〜陰の文化考〜 井の中の蛙大海を知らず ただ天空の深さを知るのみ

神代からの孤立主義が生む文化

 島国根性、ガラパゴス、井の中の蛙云々。日本の内向き志向を揶揄する言葉たちだ。いたずらにグローバリズムを標榜する軽薄な輩どもが、同じ日本人を上から目線で馬鹿にするときによく使われる。グローバリズムを頭から否定するつもりはないが、 今の時代のデファクトスタンダードのごとく語られるのは違うと思う。
 グローバリズムの対義語を調べるとナショナリズムが真っ先に出てくる。しかしこれも今の日本を表す言葉として適当ではない。日本が外国と戦火を交えたのは、百済王の要請で新羅と交戦した391年が最初で、その後1894年の日清戦争まで元寇や朝鮮出兵など数えるほどしかなく、文禄・慶長の役を除けばその殆どは売られた喧嘩だった。古代より日本の国体は穏やかな孤立主義、アイソレイショニズムだと言える。来る者拒まず去る者追わず、身に振る火の粉のみを払う。海に囲まれたおかげで日本は大陸の揉め事にむやみに巻き込まれることもなく、何千年もの間のほほんと暮らすことができた。その結果生まれたのが独特のジャパネスクである。

洒落は本気でやるから洒落になる

 日本の文化には陰と陽がある。陽は権威が認める、主に「道」という言葉がつく文化。書道、香道、華道、茶道など。それと対を成すのが市井の楽しみである趣味・道楽の世界である。もともと活花や茶は庶民間の陰の娯楽だったものが、お上のお墨付きを得て陰から陽へ転向し、その途端にそれらは自ら権威を求める存在になり、庶民の手を離れた。陰の存在は陰であるからこそ値打ちがある。
 例えば浮世絵は、狩野派に代表される御用絵師たちの大和画に対するカウンターカルチャーとして江戸時代に誕生した。絵師、彫師、摺師、版元による合わせ技だが、世界にも類を見ない高品質の木版多色刷りは現在の貨幣価値で1枚数十円〜300円程度のもので、たとえ爆発的に売れたとしても制作側に入る収入など、その労苦に比べ多寡が知れていた。それでも彼らはひたむきに己の技術を磨いていく。洒落は本気(まじ)にやらなければ洒落にならない。その結果お上の目に触れるまでの大人気となり、どういうわけか権威に対する挑戦とみなされ、幾度となく弾圧・規制を受けることになる。しかしむしろその都度反発するかのように、浮世絵のレベルは飛躍していく。それは決して銭稼ぎや大向こうを唸らせるためではなく、ただ好事家を喜ばせるため、身内に自分たちの技術を披露するためのものだった。庶民は浮世絵を楽しんだあとは、障子や襖の修繕用に利用したりしていた。そしてオランダへ輸出される陶器の緩衝材として使われた浮世絵は、陶器そのものよりも注目を浴びることになる。その後ゴッホ、モネ、ドガ、マネなどの作品に影響を与えたのはご案内の通り。やはり江戸時代に一大ブームとなった「変化朝顔」なども同じ文脈である。

予期も期待もなかった海外の掌返し

1970年代、Atari、Commodore、Apple IIなどにより米国で家庭用コンピュータゲーム市場が確立された。日本ではゲームセンターや喫茶店に置かれるアーケード機が中心だったが、米国に遅れること10年、80年代に入り任天堂はApple IIのゲーム機能だけをコンパクトにまとめて低価格化したファミコンを開発する。ゲームソフトはアーケード機からの移植版にはじまり、やがて米国発祥のブロック崩しやRPGなどのシステムを拝借したファミコン専用ゲームがいくつも登場した。すぐにそれらは日本独自の進化を始め、例によってガラパゴス化していく。当初日本のゲームを(パックマンなどの一部を除き)自分たちの劣化コピーと見ていた米国でも、海外版ファミコン(NES)の発売をきっかけに徐々に浸透していき、ついには米国ゲームメディアで「史上最も影響力のあったゲーム」の1位にスーパーマリオブラザーズが選ばれるまでになった。

 1988年に公開されたハリウッド映画「さよならゲーム」の中でケビン・コスナーがティム・ロビンスに「おい知ってるか。日本人ってのは生の魚を平気で食うんだぜ」と言い、ティム・ロビンスが驚いて「嘘だろ……」というシーンがある。当時、寿司はまだアメリカ人にとってゲテモノ以外の何物でもなかった。ラーメンやそばを音を立てて啜る日本人を見て「Sniffing(鼻をすすっているようだ)」と言い、マナー違反だと毛嫌いした。牛肉の本場はアメリカであり、油っぽく歯ごたえのない和牛に対して「あんなものはステーキじゃない」と嘲笑った。ほんの20年ほど前の話だ。ラグビーワールドカップ時の東京は各国からのファンでどこも溢れていたが、とりわけ回転寿司、ラーメン屋、焼肉店の繁盛ぶりは尋常ではなかった。

陰と陽を隔てる深くて暗い河

 マリオ、ゼルダ、ポケモン、ゴジラ、ガンダム、ハローキティ、ドラゴンボール、デスノート、セーラームーン、聖闘士星矢、キャプテン翼、一連のジブリ作品群。音楽ジャンルでは坂本九にはじまり、X Japan、BABYMETAL、人間椅子……。これらに共通するのは、すべて内輪(国内)の楽しみのために生みだされたものということだ。そしてたまたま外国人の目に止まり、彼らが勝手に自国に持ち帰って広めた(昨今はYoutubeが引火点)。クリエイターたちが求めていたのはあくまでも国内の目利き、数奇もの、オタクたちからの評価であって、海外などはじめから眼中になかった。分かるやつだけ分かってくれればいいというスタンス。これらが海の向こうで評判になったとき、彼らは一様に「ん?何が起きているんだ?」という反応だったのではないだろうか。
 当然このような海外での評判はお上の目にも止まり、今度は弾圧の代わりに税金を投入して海外向けの売り物にしようとしたのが、悪名高きクールジャパンキャンペーンである。彼らはサブカルチャー、カウンターカルチャーに対する理解が乏しく、むしろ卑しいものとして見ている。漫画、コミックが普及し始めた頃、学生、サラリーマンが電車の中で読んでいる風潮をとらえ、「いい大人がみっともない」と嘆いていた連中だ。当時のワイドショーではコメンテーターが「第二の一億総白痴社会」などとしたり顔で語っていた。ブームに便乗してサブカルチャーを陽のあたる場所に引きずり出そうとした結果は、言うまでもない。どんなに税金をつぎ込もうと、日向に出された途端にそれらは跡形もなく消えてしまう。洒落のわからない連中が真似事をしようとしても野暮にしかならない。

 日本の大衆文化は洒落っけや粋を大切にする。それは簡単に身につくものではなく、また努力しても手に入る保証があるものでもない。ましてや権威や見返りを求めること自体が洒落、粋の対局にある。
 閉鎖的?結構。井の中の蛙?それがどうした。井戸の中から空を見上げる蛙だからこそ、周りの雑音に邪魔されることなく、世の中の真理を追求することができるのだ。陰の文化、サブカルチャーとは「やはり野に置け蓮華草」なのである。


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