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私は人を好きになれない
私は人を好きになれない。
私は自分から誰かを好きにならない。
なぜなら、私には、こういう人が好き、というような、いわゆるタイプというものがないからだ。
今まで、好きだと思った人はいた。
それは決まって、相手のほうが私に好意を示している、と私が感じられた人だった。
しかも、グイグイとあたりかまわず押してくるような人。
おそらく、そのくらいの興味を示してくれた人でないと、私は信じられなかったのだろう。
それを好意だと、私のことを本当に好きなのだと、勘違いしたのだ。
それらの人は100%決まって、女とみると見境なく口説くような、問題のある人だった。
彼らにとって私はただの一標的であり、目の前の獲物であり、一度仕留めたら、(自分に何か役に立つように使えない限り)、まるでゴミのように、それまでの勢いが嘘だったかのように、捨てることができるのだった。
普通の、心が健康的な人は、恥ずかしさや恐さなどから、彼らのように恥も外聞もなく口説くようなことはできない。
それにもちろん、人を傷つけたらその痛みがわかるから、故意に傷付けるようなことはできない。
気持ちを伺いながら、様子を見ながら、少しずつ親しくなっていく。
だが私には、そんな「弱い」気持ちを向けられても、信じることはできないのだった。
そしてなぜか、そういう人たちには魅力すら感じなかった。
私には、馬鹿でも間違わないほどの、私への強烈な好奇心が必要だった。
そうでなければ、「この人は私のことを好きなのだ」という確信が持てなかった。
そして、その「見せかけの愛」に簡単に騙されて、「こんなに私のことが好きならきっと大丈夫だろう」と思ってしまうのだった。
私には、その人を好きになる理由が、ほとんどないことが多かったにも関わらず。
そして、すべては相手次第だった。
会う時は相手が会いたいと言った時。
私の気持ちはなにも聞いてもらえない。
なにもわかってもらえない。
そして関係が終わるのも相手次第だった。
相手の興味が次に移れば(というよりも、たいていの場合そういう人は、陰で同時進行している関係が2つ3つあるのだが)、それで終わりだ。
そういう人は、心に傷を抱えている人ばかりだった。
私の心の傷と彼らのそれが絶妙に絡み合い、共依存的な関係(心理状態)になったこともあった。
彼らは彼らの「心の隙間」を埋めるために、そういった、あっちからもこっちからも求められているという状態を作り出し、嫉妬されることでさらに、自分がどれほど求められている存在かを感じることができ、嘘をつき、誤魔化したり逃げ回ったり言い訳をしたりということを、無意識的に、「ゲーム」感覚で楽しんでいるのだが、それは私には関係のないことだ。
かつては、そういう男たちを、どうやって振り向かせるか、どうやったら私だけを愛してくれるのかと、躍起になっていたこともある。
もちろん、それらの努力は泡と消え、私は精神的にぼろぼろになった。
彼が呼べば海を渡って行ったこともある。
だがそこまでして見たものは、他の女ともまだ続いていて、ついこの間まで会っていたという事実。
低かった自己肯定感はさらに粉々になり、鬱になった。
精神的ストレスから命に関わる病気にもなった。
もう一切、そういう男には関わらないと決めた。
それなのに、また繰り返された。
ある人と話していた。そんなひどい旦那ならばなぜ別れなかったのか、と。
彼女は言った。
「彼が可哀想だから」
「自分がやってあげないとなにもできない人だから」
それは共依存の始まり。
自己犠牲的に仕打ちを我慢し、それでも離れられずにいる。
だが、私にもその気持ちがあることに気がついていた。
私が(自分を守るために)その人から離れると、まるで雨に濡れて凍えている子犬のように惨めな姿を見せる。
それも相手のもう一つの手管なのかもしれないが、そんな、「私のことをそこまで一途に思っているかのように見える」言葉や態度に、またほだされてしまい、「もしかしたら本当に私のことを思っているのかもしれない」などと思ってしまうのだ。
だが、蓋を開けてみれば、過去となにも変わらなかった。
次から次へと女と見れば声をかけ、気を持たせ、誘い、そして女が乗ってきそうであれば誘い、体の関係を持つことなどは彼にとってはなんの意味もない。
私は充分学んで懲りたと思っていたのに、また繰り返している。
「あっちから私に興味を持ったくせに」
いつもの、共通する思いを、握りつぶして、馬鹿な自分を責める。
そこで私は気づいた。
「私は自分から人を好きになれない」ということに。
いつも相手次第だった。
「見せかけの」、「落とすために下半身から発動している」愛情のようなものを、これでもかというほど浴びせられ、そんなに好きならいいだろう、と「応じていた」だけだった。
そして、暗黙的にそうだと思っていた成り行きにならないと、どうして? と執着した。
その人の好きな部分など、ほとんどなかったにも関わらず。
私は、自分が、「こういう人が好きだ」という明確なものがないから、相手の好意(たとえそれが嘘の遊びだったとしても)に、「応えて」しまうのだった。
こんなに私を求めてくれているのを無視したらかわいそう
という気持ち。
そして、
もしかしたら本当に愛してくれているのかもしれない
という錯覚。
私は、どういう人が好きなのだろうか。
本心から、魂で、一緒にいて幸せだと思える人はどんな人だろうか。
この人のこんなところが好きだ、とはっきり言える人。
ビクビクしないでいられる人。
私はどういう人が好きなのだろう。
それさえも、自分でわかっていなかった。
驚くことではない。
なぜなら私は、人だけではなく、映画や音楽、俳優やミュージシャン、絵や小説、服や食べ物、趣味からコーヒーカップに至るまで、「私はこれが好き」というものが、数年前まではわからなかったのだ。
私はそれらを見つけるようにした。無理矢理決めるのではなく、自然に私はこういうのが好きだと思うものを、一つ一つ、自分に与えてあげるようにした。
いまでは私はいろんなものに対して、これが好きだというものがある。
パートナーとして持ちたい人のタイプ、を除いては。
ではここからは、それを探索する旅に出よう。
まだ私を諦めてはいない。
きっとわかるはず。
きっといるはず。
きっと出会うはず。
私はここまで来たんじゃないか。
あともう少し。
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