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逡巡のための風景03/京都に行って帰ること

本日は京都日独協会のシンポジウムになぜか登壇。
場所は同志社大学の今出川キャンパス。大学という場所はそれ自体が特殊。さらにドイツ語の基礎知識がありドイツ文化に関心のある客層に混じって場違い感が強い。ドイツからの留学生なども含めて登壇者の数が多いため、私は黙ってやり過ごそうかとも思ったけれど、気を取り直してそれなりに発言。私のドイツ経験はベルリン滞在9ヶ月間だけであって、ベルリンという特殊な街(英語だけで生活可能)だけではドイツを知っていることにならないのは承知の上。でも、オープンなコミュニティを築きたいという趣旨の本会々長の想いを私なりに受け取ってのポイントは、ベルリンのアートコミュニティが当時瀕死だった私にくれたエネルギー。いわゆる「多文化共生」「多様性に対する寛容さ」が根付いたベルリンという街での数々のゆるやかでクリエイティブな人間関係が、私の心を蘇らせ、今の私の表現のあり方に大きな影響を与えてくれた。あの時体験したようなものごとへの寛容さが今ここにあれば、弱った私たちはふたたび息を吹き返すことができるように思う。

行きの電車に2時間+自宅から福知山駅まで車で30分、帰りも同様。京都に行って帰るのはちょっとした旅行である。そしてこの往復5時間の移動による時空のワープ(そう、これはただの物理的な移動だけではなく、なんとも言葉には言い表せない世界観の隔たりのジャンプなのだ)に、毎回頭の中がクラッシュされる。
京都に行くときはとにかく、頭のチャンネルを変えなければならない。東京・横浜に帰省するときもある意味ではそうなのだけれど、帰省と違うのは、京都の街では私はつねに全くの異邦人だということ。小学校の修学旅行以来大して更新されない、どこまでも続くアウェイ感。自分の居場所を感じるような経験をまだ京都でしたことがない。
それでも私の心を捉えるのは、京都の街並みの洗練された美しさ、おしゃれさ。
そして京都芸術センターのよくわからなさ。
来年の展覧会を担当してくれるスタッフの平野さんの優しさ。
芸術がそこにあること。
「芸術がこの世に存在する」ことを信じている人たちがいること。

私が今暮らしている環境に「芸術」は存在しない。
だからこそやり甲斐があるのだと思う一方で、何かを諦め落胆し封じ込めている自分もいる。
そんなことに気づく。
気づいてしまいたくもないのに気づく。
それが京都に行って帰るということだ、と思う。

京都という街に対するルサンチマンかも。
来年の展覧会の(私なりの)隠れた目標は、

いつだって野暮ったくて不器用でモタモタした「ザ・逡巡」な私がいてもいいと思える場所を京都の中に作ること。こんな日本一洗練された街の中で人間の温度や湿度や臭さを拾うこと。

かな。

文・絵:イシワタマリ

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