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自己紹介のようなもの。

改めて、自分のことを書いてみたくなった。

私は1980年1月30日、福岡県北九州市に生まれた。父方の祖父母と会社員の父、書道の先生である母、2つ上の姉の6人家族で育つ。

父は本が好きで、物心ついた頃から家にはたくさんの本があった。だけど、ブルーナの絵本とか、松谷みよ子さんの「いないいないばあ」とか、そういったかわいい絵本はあまりなくて、重くて大きなアンデルセン童話が全集揃っていたり、すごくマニアックな話がたくさん載っている日本昔ばなしが全巻揃っていたりした。それらの本にはリアルな挿し絵が入っていて、夜になると本棚から昔話に登場する妖怪が飛び出してきそうで、いつも布団のなかでビクビクしていた。

3歳くらいの私が持っているのが、アンデルセン童話。しかし、よく見るとこれ、逆さまである(笑)。

母は書道の先生で、夜は習字教室あり私と姉の寝かしつけができなかったため、絵本を朗読する声をカセットテープに録音してくれた。私と姉は、母が絵本を読む声を何度も繰り返し聞いた。

文章はリズムが大切だ。それは運動神経や音感、方向感覚と同じものかもしれない。持って生まれたセンスに加えて、後天的なものがあるとしたら、それはきっと読むだけでなく、幼少期に耳から入る音のリズムなのだろう、と思う。

■「大切なものは、目に見えない」~小学校期

小学生になった私は、学校の図書室でたくさん本を借りて読んだ。赤毛のアン、トランプ王国、モモ、ズッコケ3人組、コロボックル物語…。
そんななかで、私の価値観の原点ともいえる本と出会う。

父が買ってくれた「星の王子さま」。今でも大事に持っている。

大切なものは目に見えない

この言葉を、作文か何かに書いた記憶がある。
当時の私は純粋に、お金など物質的なものよりも、人の心が大事だと思ったし、そういう目に見えないものを大事にして生きていこうと思った。星の王子さまは、かわいくて優しい物語だった。
王子の孤独を理解できるようになったのは、それから何年も後のこと。読み返してその淋しさに気付き、愕然としたのだった。

もう一つ、この頃を振り返って思い出すのは、国語の教科書に載っていた物語だ。
「花いっぱいになあれ」「スイミー」「くじら雲」…なかでも、強烈なインパクトとして残ったものが、「あの坂をのぼれば」
坂をのぼり海を目指す少年は、呪文のように何度もこの言葉を唱える。

あの坂をのぼれば、海が見える

大人になって、苦しいことが続いた時期に、ふとこのフレーズを思い出した。苦しいときは、上り坂をのぼっているからだと自分に言い聞かせた。
今の私が、「あきらめなければきっと海が見られる」と信じることができるのは、この物語に出会ったから。

■「私は冴島翠になりたい」~中学・高校期

小学生の頃から、小説と同じくらい没頭して読んでいたのが少女漫画だ。雑誌の入り口は「りぼん」「姫ちゃんのリボン」とか、「ときめきトゥナイト」とか「ママレードボーイ」とか。「ちびまる子ちゃん」も、アニメより漫画のほうが馴染みが深い。
好きだったのは元気のいい女の子が頑張る話。少女漫画のヒロインは、いつも私の憧れの存在であり、目指すべき姿だった。
「ポニーテール白書」(水沢めぐみ)は、剣道部の結ちゃんが主人公の話だ。くじけそうな場面で、結ちゃんは必ずポニーテールをきゅっと結び直して気合いを入れる。そんな結ちゃんのようになりたくて、私も一時期ずっとポニーテールだった。

「天使なんかじゃない」(矢沢あい)がヒットしたのは、小学校から中学校にかけて。元気でひたむきな主人公の翠ちゃんもまた、私の憧れの存在だった。
誰からも愛される明るいキャラクターの翠ちゃんに向かって言う、親友マミリンの名セリフがある。

そうそう、マミリン、私もだよ!と思った。

大人になってふと、そんな話を友達にしたら、「そういえばまりえちゃんは翠ちゃんぽいよね」と言われたことがある。20年以上もかけて、ようやく少し翠ちゃんに近づけたのだとしたら嬉しいなと、ちょっとしみじみした。

高校生になると、さらに漫画熱はエスカレート。漫画好きの友達ができたこともあり、カバンの中にびっしりと漫画を詰めて学校に通った。授業中は机の上に英語の辞書を立てて置き、その陰でずっと漫画を読んでいた。

その頃はリボンを卒業し、マーガレットや花とゆめのコミックを中心に読んだ。
「まっすぐにいこう。」「BASARA」「大人になる方法」…キャピキャピした恋愛モノよりは、生き様や人生観を解くようなものから多くの価値観を吸収した。

17歳で初めて彼氏ができた。一つ年下の弓道部の主将。名前に「優」が入っていて、その名の通り優しく、綺麗な顔立ちの男の子だった。
180センチ以上ある長身の彼と私の身長差は約40センチ。並んで歩いていると目立ったようで、まわりからは「チッチとサリー」と呼ばれていた。

進路を決めたのもまた、漫画の影響だった。

源氏物語を描いた「あさきゆめみし」は、私の人生を変えた本のひとつ。
雅な世界で繰り広げられる恋愛模様と、平安時代の女性が抱える苦悩に心を奪われた。プレイボーイでどうしようもない光源氏は一方ですごく魅力的だと感じたし、源氏が抱える淋しさを包み込んであげたいと感じる母性のようなものも、すでに芽生えていたように思う。今思えば、私の恋愛観の歪みはここで発生したのかもしれない(笑)。

ザ・文系の私にとっては、進路の選択肢は英語と国語の二択。源氏物語の世界を体感したくて、大学は京都にある大学の文学部に行こうと決めた。もし英語を選んでいたら、今頃は翻訳家にでもなっていただろうか。
ちなみに、源氏物語の現代語訳は、円地文子氏と田辺聖子氏のものを読んだ。

■生きる術としての「書く」行為~自我の芽生え

中学生の頃、私の家族は多くの問題を抱えていた。表に出ている問題もあったし、中学生の私にはまだ知らされていない問題もあった。家族の不仲とか父親の転職とか、ありがちなものから複雑なものまでが入り組んでいた。

思春期のつらい時期に腐らずにすんだのは、小説や漫画のおかげだと思う。このとき出会った文章や言葉は、多くの考え方や生き方を提示してくれた。

あなたにとってのバイブルは?と聞かれたときに、「星の王子様」と同時に選ぶものに「晩年の子供」(山田詠美)がある。

10歳の女の子が主人公の物語だが、こんなフレーズがある。

私の周囲は、濃密な他者からの愛で満たされていた。そして、幸福な人間は、そのことに気付くことがなく、そして、だからこそ幸福でいられるのだということに私は気付いた。幸福は、本来、無自覚の中にこそ存在するのだ

私がいま苦しいのは、家族の愛を知ってしまったからなんだと心の霧が晴れた思いだった。当たり前にあるはずの愛情に気付かずにいられたら、もっと無邪気に幸せでいられたのに……。
そう思う一方で、私はこのとき初めて、自分の気持ちを第三者に的確に言語化してもらう安心感を知った。

当時の私は、まわりに心配をかけたくなかったから、自分の内面を隠して笑っていた。「悩みなんかなさそうでいいね」なんて言われるのは、正直少し快感だった。
だけど、多くの男の子は分かりやすい悩みを抱える女の子のほうを好きになった。あの子なんかより私のほうがよっぽど救いを必要としているのに!

そんな思いに折り合いをつけられたのもまた、本のおかげだった。教えてくれたのは、こんなシンプルな結論。

強いだけの人間も、弱いだけの人間もいない。

そんな当たり前のことも分からない人に、理解されなくてもいいのだ、と思えた。いま目の前で笑っている人だって影で泣いているかもしれないと、10代のこの頃に気付けたことは、今の私の、人は清濁あわせもつものであるとか、見えているものはその人の一部分でしかないのだという考え方につながっている。

読むことと同時に、子供の頃の私を救ってくれたのは、書くことだった。

「書く」という行為の原点は、小学校6年生の頃にメモ程度に書き始めた日記。本格的に書くようになったのは、中学2年生のときだった。

私は翠ちゃんだから、学校の友達や家族の前では笑っていないといけない。だけど、唯一、日記の文章ではありのままの自分が許される気がした。日記の中では翠ちゃんを演じなくていいし、泣き虫な私でいい。

私にとってラッキーだったのは、多くの本と出会えたのと同時に、精神安定の手段として、もっといえば生き伸びる手段として、「書く」という行為があったこと。歌でもダンスでも絵でもなく、あのとき自分自身で選んだ「書く」という自己表現を、私はいま生きる糧にしている。
どこまでも、私の人生は一本道である。

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