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【鹿児島県鹿児島市】薩摩を歩く⑥廃仏毀釈と献花、霧島神宮、福昌寺、島津家菩提寺

私が鹿児島を旅した日のこと。「南日本新聞」の一面に、『霧島神宮 国宝』の見出しが飾られていた。

この日の旅の目的地である知覧への道すがら。私は山口県宇部市から来たマダム2人の訪れた霧島神宮の詳細を聞いた。

「すーーーごいよーーー!キレイだったーーーー!!」

「国宝やってね、嬉しいよーーー!!行った日に決定やもん」

山口県の人と、鹿児島県を語り合う。歴史好きな私には面白い構図である。そして頭の中でボンヤリと鹿児島の歴史を思い浮かべていた。

鹿児島には、神社はあるけど、寺院はまずない。

簡単に、神社=神様、寺院=仏様。

1868年。明治時代の幕開けと共に、「王政復古の大号令」そして祭政一致の観点から「神仏分離令」から「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の嵐が吹き荒れた。

天皇を中心に、政治を行うのは朝廷!

これが「王政復古の大号令」

植民地支配を広げる欧米列強に負けない日本を創るため、古い徳川幕府を倒して、新しい国にしよう!

天皇は、神の子。国の宗教も「神道(神社)」に揃えよう!

これが「廃仏毀釈」仏教を無くしてしまおうとなった。

改革の中心となっていたのが薩摩、鹿児島の人達である。

そのため、鹿児島では徹底した「廃仏毀釈」が行われた。

菩提寺、つまり先祖代々の墓を置く寺のこと。

薩摩を統治していた島津家は歴史も深く長く、もちろん菩提寺もあった。「福昌寺(ふくしょうじ)」という。現在は「福昌寺”跡”」といい、墓はあるけど寺がない。

鹿児島における「廃仏毀釈」は、先ほどの島津家の菩提寺さえ破戒されてしまうほどの凄まじさだった。

「霧島神宮、国宝」は、たいへん喜ばしい。

けれど鹿児島には、もっともっと、国宝級の建築物も装飾もあったのではないか。それほどの歴史がこの地にある。

鹿児島を訪れ海を眺めた時、錦江湾の美しさもさることながら、整備された大きな港に驚いた。奄美大島から沖縄、中国も韓国もそう遠くない。

中国や朝鮮半島から伝来した仏閣は、どれほどだったのか。私は歴史に思いを馳せる。

道中のマダム達は、山口県の観光名所を教えてくれた。

山口県の誇る「防府天満宮」へ行ってみて!と明るく話していた。もちろん「廃仏毀釈」の話題はしなかったけれど、ここで長州に守られた仏閣が見られる。

鹿児島の人達は、どのような気持ちで「廃仏毀釈」を行ったのか。これほど酷い‥

私の中に答えはまだ無いけれど、ヒントは翌日の鹿児島巡りにあった。

薩摩隼人の道案内で護国神社へと向かう途中、ガイドをしている彼らの知人がこのような話をしてくれた。

「鹿児島は、献花が全国で一番多いんですよ。先祖を大事にしているんですよね」

「あー俺!南洲墓地のボランティアの清掃活動、参加してるよ」

私は笑った。菩提寺は無くとも、墓を大切にし続けているのか。

鹿児島の墓所はキレイで、たいてい花が手向けられている。旅人には是非見て欲しい。悲しい歴史を覆うような、鹿児島の心を。

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