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太陽が照り暖かい海の上にプカプカと浮かぶ、そんな心持ちで生きても良いのではないかという問い。

緊急事態宣言も明けて東京へ行った。今月2回目の東京。

自分の中に、焦り、そして楽観性からくるマイペース、の共存を感じた滞在だった。前者の焦り、の気持ちだけではなく、一歩一歩自分の感性を信じて好きを束ねて前に進んでいこう、とも思える様になっていた自分に気づき成長を感じる。

"かっこ良くてすごい事"を目の当たりにすると自分の無力さとまでは言わないが、比較をするならば差がある状態というのを否応なしに突きつけられる。前提条件が違う者同士比較する必要は全くないのだが、これは学校教育やSNSというプラットフォームの呪いなんじゃないかと思う。他者と比較しては自分をジャッジし否定するというのはもうやめませんか、という事を自分に投げかける滞在であった。

ちなみに、かっこよくてすごい事、とはなんだろう。あんな驚くべき有名人とコラボしてる・高品質・高レベル・お金も大きさも規模が桁違い・色んな人を束ねてプロデュースしている...とか?

『あなただけにしか分からないあなただけのペースや安心の形がある』

人には人の歩み方、ペースがある。

誰もが同じ頑張りの仕方でゴールを目指せる訳ではないし、身体的な性質も違えば24時間全力で走り抜けられる人も居るし、1日4時間働けば疲れる人もいる。それぞれの出来て・楽しい形を手繰り寄せるのがまずは大事だと思うのだが、過程よりも華やかなゴールの瞬間の方が目につくのでそこばかり切り取りがちになる。影の積み重ねはあまり表に見えてこない。

ここ最近私が思うのは、過程が苦しい努力・結果の経験が多すぎたのかもしれない、という事。無邪気に楽しんだ結果が、凄く良いという体験が実はあまりない。そんな事に思いを馳せている。

かつて私に周囲の大人が教えてくれた教えがもしかしたら染み付いてるのかもしれない。『99%の努力とそれによる1%の結果と喜び』つまり、先に書いた様に過程は苦しいけど歯を食いしばってやりぬいた結果願っていたゴールにたどり着くと行ったハードめな山登りの仕方だ。

世の中で結果を出している人は、必ずしもそうなのだろうか?というのが今回の問いだ。

なぜそう思ったのかというと、今回の東京滞在で20年以上の付き合いの幼馴染と過ごした1日が物凄く楽しくクリエイティブな経験だったからだ。特に派手な事をした訳ではないのだが、前から行きたかった飲食店や雑貨店に行き、何を素晴らしいと思い何が不快と感じるか同じ空間を共にしながら語り合った。

1日人といると気を使う事も多いが、そんな事もなく違う意見もフラットに交わし合う。良いと思ったものを共有する事で今後手がけたいと思う事のイメージを話し合い更にワクワクする。この一連の流れの中に一つもストレスが無く、純粋な創作意欲にかられるこの感じの延長線上には『無邪気に楽しんだ結果が凄く良い』がありそうと思ったのだ。おっと、これは自分にとってもしかしたら新しい感覚かもと思ったのだ。

これは子供の頃の感覚を取り戻す事に近いのかもしれない。

『あたなは将来何をしたいの?』と何をやるか問われがちな時代に、誰とどの様にやるかがモチベーションの源泉になりえる事を、今改めて気づく瞬間だった。

これまで養った社会人スキルや常識を全て一度取り壊して、新しい価値観や視座を獲得したい2022年。その為には、普段絶対選ばないメニューを頼んだり、通い慣れていない町を散策したり、変化量の大きい方を選択するという事を通じてアハ体験を増やしたいと思う。

ちなみに友人は私の『変化量の大きい方を選択する』という言葉にほだされてアイス屋さんでいつもと違うフレーバーを頼んだら、いつものやつの方が美味しかったと嘆いていた。笑  でもいつものやつの美味しさに改めて気づく機会だったと笑ってもいた。


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