきているーー手にしたっていいのだと思えるようになった。

「前の私」で40年以上を費やしたのだ。「新しい私(本来の私)」になるまでに、時間がかかるのはわかっている。

誰かから好かれるために、自分を偽り、我慢し、従う、という生き方をやめることができた。

誰かが私のことを嫌いだとしても、それはそれでいい、と思えるようになった。

泣きたい時には泣くし、笑いたい時には笑う。お愛想で笑っても、それは自分を偽っているからではない。

何かをするのは、誰かに認めてもらい、褒めてもらうためではなくて、それを自分がしたいと思うからする。

昔教えられて育った、偏った考え方、本来あるべき自然なかたちではない考え方、を捨てていき、自分はこう思う、という考え方を造り上げてきた。

不幸にさせる考え方や、信じてきたこと、習慣、感じ方の古い癖、などを、捨ててきた。

そして、本来の自分にもどり、そのすべてを受け入れていく。愛していく。そして、苦しみを与えるなんらかの信念を持っているのに気づけば、それは本当に正しい信念なのだろうかと自分に問い、そうでないなら、それらを書き変えていく。そうやって新しい自分を造っていく。

それが、私の、「私は変わる」という意味。


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