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attraction

 最近、あの人のことをよく思い出すんだ。
かつて大好きだったけど、大嫌いになった人のこと。
恋しいのではない。
懐かしいのではない。
ただ、過去の出来事として思い出すんだ。

別れた後で、見かけたことがあった。
向こうも私に気がついていた。
好きだった頃の感情は、なにひとつ持ち上がらなかった。

始まらずに終わらせることはできたのだろうか。
それはきっと、私しだいだった。
傷つかずに終えることはできたのだろうか。
それもきっと、私しだいだったのだろう。

私以外にもきっといた。
そしてきっとみな、傷ついていただろう。
傷つかずにいたかもしれない人を想像する。
「それでもいい」と、半分の、それ以下の気持ちで彼と向き合っていた人にちがいない。

悔やんでいるのではない。
もう怒りすら抱えていない。
思い出して苦しくなることもない。
自責の念に駆られることもない。
あの時はあの時で、私には精一杯だった。
相変わらずバカだったけれど、しかたない。

今となっては、昔のテレビドラマを思い出すように、
滑稽なヒロインを遠くから眺めやる。
なんのために思い出しているのか。
まだ思い出していないことがある。
まだ気づいていないことがある。
それを思い出せと言っている。
それに気づけと言っている。

バカだったんだ、なんていう一言で終わらせずに。
なにかもっと、致命的なことがある。
答えが隠されている。
そのために命を脅かされ、
そのために生きたいと願った。
行くところまで行くのだと言って、
最初から決まっていた結果に行き着いた。

このループから抜けなければならない。
同じ軌道をぐるぐる回っている。
それ以上近づいたら押し返される大気で囲まれた、
その中にある、実態の見えないものの周りを。
手を伸ばしながら。

本当の愛を知らない私。
それがきっと愛というものなのではないかと期待しながら。

体を燃やしながら大気圏に突入し、
そこには何もなかったと知る。
燃えかすになった私は、一人暗い宇宙を彷徨い、
時に癒されるのを待つ。

傷も癒えた頃、ふたたび、引力を持った惑星に出会う。
そして同じことの繰り返し。

私はまるで宇宙を彷徨う小惑星だ。
その惑星は核に愛を持てない。
軽石みたいにスカスカで、
大きく包んでくれる惑星を探してる。
巨大で派手な惑星に出会うと、
まるで夢の星みたいに見えて、
吸い込まれてしまう。
きっと大きく包まれて、安心できて、幸せになれるような気がして。
だけどその巨大で派手な惑星は、
私みたいな小惑星を引きつけるのが好き。
引きつけて、欲しい物を奪い取って自分の一部にしたら、それで終わり。
もうどこかへ行っていいよ、と投げ出される。
私は欲しかったものは結局なにも得られずに、
穴だらけだった石は、さらにスカスカになっただけ。


ボロボロに砕けて、また宇宙を彷徨う。


小惑星は、自分だけで生きていこうと決めた。
自分の惑星の表面に花を咲かせ、木を茂らせ、家を作り、そこで歌を歌って、
一人で暗い宇宙に浮かんでいればいいと決めた。

けれど、大きな引力を持った惑星がまた近づけば、
小惑星はふたたび、簡単に、吸い寄せられてしまう。



その繰り返しなんだ。


どうすればいいんですか?


そんなことを繰り返しながら最後まで生きていくのはもう嫌です。


それが小惑星の運命だというのですか。


私は何に気づけばいいのですか?
あとどこを変えればいいのですか?
これ以上何をどう頑張ればいいのですか?
あと何を捨て、何を探せばいいのですか?
あとどのくらい強くなる必要があるのですか?



結局、私は求め過ぎているのだろうか?
私はそれにすがっているのだろうか?
幸せにして、と。
得られなかった愛を私に与えて、と。
自分だけで強く生きていこうとした。
それだけでは満ち足りていないのに、
満ち足りたふりをして。
スカスカの心を感じないようにして。
私の中に愛を注いでくださいと、
愛で満たしてくださいと、
求め過ぎているのだろうか。

奪おうとしているのは私のほうなのだろうか。
取れるだけの愛を取ろうとしているのは、私のほうなのだろうか。


スカスカな心を、自分で埋めるには、どうしたらいいのだろうか。

自分を認める。
自分を許す。
自己肯定。

できることはすべてやってみた。
これ以上何をしたらいいのですか?
何をしたら、私は満たされるのですか?


満たされている、と知ること――

私は渇望していない、と自分に言うこと――



そんなまやかしは通じない。
そんなおまじないは懲り懲りだ。
もううんざりなんだ。
そんなもの効くわけがないんだ。
そんなことを言ってみたところで、私の心は埋まらないんだ。


空気の中から鳩を出すマジシャンみたいにして、
愛を知らない私の中から愛を出し、
人を愛することもやってみた。

もう何も、誰にも、期待はしないと、
一人で生きていけばいいと、
諦め、捨て、一人になることもしてみた。

風に委ね、神に任せ、
どうぞあなたのお好きなように私を使ってくださいと、
魂を捧げることもしてみた。


そうしたら、そのほうが、幸せでいられるかもしれない、ということは、
すべてやってみた。

あと何をしたらいいのですか?
求めるのをやめればいいのですか?
幸せになることを、求めるのを?


「私は愛されていない」と思いながら育っただけなのに、
なぜこんなにも、
いつまでも、
私は苦しんで生きなければならないのですか?


「私は愛されていない」と思いながら育った、その思いを、
私は掲げながら、生きているのだろうか。
それが、この世における、唯一で最大の掟とでもいうかのようにして、
その規定から外れてはいけないと、
愛されない状況ばかりを作り出しているのだろうか。


百のいい思い出も、私の心を傷つけたひと言によって、
すべて消え去ってしまった。


いいこともきっとあったはず。

傷ついた思い出を、何よりも強く、いつまでも覚えているのは、
人間の防衛本能なのだろう。
それがあまりにも強く、他のいい思い出は後ろに追いやられ、霞んでしまう。
ほんのちょっとした「気配」を察知して危険信号は点滅する。
警報が頭の中に鳴り響く。

危険! 危険!
またあなたは傷つく!
危険! 危険!
痛みに備えて警戒せよ!

それなのに、警報器の鳴っているその危険な部屋の中にこそ、手に入れないといけないものがあると思ってる。
それを手に入れないといけないと思ってる。
今度こそうまくいくかもしれない。
注意すれば、用心すれば、ここだけ気をつければ、
うまくいく「かも」しれない、と。


問題は、「なぜ」ってこと。
なぜ、私を傷つけるような人ばかりに私は引き寄せられるのか、ってこと。

同じ羽を持った鳥は寄せ合う。

愛を知らない者同士。
私たちは本当の愛を見たことがない。

愛を知らない者は、愛に見える何かを、煌びやかに見せつける。
愛を知らない者は、それを愛だと思い込む。
アトラクション。
表面的な attraction。
性的な attraction。
条件的な attraction。

興味があるという猛烈なアピール。
言葉や派手な態度でそう思わせること。
そういった強いアピールは、愛を知らない者にとって、まるで愛のように見える。
これがきっと、人の言う、愛というものに違いない。
甘い言葉や優しい言葉、あからさまな行動は、愛を知らない者にとって、まるで愛の表現のように見える。
これだけのことをされて、愛じゃないわけがない。
これがきっと、愛というものに違いない。

見せかけの、愛に似せたものが、愛なのだと思い込む。
派手で目立って豪勢なそれは、まさしく愛というものに違いないと思えてしまう。

本当は、愛は静かなもの。
本当は、愛はなんの変哲もない、日常的な、平坦な、
背景の色に馴染んだ、捉えどころのないもの。
特別な高揚感を与えてくれもしなければ、
つまらないこともたびたび起こる。


それが愛だと知らずに育った者は、
それに触れても、本当の愛だと気づかない。
それを愛と表現することもできないし、
目で見て手に触れて実感することもできない。

見せかけの、煌びやかな、目立つそれについ惹かれてしまう。
見せかけのそれは穴だらけ。
中を開ければぎざぎざで、スカスカで、下手に触れれば傷を負う。
見せかけの愛を作っている方も、いつまでも最初の効果を持続できない。
だから目標が手に入ればすぐに力尽き、「はい、おしまい」。
すぐに破けて、それをあてにしていた方は痛い目に遭う。


じゃあもう一度聞く。

問題は、「どうすれば?」ってこと。

どうすれば、本当の愛を愛だと気づいて、手に入れることができるのか。

警報器のスイッチを切って、

子供の頃からかけているメガネをはずして、

広い平坦な海を見よう。

変わり映えのない海を見よう。

そこに心から安らげるものを見つけよう。

そうしたら、それを大事にしよう。

それと仲良くしよう。

退屈しないためのスリルはいらない。

見せるための宝飾もいらない。

そうしたら、新しい羽を持った鳥が現れて、きっと仲良くなれる。

それが愛に変わるかもしれない。

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