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お金が苦手だ、という話。

昔からどうしても、お金と仲良くなれない。

親からお小遣いをもらっていた頃のことはあまり覚えていないけれど、大学時代のアルバイト、会社に就職してから、ライターとして独立して今に至るまで、お金とうまく付き合えていた時代がない。

あるNPO法人の代表が言った。

「やっぱり、貧乏じゃないと力が出ないんだよね」

大ヒットゲームを生み出したIT企業の社長はこう言った。

「もらったお金は残さないようにしているんです。慢心が生まれるでしょう。子供にも残すつもりはありません。人からもらったお金で生きる人生なんて、つまらないと思うから」

ある俳人が言った。

「ここに5000円がある。電気代が払えるよね。でも、払ってしまったらそれで終わり。だから、ギャンブルするんだよ。そしたら、ガス代も払えるかもしれない」

お金ってなんだろう。小栗旬のCMが頭に浮かぶ。
やっぱり私は、お金が苦手だ。

お金がなくて、これまでの人生で一番苦しい思いをしたのは、30代半ばのこと。
お金について考える機会が増えているいま、忘れないうちに超貧乏だった時代のことを残しておきたいと、ふと思った。

「人生再設計世代」とやらに含まれるのだが、私が社会に出たのは2002年。就職氷河期だ。
地元福岡で就職し、情報誌の制作進行から始まって、2007年に意気揚々と東京に転勤。
翌2008年にリーマン・ショック。
当時の私は井の中の蛙だったけれど、明らかに社内がおかしくなったのは分かった。大好きだった上司や先輩のほとんどが早期退職していった。

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▲当時の写真を探したら見つかった。懐かしい。そして若い。

不景気の中、会社は極端な業務効率化に走り始める。合言葉は「コストリダクション(削減という意味らしい。日本語でいいじゃんね)」。私は組織で働くことに疲れてしまった。
最後の仕事は、担当していた月刊誌の幅を2cm小さくするというもの。
用紙代が削減でき、年間で億単位のリダクションが可能とか可能じゃないとか、そんな感じだったと思う。ワクワクする仕事ではなかったので、すでに記憶はおぼろげだ。

2011年3月末、震災の混乱のなかで退職。「フリーになろう」と決意する。少しだけ退職金をもらったけど、スズメの涙だった。
その後すぐに、ビジネス書の編集部に業務委託としてお世話になったので、しばらくは安定した収入を得られた。
でも、フリーランスになったのだからいろんな仕事がしたいと思って、1年半でその編集部を離脱。
その瞬間、極貧に陥る。
それまで営業もしてなかったし、実績もなかったから、月の収入が10万円を切ることもあって、恥ずかしながら30代前半にして、親にお金を借りた。
今ならよくわかるけれど、ライティングだけで生計を立てるために必要なものを、私はまだ何も持っていなかった。
技術も、人脈も、実績も、何ひとつ。
1本4000円の原稿を100本ノックのようにこなしていたけど、書いても書いても生活は潤わなかった。
フリーになった私に、いろんな人が「老後が心配じゃないのか」と言ったけれど、老後の心配をできることが贅沢であることを、どれだけの人が実感を持って知っているだろうか。
迫りくる今月の電気代や水道代に住民税。その日その日を生きることがせいいっぱいな人に、将来なんて、まして老後なんて存在しないのも同じだ。

33歳の夏、「あなたにお金を払うのは、これ以上は無理」と親に泣かれた。
福岡に帰って来たらどうか、と言った親に返した言葉を、私はいまでも覚えている。

「あなたたちがいなくなった後も、私は生きていかないといけない。福岡にはいま、この家しかない。私は東京で、この先の人生を自分で生きていくための力をつけているところなんだ。だから、福岡には帰らない」

書いて生きていくことへの強い執着。これだけの情熱を、あのときの私はなぜ持てていたのか、今となってもわからない。どこかの会社に就職して、定期収入をもらうという選択肢もあったはずなのに。

2013年の9月、私は江戸川区のシェアハウスに引っ越した。光熱費込みで家賃4万5000円。
自分の部屋は3畳のスペースしかなかった。中国人や台湾人の女の子たちと、5人で暮らした。
ベッドを置いたら歩く場所もないような部屋で、寝転んだらコンクリートの寒々しい天井が見えた。
コンクリートの壁に、私はいくつもの付箋を貼った。「100万円貯める」「シェアハウス脱出」「今月使えるお金は1日180円」。

部屋の壁

▲個室の壁はコンクリート打ちっぱなし

そんなときに、今もお世話になっているビジネス誌の編集長とランニングの集まりで出会った。
あなた面白いねと、ビジネス記事なんて書いたことなかった私に、連載の仕事をくれた。
頑張っている女性社長を取材する企画だった。

その後、書籍のライティングの仕事ももらった。
「オゴシさんが、シェアハウスで夜な夜なプリンターから出力しながら仕事をしていると想像したらかわいそうで、早くそこから出してあげたいんだよ」と編集長が笑った。

共用スペース

▲個室が狭すぎて、いつも共有スペースを占領して仕事をしていた

タイトなスケジュールで、大変な企画だった。今ならきっと、10分の1の労力で書けるだろう。
当時はまだ力がなくて、本当に苦しかった。締め切りのプレッシャーと戦いながら、10万字くらいの原稿を、泣きながら書いた。
その編集長はいまやとてもえらい人になったけれど、他の編集担当者などに私を紹介してくれるときに、今もこんなふうに言ってくれる。
「俺だったら逃げ出すような場面でも、この人は逃げなかったから、信頼しているんだよ」

書籍が無事に完成し、その原稿料で私は晴れて一人暮らしに戻ることができた。
ずっと住みたかった文の都、文京区に6畳の部屋を借りた。
狭い部屋だけど、自分だけの城がうれしかったし、誇らしかった。
荷物の搬入が終わった翌日、みそ汁を作った。即席じゃなくて、ちゃんと具を入れて味噌を溶いて作るやつ。広い天井を見上げて、温かいみそ汁を口に入れた瞬間、涙がこぼれた。

来年、フリーになって10年になる。
経験を重ね、早く書けるようになったのと同時に、単価の高い仕事を受けられるようになった。薄氷の上を歩くような生活に変わりはないけれど、それでも今の私は、少しだけ生活に余裕がもてるようになった。やっと。
私は書いて書いて、お金も少しは手に入れたけど、それ以上に大切な、仕事に対する手ごたえや自信を手に入れたのだと思っている。
いまでもお金が苦手だし、ちょっとでもまとまったお金が入ると、風船爆弾を抱えたような気持ちになってソワソワしてしまう。そしてたぶん、私は少し、お金を憎んでいる。

極貧時代の苦しかった経験は、私の財産であり、たくましさとなって今の私を作っている。
何より、この経験が、何かにつまづき、貧困に陥った人の気持ちを理解できるやさしさにつながればいい、と切に思う。
目を閉じた瞬間、お金のない恐怖に震えが止まらなくなる夜が、どれだけ人の精神を蝕むのか、私はよく知っている。

「恩送り」という言葉がある。
何年先になるか分からないけれど、私が編集長に救われたように、いつか私も、誰かにとっての編集長のような存在になれるだろうか。なれるといいなぁ。

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