孤独を考える

昔々あるところに女の子がいました。
女の子は何かが起こるとすぐに泣いてしまいます。
周りのみんなは女の子に対し、なぜ泣いているのかを尋ねます。
女の子は答えません。ただ、泣いているばかりです。
だんだんと女の子が泣いていても声を掛ける子はいなくなっていきました。
それでも泣いている女の子に対し、声を掛けてくれる優しい子がいました。
どうしたの?なんで泣いているの?
女の子は答えません。
その内、優しかったその子も女の子には声を掛けることをしなくなりました。

学生時代、友達はいないといけないと思っていた。
思い込んでいた、と言った方が正しいかもしれない。
自分はとても不器用で、自分の気持ちを言葉にのせて表現するということがとにかく苦手だった。
だから友達と呼べる存在は正直多くはなかった。
中学で友達と呼べる存在が出来た。
部活で出会った子たち。
中学を卒業すると、同じ高校に通う子ともう一人以外とは疎遠になった。
高校では2年生でクラス替えとなり、前の席の子と仲良くなった。
その子の友達たちとやがて仲良くなり、自分を含め5人組となった。
高校を卒業すると全員と疎遠になった。
一年浪人し、看護学校へ入学した。
そこでも前の席の子と仲良くなり、その周りの人たちとも仲良くなったが、いずれも自分の中では友達と呼べる存在ではなかった。
ある時、スポーツ科学の授業で話しかけて来る子がいた。
その子と話が弾み、やがて仲良くなった。
たぶん看護学校時代の友達はその子ぐらいだろうか。
実力が伴わなくなり、自分は一年生を2回経験しなくてはならなくなった。
そこで出会った新しいクラスメイトの中の5人と仲良くなった。
また、通学路で隣のクラスの人に話しかけられたことがきっかけでその人とも仲良くなった。
けれど、実力が伴わないことがだんだんと大きくなっていき、次へ上がることが難しい、と教員から宣告を受ける。
もう無理だ、となり看護学校を中退することにした。
学校を辞めたことでみんなとは疎遠になっていった。

学校を辞めたことで必然的に社会へ出なくてはならない状態となる。
アルバイトを何個か経験した。
その中でいろんな人に出会った。
時には異性からお食事のお誘いを受けたこともあった。
当時の自分にとっては初めての経験であり、かつ思いもよらない相手からの提案であり…
上手い断り方も分からず、最終的にひどい断り方になってしまったと思う。
派遣社員として会社の事務を経験したこともある。
人間関係の濃度がアルバイト時代とはまた違ってくる。
職場の先輩たちに憧れを抱く。
当時の自分にとっていい環境だったと思う。
けれど、自分の実力が伴わない。
一番いけなかったのはそれを認められなかったことだと今になって思う。
同時期に父親が倒れた。彼は寝たきりとなった。
結局、そこには居られなくなった。

それからもいろんな職場を転々とした。
病院の地下とか、工場とか。
その内、気づいた。
職場には仲良くなれる存在がいないということに。

そしてひょんなことからTRPGというものを知り、インターネット上で知り合った人たちとセッションをするようになった。
いわゆるそれ専用の仲間たち?集まり?的な所に入り浸るようになった。
正直、居心地は良かったように思う。
やがて自分はとある異性を好きになる。
いわゆる恋と呼ばれるものだろうか。
当時すでに20代後半ではあったが、自分にとっては初めての経験だった。
初めて過ぎて抱えきれなくなってゆく感情。
集まりの中で親しくなった同性の人に相談もした。
普通なら自らの感情をそのまま伝えればそれでいいのかもしれないが、なにせ恋した相手が過去、その手の話にトラウマがあるらしいこと、そしてなにより自分自身その手の話が初めて過ぎていわゆる”最悪の事態”に直面する覚悟が持てず…
結果を言うと、最悪のさらに上をいく形でこの恋は終わった。
もはや恋と呼んでいいのかすらも分からないくらい、自分自身の言動でぐしゃぐしゃにしてしまったのだ。
もちろんそんな状態にしてしまったからには、もうそこには居られない。
すべてを断ち切らないと自分で自分を嫌いになってしまう。
今まで恋だと思っていた感情が負の側面を持ったまま増大し、やがて自分を押しつぶさんとしていた。
手に持った火のついた焼け石を自分自身で手放さなければ、やがて自分自身が焼かれてしまう。
なにより問題なのは、手に持っている”それ”を手放すことを自分自身が拒否してしまうこと。それを手放さなければいけない、という判断能力に影響を及ぼしてしまうほど、自分が冷静でないということに自分自身が気づいていなかったこと。

私は孤独を選んだ。
誰かと見せかけの関係を続けるよりも、私自身が幸せだと感じることが大事なんだと気づいたから。
いや、違う。私は嫌なんだ。自分が傷ついてゆくのが。誰かと関係を結んで、それが原因で自分が傷ついてゆくのが嫌なんだ。
だから一人が一番良いふりをしているだけなんだ。
本当は自分のことをわかってくれる、理解してくれる存在を欲しているはずなのに。

話は少し逸れるが一通りの関係を断ち切った後、SNSを覗いていた時になんとなくとあるバラエティ番組を見てみようという気持ちになり、オンデマンドでその番組を見た。
私は笑っていた。とても面白くて爆笑していた。
笑うということをしていなかったのだとその時気づいた。
それ以降、私はその番組にかじりついた。
やがて気に入った芸人さんのYou Tubeを見に行くようになった。
そこから派生していろんな芸人さんを知ることとなった。
そしてある芸人さんを目当てに私は初めて生のお笑いを見にいった。
地元の演芸場から始まり、いつしか西へ東へ遠征をし、そして今度はその人たちの単独ライブを生で見る機会を得ることが出来た。
私はお笑いを見るという趣味を見つけた。

今は趣味のお陰で楽しさが勝っているが、それでも時々思う。
本当に一人でいるのが楽でいいと思ってるのか。
本当は誰かが隣にいてほしいと願っているのではないか、と。
職場で会社の人の人間関係を見聞きしたりしたときに、あるいはお笑いの世界を垣間見た時に仲間たちと楽しくやっている姿を見た時に。
心のどこかで羨ましさを感じているのではないか?
その感情を、その感覚を、どこかに押しやっているのではないのだろうかと。
考えずにはいられない。


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