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大老・井伊直弼を訪ねて⑤埋木舎⑵〜(滋賀県彦根市) 2022年9月8日

前回の『埋木舎⑴』では、「井伊直弼」から安倍内閣と阿部改革(老中・阿部正弘)を挟んで書くつもりであった。

元を辿れば、先週の彦根の旅で知りたかったのは『井伊直弼の人物像』である。埋木舎を訪れ、私が感じたことを気の向くままに書いてゆこう。政治を論ずるにはまだ力量が足りぬ。

【将軍継子問題の勝者】

前置きは長くなるが、まず歴史に触れてみる。

1858年、徳川の14代将軍を誰にするか?と議論がなされた。

時の13代将軍・家定には世継ぎとなる子が居ない。黒船来航の19日後に父将軍が没し、御世は5年。死までの1年間、家定は明日をも知れぬ病床の身だった。

井伊直弼を筆頭にした譜代大名らは『南紀派』といい、次の将軍にはわずか4歳で紀州藩主となった徳川慶福(後の家茂)を支持する。

問題提起の頃はまだ『譜代大名筆頭、彦根藩主・井伊直弼』大老として力を奮うのは後のこと。

この対抗馬に水戸・徳川斉昭と外様大名らを含む『一橋派』が名乗りを挙げる。

当て馬となった人物は、最後の将軍として朝廷に政権を返上する一橋様こと、徳川慶喜。

日本の危機迫り、老中首座・阿部正弘の幕府改革が始まった。日本を脅かす海外の猛威は留まることを知らない。

幕末、この "阿部ノミクス" を支持するものは多かった。

薩摩・島津斉彬、越前・松平春嶽、土佐・山内容堂、宇和島・伊達宗城ら、海に囲まれた日の本の藩の大名は、一橋を推進する。

そして徳川御三家の水戸藩主・徳川斉昭。

『水戸から将軍』を輩出したい気持ちは人一倍強かっただろう。慶喜は、この斉昭の正室の次男として生まれた。

さらに、斉昭の正室は公家の出。武家と公家の高貴な血筋と、聡明さを併せ持つ慶喜に、周囲の期待は高まる。

慶喜は望まれるままに徳川御三卿・一橋家の養子となり、12代将軍・家慶からもたいそう可愛がられた。

しかし結果は、井伊直弼ら『南紀派』の勝利。14代将軍に徳川家定、15代将軍に徳川慶喜が座ることとなる。

三本の矢を整える暇なく、阿部正弘は病没する。享年38歳。

【埋木舎を見つめて】

この歴史の先に、私の『埋木舎』への思慕がある。

彦根へ訪れ、城と埋木舎を眺め、私は井伊直弼という男の生き方を振り返ってみた。トントン拍子に上がってゆく、その責任の重さは計り知れない。

たとえば、徳川慶喜。

江戸幕末の大政奉還・戊辰戦争を経て、明治では政治の世界に召集されていない。隠遁生活となるが、慶喜はまだ30代の若者である。

子作りに励み、趣味の世界にも没頭した。ストレスから解放されたせいか、そこそこ長生きし、天皇陛下への拝謁も叶え、この世を去っている。

この慶喜は、こうなればどうする・これならどうすべき、といった処世術を理解し過ぎていた。世間が彼を認めずとも、彼が彼を知り抜いていたように思う。

男は趣味に生きるもの。ライフワークバランスが叫ばれる今、現代社会の男性など仕事のみに生きる者の方が珍しい。重責から外れた彼は、今手元にある幸せを気づけない男ではない。

さて、井伊直弼の『埋木舎』へと戻ろう。

茶歌鼓(チャカポン)と呼ばれた男は、きっと藩主となる自分を夢見ていたことだろう。

巡り巡って藩主となり、この幕末の大老となり、本当に彼は幸せだったのか。井伊直弼を作り上げたのは、彼自身の持つ野心なのだろうか?

埋木舎の生活で、井伊直弼の励んだ茶道・和歌・雅楽など、深く広く、男の趣味そのものに見える。

彼の才を持ってすれば、国政に参加することなく埋もれても、文化人として名を馳せたかもしれない。

彼には、この埋木舎で趣味を語り合える女性の存在があった。世間から埋もれて、恋にうずもれて…

次回は、埋木舎での蜜月に迫ろう。

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