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綿を紡いで糸へ

地元にある公共の施設で金曜日に糸車を使わせて頂けます。先月まで閉館していたのですが、今月から開館になり、毎週金曜日月3回糸車が使えます。

綿を紡ぐことに興味ありますか?

地方ではところにより昭和40年代まで機織りをしていました。


それが綿だったかどうかは定かではありませんが、多分大麻(おおあさ)か苧麻(ちょま)だったのではないかと思います。植物から繊維を取り出して績むのと綿から糸を紡ぐのでは工程が違います。


なんで大麻か苧麻かと思ったのか、少し考えてしまいました。なんでだろ。


その理由はいくつか考えられます。 

・綿は一人の人が全行程をしないで、分業が普通だった       

・大麻や苧麻は一人の人が全行程をやろうと思えばできる。

・大麻や苧麻などの植物繊維はず~~と日本で多分縄紋の時代から家庭に親しまれていた植物だったから。

・綿は安土桃山時代に入ってきたが、家庭の必需品というよりは、ちょっと贅沢品として交易品としての扱いが重きをおいていたから分業となった。

・本絹は、お蚕さんを育てるところから始まり人手がいるのでやはり贅沢品で家庭の必需品というよりは反物を商品として売りに出すものだった。(現在では個人の方で繭から糸を引き出し何本か束ねて太い糸にして織られてるという話を聞いたことがありますけれど。その方が研究されて蘇らせたんだと思います。)

昭和40年代。。。。ついこの間ですね。わたしは30年代後半の生まれですから、そう感じます。その頃は織りだけでなくて、まだまだ日常の中にもろもろの先祖から受け継いできたそれこそ「伝統的な」モノが残っていたようです。残念だなあ。もう少し早く生まれたかったですね。そしてこの目で見て歩きたかったその日常を。 

母からおばあちゃんになっても端切れはとても大切にしていた。この実直なおばあちゃんたちが大切にしていた布の端切れや機織り機は多分風呂の焚付になってしまったんですね。布の端切れは、ほつれや布に穴が空いた時のあて布として大変重宝されていた。けれどその小さな端切れの価値を知っていたのは、裁縫する母だけだったようですね。

また、現代では考えにくいですが、このなんでもないほつれ直しやあて布にもなんていうか美的センスが輝いていたようなんです。なんでもいいから繕ったのではなくて、美しく繕ったということです。ささやかな喜びとしての心の豊かさが、あったんですね。貧乏な時代ではあったけれど。心が美しかった。本来のというか縄紋からの日本人の心を持っていたのかなと感じます。




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