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flashback

子供の頃、母親から無理強いされて嫌だったものがある。

母方の祖父がまだ元気だった頃、母の実家は農家で、古い大きな家に、玄関を入ると長い土間があり、お勝手と裏庭へ出る勝手口につながっていた。土間の左側は住居で、右側は物置やら作業場やらがあった。

子供の膝より高い長いあがりが二部屋分続いていて、入り口に近いところを上がると、なんと呼んでいただろうか、東の間だとか何かそんなふうに呼んでいた、人を迎えるためだけのような、写真やなにかが飾ってあるだけの、普段はなんの用も成していない、広い部屋があった。

その奥にまだ部屋があるのだけれど、その部屋に上がると、まず一列に座らされる。祖母が出迎えて私たちに面して座り、そこで私たちは指をついて頭を下げさせられるのだった。

それだけでも、馬鹿らしいというか、アホくさいというか、面倒臭いというか、仰々しいというか、で嫌だったのだけれど、母は必ず、そう、必ずいつも、

「もっとちゃんと挨拶しなさい」
「もっとちゃんと頭を下げなさい」
「もっとちゃんと言いなさい」
と言い、やり直させるのだった。

必ず、やり直させられた。

それが本当に嫌だった。屈辱的というか、わざと恥をかかされているかのように、いつも、2回、畳の上で頭を下げさせられた。

この思い出は姉にとっても嫌な思い出だったらしく、大人になってからこのことについて同じように感じていたことを知った時は、まるで戦争をくぐり抜けた同志に会ったかのように嬉しかったのを覚えている。

格式の高い家だったわけではない。普通の農家だ。

私の家ではそんなこと一度もさせられたことはないし、礼儀作法などに厳しかったわけでもない。

私は当時子供ながらにも、祖母は、畳に指をついて頭を下げさせられている子供を見ながら、自分も仕方なく、同じように挨拶を返しているのではないか、と思っていた。

それくらい、すべてがわざとらしかった。

まるで祖母も、なぜいつも孫にこんなことをさせるのだろうこの子は、思っているかのように、子供の私には思えた。

なぜ、子供らしくぴょこんと頭を下げただけの挨拶では許さず、「完璧に」礼儀正しくして見せなければ、母は気が済まなかったのか。

「もっとちゃんとしなさい」

と言われるたびに、おそらく、子供の私と姉の表情は歪んでいただろう。

あからさまに嫌そうな暗い顔をして、しぶしぶと母親の言うことに服従している様子を見て、祖母も祖母で、一度たりと、「まあ子供なんだからいいよ」的なことを、一度たりと、たったの一度も、言ったことがなかった。

そのことについても、私は、祖母は随分と冷酷な人(もしくは、鈍感な人)なんじゃないかと感じていた。もしくは、私たちが屈辱を感じながらも母親に頭を下げさせられている姿を見て、「それでいい」と思っていたのだろうか。

その「お辞儀」のことがあったからか、なかったからかはわからないが、祖母の家では寛ぐことはできなかった。私たちは、祖父母や叔父さん叔母さんに対して他人行儀だったし、向こうも特にわたしたちをかまってくれるようなこともなかった。

祖母と祖父には、母が私によく、「ほらあのことを話して聞かせなさい」だの「あれを教えてあげなさい」などと、無理強い﹅﹅﹅﹅して、私たちに何か話させることをよくさせたのだが、私は「(母の無理強いが)まただよ」と思いながらも、普通の顔をして、私は話して聞かせなければならなかった。

だがそういう時の祖母も祖父も、せっかく嫌々ながらも無理して話してあげたのに、いつも、その反応が薄く、私はそれがいつも不満足だった。

祖母も祖父も、「母の無理強い」によって孫の話を聞かされることに、辟易していたのだろうか。


そういった、母の、無理に話しをさせるのは、祖父母相手に限ったことではなかったが、指をついて畳に頭をつけさせられるのは、母の実家以外の家でさせられることはなかった。

父方の実家へ行くときには、私たちはそんなことをする必要はなかった。

それでも、私たち(と姉と一緒にしているが、姉は私よりも神経の強い人なので、私と感じていたことは同じではなかったかもしれないが)は、すべての親戚の人たち、つまりおじいちゃんおばあちゃん、おじさんやおばさん、いとこたちと、あまり近しくなかった。

よく親戚一同集まって遊んだり、従姉妹たちと行き来して遊んだり、などという家族がいるが、うちはそういうことは一切なかった。盆と正月、誰かの葬式などで集ったときには顔を合わせるが、仲良くなるほど一緒に遊ぶこともなかった。

母が何度か、祖母(母の母親)について不満を言うのを聞かされたことがあった。
はっきりとは覚えていないが、あまり子供のことを思ってくれない人だった(と母は感じていた)ようだった。
「母親だったら子供が苦しんでいるのを見てすぐ気がつくはずだ」というようなことを言っていたのを覚えている。「褒めてくれるようなことがなかった」「子供のことを気にかけてくれるようなことはなかった」というようなことも言っていたことがあった。祖父のことは好きだったが、祖母のことは好きではなかった、と。

母は、競争心の強い人だった。特に実家の親戚、自分の兄弟姉妹のなかでの対抗意識が強い人だった。その対抗意識のせいで、私と姉は、利用された。いとこたちと対抗させられた。と言っても、母が「勝たなきゃダメ」という暗黙のプレッシャーをかけていただけで、私と姉は直接にはその競争に参加していたわけではない。潜在意識の中には植え付けられていたかもしれないが、大人になって、自分達で判断できるようになった。母がいつもこき下ろしていた従弟に対しても、私と姉の間では、「○○はいい子。○○があの家の中では一番普通」という意見に一致し、それを母の前で言ったら、自分のマインドコントロールが効いていないことに驚いたようだった。

そういった母の対抗意識、競争心は、彼女にもともと備わっていたものかもしれない。が、特に、母の実家の親族の中で、その対抗意識は燃えていた気がする。

父方のいとこたちに対しては、そんな対抗意識をむき出しにして、私たちをけしかけたり、悪口を触れ込んだりしたことは一度もなかったのだ。

母は、自分の実家の中で、自分の兄弟姉妹の中で、「一番」になろうとしていたのではないか。

なぜかーーそれはもちろん、祖母から、母の母親から、「認めてもらう」ためだ。

母は、自分を顧みてくれなかった自分の母親の「注目」が欲しくて、「賞賛」が欲しくて、「認めて」欲しくて、究極の「いい子」を演じていたのではないかと思うのだ。

これに気がついたのは、ごく最近のことだ。

私がこれまで長い間、母の賞賛を得るために、母に認めてもらうために、自分に無理強いしていろいろなことをしてきたことを考えると、母もまたそれをしていたのではないか、と考えるのは不自然なことはない。

私は結婚していないし自分の家族も持っていない。だから母に見せられることといえば、自分の仕事だけだった。それを頑張り、母に褒めてもらえるよう、頑張ってきた。今はもうその呪いに気づき、自分のために生きると決めているが、長い間、自分でも気づかずにそういう生き方をしていた。

母にとって、自分の家族、子供というのは、自分の母親に見せることのできる一番手っ取り早い賞品なのだ。

「ほら、私はこんなにきちんとした家族を持ったのです。褒めてくれますね?」

と、わたしたちを祖母の前に差し出していたのかもしれない。

私と姉に、「もっとちゃんとしなさい。もっと」と無理強いして、頭を下げさせた。
屈辱を感じている子供の気持ちに気を配る余裕などはなく、自分がどれだけ優れた親になったかを自分の母親に見せることだけで頭がいっぱいだった。
母もまた、その母親によって、苦しみを抱えていたのだ。

そう考えることで、当時の屈辱が消えてなくなるわけではないが、
「そうか、母もまたそうだったのか」と理解することで、多少は穏やかな気持ちになれる。

母がこれから先、自分んが子供にしてきたことを「はっ」と気づいて、子供の気持ちを察し、ごめんなさいと謝ることは決してないだろう。

母が対抗心むき出しにして、兄弟姉妹を敵視して、裏で貶めてきた心の醜さに気がついて自分を恥じ、心を改めることも決してないだろう。

この先母が、さらに突き進むことはあるにせよ、いい方に変わることは決してないだろう。

彼女が壊した親子の絆も、親戚の絆も、なかったかのようにまるで違う仲睦まじいものになることもないだろう。

だけど、母も一人の犠牲者だったのだと考えれば、私は、すくなくとも、そこをまたいで行けると思う。その先へ進んで行けるように。




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