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「終わりにしたい」から始まった3つの走り書き。〜深夜の独り言、の話。〜

久々に、身近な人間から「終わりにしたい」と連絡がきた。
端的に言うと「しにたい」に近いやつだと思う。

来たな、と思った。

以前はこんなことがあると、私まで巻き込まないでくれ(下手すると私も持っていかれる)、という気持ちで、目を逸らしていた。

でも今は、連絡してくるなとも思っていないし、むしろ適度にちゃんと吐きだしてくれればいい、それにいい意味で適当な言葉を返すから、と思っている。

そして同じようなことを思っている人間は、たぶん他にもたくさんいるよ、と思ったりする。
前より向き合えるようになっている思う。


変えられないものや過去のことにいつまでも執着している、あるいは自分では何も行動せずに文句ばかり言っている人間は、醜くて哀れだと思う。
(それはこの件に限ったことではなく、コロナ禍の小さな世界を見ていて痛感したことでもある)

逆に言うと、これから変えられるものをなんとかしていこうとする姿勢、何か自分で動こうとしている人間は、とても惹かれるし美しい。
(これはミスiDに参加している上でたくさん感じたことでもある)


それは何か人に宣言できるような大きな動きじゃなくても、もっと言うと物理的な"動き"じゃなくても、
考え方、捉え方、感じ方をひとつ変えるだけでも、それだけでも世界は変わったりする。(それだけでも大変だったりするのだが)


そして、私は少しでも誰かのそれを手助けできればいいと思っている。


私は多分、無意識に(或いは防衛本能かもしれないが)子供の頃からそうやって生きてきた気もする。

自分の身に起きていることになんらかの意味をつけること、自分なりに解釈して、物語を続けていくこと。
(それは時に危険なことである気もするが、その物語を客観視できる「冷静な自分」がいる限りは大丈夫だと思っている。
そして人生の大半は所詮思い込みなんだから、それがなんであろうと自分にとって"真実"であれば、それが生きることに繋がるのであれば、問題ないのだ。)

だから自分の人生を物語に仕立てあげることが好きだし、これからもっとその物語を面白くしていきたいと思っている。
ここまでの時間は、前段と伏線に過ぎないのだから。





「あの時もっとこうしていれば」と言うのは、誰しもが一度は思うことだと思う。

私はとっくに「そうじゃなくて今の方が良かった」と自分の中で整理もついているのに、第三者が「もしああだったら」とか「もっと別の道があったのに」みたいなことを言ってくることがある(それは本人にはそのつもりがなくてもだ)

あの時そのまま芸大に行っていればとか、
某テレビ局の最終面接に受かっていればとか。

逆に言うと、そんなことを言われる、つまり「そんなこと本当にあるのか」という、激レアくじの"2等"を引き当ててしまうような経験を、悲しいかな何度かしてしまっている(それは本当にありがたいことでもある)。


だから私は、どんなに難しいものとわかっていても「なりたいものになる」ことを諦めきれないし、必ずそれができるとも思っている。



「しにたい」と思っている人間は、きっとこの世界(これは普段私が使っている文脈とは少し違う、現実の「この国」であり「World」の意だ)に
思っている以上に、たくさんいるのだなと思ったりする。

ここ最近の世界の状況からもそうだが、最近ちゃんと人に目を向けるようになった自分が、よく感じていることだ。
大丈夫、あんただけじゃないよ。


And I always wanna die, sometimes
(The 1975「I Always Wanna Die (Sometimes)」)


『孤独な私と似たような人が、この世界にちゃんといるんだ』
そんな繋がりを感じさせてくれるのが、一人の部屋で「私は独りじゃない」と思わせてくれるのが、音楽だったり芸術の魅力だとも思っている。

そんな見えない何かで繋がって支え合って、生きていければいいと思う。




「終わりにしたい」の一言も、そこから広がってこんな文章を書くことができたりする。ここでも捉え方、考え方次第である。


嫌だとは思ってないよ。



たまにはちょっと重たいマリエも。深夜だし。
明日もお互いなんとか生きましょうぜ。

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