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怒ること。怒るために。- 『武漢日記』と『海をあげる』

2冊の怒りに満ちた本を読んだ。どちらも著者は女性で、ふたりとも自分が生まれた場所を深く深く愛していて、それゆえに、そこに生きる人々を、暮らしを、命を脅かす力に向かって、体を震わせるて、心の底から腹の底から怒っている。ふたりの眼差しは、それでも日々を懸命に生きる、生きようとする人々の姿に注がれ、彼女たちの耳は、ともすればスピーカーから大音量で流れてくる政治の言葉にかき消されてしまいそうな、小さな声、抗う声を拾い上げる。

でも、そこで、2冊の本の類似は終わるように思われた。

2020年の1月から3月の60日間、SARS-COV-2(いわゆる「新型コロナウイルス」)に席巻された武漢の街で、小説家の方方は、感染拡大を防ぐために敷かれた都市封鎖下での日々を日記に綴った。行政府の対応の遅れ、不備、迷走、情報の隠蔽を正面から批判し、多数で多岐にわたる市民の犠牲を詳細に記録した彼女の日記は、ネットに投稿される側から権力により削除され続けたが、さまざまな手段で投稿は続けられ、さまざまな方法で日記は回覧され、多くの読者と支持を得ていたという。

最後のエントリーが書かれたほぼ1年後、感染をほぼ抑え込み疫病禍以前の日常が戻った武漢とは対照的に、SARS-COV-2感染が広がり続ける大阪で読むと、ふたつの街で起きたこと、起こっていることの、相似にも差異にも驚く。方方の日記が日々更新されていたあいだ、どれほどの人々が、明日は我が身と思って読んでいただろうか。2020年9月に日本で出版された本の帯には「衝撃のドキュメント」とあるが、どこか距離を感じさせる言葉のようにも思える。病床がないと病院に受け入れてもらえず、治療を求めて渡り歩く武漢の人々の姿を、医療崩壊の様を、我が街でも起こりうることと、私たちは恐れを持って見ていただろうか。私たちは、武漢の怒りと悲しみを共有できていただろうか。もし共有できていたならば、私たちは今ここにこうしているだろうか。(重症化した人々が受け入れる病院が見つからないまま、自宅やホテルで亡くなっていく大阪に)

上間陽子の『海をあげる』を読んでいるあいだも、同じ疑問がずっと波のように寄せては引いていた。彼女が耳を傾ける語りの、拾い上げる日常の断片のひとつひとつに強く揺さぶられ、ときに涙を浮かべながら、奥の方で、底の方で、私は本当にこれほどまでに強く深い怒りを理解し共有することができているのだろうかと、自分に問いかけていた。きっと上間の中にも同じ問いがあり、それが彼女の絶望として結晶しているのではないか。

方方の怒りはまっすぐだ。力強く、まっすぐに進む。こちらの胸をどんと打つ。60日の間、彼女は怒り、悲しみ、同時に武漢市民の逞しさと行動力、互助の精神に打たれ、力づけられ、喜び、中国各地から寄せられた善意と支援に感謝し、ネットに飛び交う市民の賢明な言葉に感嘆し拍手を惜しまない。自宅に閉じ込められていながらも、彼女は武漢市民と、中国各地の人々と繋がっていた。力強く、確実に繋がっていた。中国各地から、食糧不足に悩む武漢にたくさんの「愛心菜」(野菜)が届き、隣人は頼まれもしないうちに色々な品物を手に入れては、彼女の家まで届けにくる。

もうひとつ印象的なのは、彼女が、彼女を非難し真実を封じ込めようとする行為は改革開放の精神に悖り、その成果を破壊しようとするものだと批判するところだ。文革の闇を身をもって知り、その後の改革開放の恩恵を感じた世代らしい考えではないか。ひょっとするとその経験が、彼女の中国という国、中国の人々と社会への信頼の基盤をなっているのではないか。彼女は彼女の属する国と社会を信じていた。信じていたから、あれほどまっすぐに彼女の怒りは迸った。わずか60日の間に、あれほどの言葉が流れ出すのは、自らの怒りが、言葉が届くと、受け止める人々がいると信じていたからこそだ。

上間陽子は方方よりももっと暗い場所にいるように思える。それは美しい海が赤く濁され、「自分の声を聞くことができない」「何も書けなくなる」ような場所で。だから彼女の怒りは鬱々と重く沈んでいる。封鎖された武漢の街よりもなお静かで、重い。明るい沖縄の、海の底に沈んでいる。それは彼女が、方方とは違って、日本という国も、日本の社会も信じられないからではないだろうか。それほど暗い場所から、海の底から届いたのが、この『海をあげる』というメッセージではないか。

社会の不合理に、非情に傷ついて、隙間からぽろぽろとこぼれてしまった若者たちの声に耳を傾けながら、彼女は幼い娘(かけがえのない未来)を育て、祖父母を送り(皆がいつかは逝く場所を守り)、沖縄の海と尊厳を奪う行為に抵抗し、それにもかかわらず行使される国の暴力の目撃者となる。

ところで、rape/レイプという英単語には「強制性交」以外に「ある場所を損なうこと、破壊すること」という意味もある。だから辺野古で行われていることはレイプなのだ。フラワーデモに立つことも、辺野古で抗議に立つことも、幼い少女に性暴力から自分を守るための知識を与えることも、風俗で働かざるを得ない若い女性たちの言葉を記録することも、みな、繋がっているのだ。

彼女の怒りを海の底に沈めている錘、彼女の喉にぐっと詰まって言葉を奪うのは絶望だ。怒りの言葉を受け止める相手の存在を信じられないとき、怒りは絶望とひとつになって、海の底に沈むのだろう。そして、彼女はきっと誰よりも私に怒っているのではないかとも思う。

もし彼女が「あげる」と差し出した海を、そこに沈んだ怒りごと、怒りを沈めた絶望ごと受け止められたら、彼女は私を信頼してくれるだろうか。そうすれば、彼女もまたいつか、方方のように声高く朗々と怒りの言葉を解き放つことができるだろうか。そしてそのときその怒りを真正面から受け止める強さを持つ社会を、私たちは築けているだろうか。

武漢封鎖解除から1年が経って、方方が置かれた立場は悪化しているという。中国では、これまでいくつも栄誉ある賞を受け実力を認められてきた彼女の著作が、出版予定を取り消されたという。ネットトロールによる攻撃は今も続いていて、以前は彼女のブログを愛読し支持していた人々の一部も、それが外国語に訳され海外で出版されるとなると態度を一変させたりしたそうだ。(身内の恥 dirty laundry を外に晒すなということか)方方のあの力強い中国社会への信頼に揺るぎが生じていないかと、少し心配してもいる。

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