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この3ヶ月の話。〜とりとめもない走り書き、自分用〜

あまりにも激動で混沌としたこの3ヶ月(2020.3~2020.6)。

目の前が突然見えなくなってから
自分は何をやりたいのかを、ずっと考えていた。

そして死んでいる心なりに、いろんなことを感じた。


それは「音楽続けるのか?」なんて薄っぺらい問いではない。

やりたい「音楽」の周りにあるものを、あるいは中核にあるものを
捕まえて手にとってみたり、点と点を繋げてみたり、掘り起こしてみたり。

明確な「場」が奪われた今、どこで、何をするべきかを考えたり。

答えのない、地道な作業が続いた。


そんな日々の断片的な記録を残しておく。




自分が愛する「音楽」とは何か。

原体験は、中学生の頃に出会った
一人の部屋で自分のために聴く「音楽」。

次に都会に出てきてから出会ったのは
"ライブ"という空間で、頭からつま先まで、全身を満たしていく「音楽」。
それは、聴覚、呼吸、空気の振動、熱、演出、会場の空気、箱の中全体の空間そのもの。

それからはその空間に、心を奪われっぱなしである。

だからライブができなくなった時、何かがすっぽり抜け落ちてしまった感覚で。


でも全てがなくなったわけではない。

今日も部屋では音楽が鳴り続けている。
今ここで、私の口から音楽を鳴らすことはできる。

時間はかかるけど、多分できることはたくさんある。


絶望と希望が入り混じった、よくわからない感覚が続く。




少しだけ算段を立てて、いろんなことを試してみる。

その場所を覗きにいくと、たくさんの人が様々な自己表現をしていて目眩がする。

似たようなものが転がっている。

今までと同じことをしても埋もれていく。

もっと影響力のある人が同じフラットな場所で並んでいる。

飽和してるなと思う。

インターネットの海の広さは無限だけど、一人の人間が持っている時間は有限だ。

どこに行っても結局は可処分時間の取り合いか。吐き気がする。



他の芸術も危機に晒されていて、
"映画"や"演劇"、"美術"らの存在も改めて感じる。

それを深掘りしていくうちに、根本は一緒だと気づく。
それぞれに特に優れた点はあるにしろ、あまり境目がないものだと思う。

芸術を楽しむことは、他者の発信を感じ取って、共感したり、新たな人生を知ることで
自分を見つめる、自分とは何かを捉える、感じること
そして、世界や人間、人生について考えることだとも思う。

その中で音楽は、最も直接的で、最もすぐ側にあってくれるものだと思う。

それぞれ言葉にできない力を放っているけど、
特に音楽はその割合が多いとも思う。より根源的なものだと思う。


世界を映す。作った人に思いを馳せる。
そして考える。文化とは何か。





まるで毎日映画の中にでもいるようだ。

テレビからはSF映画のような話が、または歴史の中のような映像が写っている。

現実と、映画のようなフィクションのような世界が混ざり合った空間にいるみたいな気分になる。

もしかしたら元々望んでいた世界はこれに限りなく近しいものだったのかもしれないけれど、
否、今ここにあるのは紛れもなく「ただの現実」だ。

現実と空想が混ざった世界は、平穏な日常がある上で始めて成り立つものなのだと気づく。

日常の大切さが、そしてその日常を維持するための意識を今まで我々がどれだけ怠ってきたか、身を持って突きつけられることとなる。





どうも音楽を聞く気になれず(前から好んで聴いていた音楽たちは、今は全く当たり前でなくなってしまった当時の記憶が蘇ってきてしまって、平常心で聴くことができなくなっていた)

コロナ前に収録された第1回から順に、ポッドキャスト"POP LIFE"を聴く。

可能性の溺死体、タナソーさんの話が面白い。
Yogee New Wavesの回がとても面白くて、彼らがとても好きになった。

初めて彼らを観たライブでは、場の空気(主に客の空気)が合わなすぎて、以降彼らのことはあまり好きになれなかった。

改めて彼らの口から発せられる言葉や思想、歴史を聴いて、
改めて「私は、人の生き様に魅せられるんだな」と思う。

「客の空気が」とか、そこにいる人間全員で成立する場とか空気が、今じゃ懐かしいよ。




あまりにも閉塞的で心が沈むこの時期に、
何かの機会を生み出そうとしてくれる人がいて、とてもありがたく思う。

表現の場のないアーティストに場所を作ろうとする漫画家。

制限なく音源を聴いてくれるプロデューサー。

そしてこの時期ならではのやり方を打ち出したミスiD。


締め切り当日の明け方、偶然見つけたこの「ミスiD」の文字。
webサイトを開いた時に並んでいた言葉たちに、運命的な何かを感じて手の伸ばす。


ここで全て吐き出そうとした時に、あたらめて"自分"に気づく。

今まで考えてきたこと、今までやってきたいろんなことがつながる。





もう隠すことはやめようと思う。

隠すこと、綺麗に見せること、もっと言うと周りとうまくやることが正義だった時代は多分もう終わりだ。

自分のスタンスをはっきりさせる。

逆に今まで自分に足りなかった(殻を破れていなかった)ものはこれだとも思う。

本当はもっとできるでしょ、何か遠慮してるでしょ、もっと「エグさ」を出していい。

かつて信頼できる人たちに言われてきていた言葉は、とても的を得ていたと思う。




もともと「生きづらい、はぐれものたちの居場所」を作りたい、と思っていた。

その「生きづらい」を具体的には示してこなかったけど、いろんな理由で生きづらい人、例えば

・育った環境、家庭の事情など、過去のきっかけから
・あるいは生まれつきの性質(それは病名がつくつかないも関わらず)
・あるいは後天的な何か
・何かのレールから外れてしまった人
・ここまで書いた大げさなことではなくとも、この世界になんだかうまくはまれない人

そんな、広い世界の中では「少数派」と思われる人たちに向けて、とずっと思ってきた。


でも人間、いつでも「生きづらい人」になる可能性はある。

そしてこのコロナで、より多くの人が「生きづらさ」を感じている、少なくとも今までとは違う何かを感じている可能性があると思う。


もう今の時代、ひとつの正解は存在しないと思う。

何が善で何が悪か。
それぞれの立場があり、それぞれの理由があり、それぞれの考え方がある。

「これが正しい」「これが"普通"だ」とはもはや誰も言えないと思う。
だからこそ、考える、想像する必要がある。

それはきっと、とても体力のいることで、疲れることだとも思う。


そんな誰もが「生きづらさ」を感じる可能性があるこれからこそ
「ここなら居心地がいい」「一人だけど独りじゃない」「ここでなら夢をみれる」
そんな場所を作りたい。

その一方で

ふと何かに気づく、はっとする、考えさせられる。
そんな「芸術の力」を発揮したものも作りたいとも思っている。


とにかく、コロナ以前からずっと考えてきたこと、やりたかったことは
これからも変わらないし、むしろより明確になってきたし

今までよりもたくさんの人が音楽や芸術を必要としてくれるようになるのではないか、と思ったりもしている。




「その一方で」

私はこの言葉をよく使う。

"マリエ映茉" と名乗り始めたのは、自分の中に2人の人間が棲んでいて、どちらも殺したくないという想いからである。

陰と陽、優しさと冷酷さ、激しさと静けさ、男と女、大人と子供、

(人間みんなそうかもしれない)

アンビバレントな存在と、そのまま付き合っていきたい。




以上、自分用にまとめた走り書き。


2020年は大きく前進する気配がしてたけど、また違った形で、大きく前進できる気がしている。










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