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逡巡のための風景02/仕事と呼べる仕事のはなし


自分をただ否定せず肯定することと、正当化することの違い。そこにきっと明確な境界線はない。
誰だって傷つきたくて傷ついているわけじゃないし、他者を傷つけたくて傷つけているわけじゃない。と思う。
複雑なバランスの上にいろいろなものが成り立っている。
難しく考えちゃいけない。
でも、高く積み上げた積み木が音を立ててカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラッと崩れ落ちるみたいに、急にバランスが崩れてしまうことがある。
もう何が何だかわからない。
私の言葉は人を傷つけてきた。でも具体的にはじゃあどうすればよかったのかわからない。わからないまま、私は生きてきてしまった。
今の私は言葉を連ねないほうがいい。
と思えば思うほど、「仕事と呼べる仕事」は8割がた言葉を扱うものになってきてしまった。

「仕事と呼べる仕事」と言ったけど、それ以外に世の中には多くの「仕事と呼ぶかどうか意見の分かれるところの隠れ仕事」がある。たとえば毎日の家事と育児のことをみんなは何と思ってこなしているんだろう?
自分ひとりぶんの料理や洗濯や掃除は、(得意ではないにせよ)排泄や呼吸くらい無意識のものとしてやってきたはずだった。なのに夫や子どもたちのぶんのそれをやること、それぞれの人の1日のタイムスケジュールを管理することは、私にとっては「仕事」以外の何物でもない。「仕事」=ヤダ、やりたくないものとは限らない。また、「仕事」=賃金が発生するものとも限らない。でもこの2点を仕事の定義と捉えている人は案外多いように思う。だからこそ、「まさか、愛する家族との時間が仕事だなんて」と不謹慎に思う人もいるんだろう。だけど、これは仕事だ。そうじゃないなら何なのか教えて欲しい。やりたくないとは言わない。やり甲斐も喜びも感じる。でも、誰か代わって欲しい。シフトを減らして欲しい。
「昔のおんなのひとは」と言うほど大昔から綿々と古今東西いつもどこでもそうだったのかどうかは疑わしいけど、昔のおんなのひとは、ただただ、男たちとの間に共通言語を持ってなかったんだと思う。持つ必要もなかったんだと思う。女たちの間だけで通じる共通言語で、互いを肯定し自分を肯定する方法を知っていたんだと思う。男たちに通じなくたって別によかったんだと思う。そのくらい逞しかったんだと思う。
男女が分かり合えるだなんて、そんなふうに思うから難しいことになってるんだ、現代は。男女は分かり合えない。分かり合えないとわかったうえで、大昔から男女は1対1のペアになって「結婚」をしてきたんだ。もちろん対じゃない仕組みもある。でも対になる仕組みを採用することが割と多いのは、むしろものすごく不思議なんだけど。

文:イシワタマリ/写真:丸山桂

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