舞鶴の港に沈んだ浮島丸慰霊碑を訪ねる 【My Dark Tourism 京都】
日曜の朝。車の運転席にひとり乗り込み、舞鶴の引揚記念館をナビで設定する。USBでつないだ iPod でかけたのは新村ブルースの歌姫、ハン・ヨンエ(Han Young Ae)が2003年に録音した Behind Time だ。
1925年から1953年、関東大震災の朝鮮人虐殺から朝鮮戦争に至る朝鮮半島の人びとが「尋常でない辛酸を舐めた時期にテーマを絞って歴史的意味の 濃い大衆歌ばかりを集めた」アルバムは、重苦しいが今回の旅にふさわしい。「うしろの実時間」に目隠しをされて走り出すわけだ。
数日前に舞鶴の話をしたつれ あいが「いいなあ、行きたいなあ」と言っていたので、今朝は彼女が仕事に出かけるまで言い出せずにいた。今回は慰霊の旅だからひとりでいく。慰霊とは 1945年に舞鶴湾内で沈没して多数の犠牲者(主に朝鮮の労務者たち)を出した浮島丸のことである。
1965年に慰霊碑建立を呼びかけた舞鶴市民の声名をここに引く。
浮島丸に乗船した朝鮮人のほとんどは下北半島で働かせられていた労務者とその家族たちだった。公式の記録ではその数 3,700名と言われているが、これを逃すと次の船はないと言われて駆け込みで乗船した者も多く、実際は6,000から7,000名近く乗っていたという説もある。
またその沈没原因には不審な点も多々あり、大湊出港前からこのまま目的地の釜山へ行ったら日本へ戻ってこれないと危ぶむ船員たちの不穏な行動を 伝える証言もあったりして、当初は寄港予定になかった舞鶴で自爆させたという説も根強く残っている。敗戦と共にそれまで牛馬のように酷使されてきた朝鮮人労働者の暴動を恐れた 軍が釜山へ帰すと船に乗せて・・・ という算段である。
この浮島丸沈没の真相については過去にNHKが「爆沈」という番組で当時の乗組員たちの証言も交えて検証している(1977(昭和52)年8月放送)。
朝の8時半に出発して高速道路をひたすら走り続け、11時頃に舞鶴湾の東に位置する舞鶴引揚記念館に着いた。
ここに引揚記念館が出来たのは館の北側、いまは工場群が立ち並ぶ海岸沿いの敷地にかつて海軍の平海兵団から転用された舞鶴引揚援護局があり、 戦乱を経て帰国した人々を(あるいは死して無言の帰国をした人々を)迎えた桟橋があったからだろう。記念館の裏手の小高い丘の上にのぼればその全景が見える。つらい体験を経てあの日、やっと踏んだ故国の地とその思い出を偲ぶにはまさに絶好の立地というわけだ。
ここに立ち寄ったのは舞鶴港やかつての軍都に関する資料や古い図面でもないかと期待して来たわけで、それらを確認してから先にある浮島丸の殉難碑へ行くつもりだった。それでも折角来たものだから展示は丁寧に見ていく。
入口の「赤紙きたる」から始まり、敗戦によって海外に残された660万人の日本人、ソ連の侵攻と逃避行、シベリヤのラーゲリ(収容所)での過酷な環境、セメント袋を切ってつくったメモ帳や白樺の皮に書かれた日記や死亡者名簿、そして待望の故国、引き揚げ船、岸壁の母。ひとつひとつが重た い。
何よりもわたしのこころをいちばんつらぬいたのは、図書閲覧コーナーで見つけた一冊の写真集の引揚げをめぐる風景だった(「在外邦人引揚の記録 ―この祖国への切なる慕情」毎日新聞社.1970)。逃避行のさなかに死んだ母の遺骨を抱きかかえて立つ断髪の少女。引き揚げ船の中で死に、水葬された夫の遺体が沈んでいった海面をいつまでも見つめて動かない母と子の後ろ姿。舞鶴港に着いた日に息絶えた母の枕もとで泣く幼女。遺骨になって帰ってきた息子を両手をあげて慟哭し迎える年老いた母。一枚一枚のモノクロの写真がわたしを凍り付かせる。
引揚げの当時の記録フィルムがリピートで流されている薄暗い部屋の片隅でわたしはそれらを息をつめながらめくり続けた。そして思った。この“慟哭”ということばすらもするりと滑り落ちてしまう耐え難い記憶を感情をこの国はいったいいまどこに有しているのだろう? この忘れがたい一人ひとりをわたしたちはすっかり忘却してしまったのではないか? そしてなお思った。ここにはなぜこんなことが起きたのか、なぜこんな目に会わねばならなかったのか、なにが起きていたのか、隠されていたのか、責任を問い、過去を裁こうという意志が何ひとつとして見当たらない。
戦争だから仕方なかったんだ。大変な目に会ったけれど、みんな頑張ったんだ。悲しいことつらいこともたくさんあった戦争がやっと終わって、必死の思いで生きのびて、この舞鶴の桟橋でたくさんの心やさしき人々が温かく迎えてくれた。そうやって何も問わず、過去の実時間を見つめず振り返らず、悲しみや怒りをカタルシスのように浄化して日常へ投げ返す場所、それが引揚記念館。無謀な国策であった満州開拓団や、国策にもろ手をあげて協力した人々や国防婦人会・青年団・在郷軍人会、ソ連兵の慰みに自国の女性を差し出して帰国してからもそれを嘲笑した男たち、同じように樺太や日本に残されたアジアの人びととその後の生きざま、そうしたことには何ひとつとして触れない。触れることなどできないだろう。触れればこのカタルシスが自壊してしまうからだ。だから申し訳ない。極寒のラーゲリで酸っぱく硬い黒パンを齧りながら白樺の皮を剥がして故郷を思いながら歌を書き綴った記録が世界遺産に認定さ れましたああそうですかそれはよかったですねごくろうされましたとどこか背中がうすら寒い。
わたしとおなじくらいだろう年代の父親が学生くらいの息子に 「むかしはこんなことがあったんだよ」と教えている。息子はあまり興味がなさそうに形だけうなずいている。なぜ、目と鼻の先の湾内で起きた悲惨な浮島丸のことはこの記念館にひとことも記述がないのだろう? 引揚げの年表にもない、「思い出の引き揚げ船」の一覧にもない。
戦争のために多くの人々が大変な思い をしてこの舞鶴の港に引き揚げてきた。戦争のために無理やり狩り出されて日本の炭坑や危険な工事現場で働かされてきた朝鮮人を乗せた船が舞鶴で沈んでもう少しで故郷へ帰れるはずだった人たちが何百人も海の藻屑となった、それは記憶しないのか? せめて小さなコーナーでも設けて然るべきなんじゃないか? 「岸壁の母」や「抑留者救済の父」や引揚者の情報を家族へハガキで知らせ続けた男やシベリヤからついてきた犬の黒などの美談の連続にどうにも白けてしまう わたしは非国民なのだろうか。
まあ非国民でもいいさ。わたしはわたしの内なる国家を滅ぼしたい。こんなひどい目にあって奴隷のままでいつづける事には耐えられない。大変な苦労をして帰国しました、ふざけるな、だ。わたしだったら「天皇はおれのまえで土下座しろ!」と奥崎謙三のように咆哮するよ。愛するつれあいと娘が引き揚げ船のなかで死んで日本海のどこかの海域で遺体が沈められてしまったとしたらおれは一生涯、国家というものを呪って生き続けるよ、そうだ ろ? でもこの国の人びとはそうしないんだ。愛する息子が戦場で無残に殺されて石ころの入った白木の箱だけで還ってきても靖国神社に英霊として祀られてありがたいことですと涙を噛み締めて絶望を噛み締めて耐えてしまうんだよ。だからきっとまたおんなじことが繰り返されるだろうおれは覚悟している。
記念館のなかのレストランの「海軍カレー」や「元祖肉じゃが定食」などのランチ・メニューにはいまいち誘われなかったから、浮島丸殉難者に供える花を買いにいくのもあって、町の方へもどって地元のスーパーを探した。わたしは旅先で地元のスーパーを見るのが好きだ。フクヤというスーパーで小さな花束と、港町だけあってネタが良さそうな海鮮丼、そして地元手づくりの平天などを買って戻った。
ふたたび引揚記念館までもどり、現在の平工場団地の敷地の南端(実際の 場所から 20メートル南側)に1994(平成6)年に復元された「引揚桟橋」を見に行った。橋のたもとに「招魂の碑」というのがあり、「死没者の鎮魂のため、各収容所跡、墓地、自決地付近の小石を蒐集、納石し」たと解説にある。たくさんのむごたらしい死が、その死を抱えた生者がこの地を行き交ったのだ。
桟橋の先まで行き、かつての舞鶴引揚援護局の敷地を眺める。敗戦後の10月7 日、朝鮮半島の釜山から陸軍軍人2,100人を乗せた引揚第一船雲仙丸はここではなく舞鶴の西港へ入港した。翌1946(昭和21)年3月に舞鶴引揚援護局がこの平海兵団跡の庁舎を利用して設置された。
それより半年以上前になる1945(昭和20)年8月25日、浮島丸が沈没した頃はここはまだ海軍の海兵団の敷地だった。救助されて何とか生き永らえた人々はこの海兵団まで歩かされて収容された。
死者の遺体については当時の証言がいくつか錯綜していて、旧舞鶴海兵団(引揚記念館より南の、現在の海上自衛隊・舞鶴教育隊)敷地に仮埋葬した(昭和28年の第二復員局残務処理部資料)、また教育隊のボートダビット付近と大浦中学校の海寄りの畑に仮埋葬した(池田淳郎「舞鶴海軍始末記⑥浮島丸事件の真相(昭和53年舞鶴よみうり)」)、あるいは「毎日のように浮き上がってくる遺体は軍の指示で(沈没した浮島丸の)水面に出ているマストに結わえておけ」「そして多くなると(現教育隊の)北側の空き地で荼毘に付していた が、やがてそれも出来なくなって平海兵団のところに埋葬した」(当時救助活動にあたった地元佐波賀住民)という証言などがある(いずれも前掲「浮島丸事件 の記録」収録)。
一方「報告・浮島丸事件訴訟」(日本国に朝鮮と朝鮮人に対する公式陳謝と賠償を求める裁判をすすめる会)の訴状では「事件当時、海岸に打ち上げられた遺体は、舞鶴海兵団敷地に仮埋葬され、船とともに沈んだ遺体はそのまま放置された」とある。舞鶴と平の旧海兵団はどちらもいまとなっては中に入れないし、おそらく当時の痕跡など残ってもいないだろうが、わたしは両海兵団敷地、そして「大浦中学校の海寄りの畑」の三か所とも実際に埋葬されたのだ ろうと思う。
それらのすべてかは今となっては確認しようもないが、仮埋葬された遺体は後に掘り出されて火葬にされ、後にスクラップとして引き揚げられた船体から見つかった多数の遺骨と共に舞鶴の東本願寺別院で1955年まで保管されていたがその後、広島の呉地方援護局、東京の厚生省援護局とたらいまわしにされ、1971年から東京目黒の祐天寺で保管されていることが関係者の調査で判明した。1970年代に身元が判明した遺骨は韓国に返還されたが、身元不明の遺骨はそのまま残され、2010年に身元不明のまま残りの遺骨も韓国へ返還されて無縁仏のまま忠清南道天安市の「国立無縁墓地・望郷の丘」に安置された。
のちに1980年代になって「発見」された犠牲者の名簿(大湊海軍施設部による「浮島丸死没者名簿」のガリ版刷り写し。日本政府は一貫して名簿は存在しないと言っている)は「浮島丸事件の記録」巻末に収録されているが、その多くは創氏改名された日本名が多く、元の朝鮮名は書かれていない。以前にピース おおさかで見た戦後樺太に残された朝鮮人がつてを頼って見つかった唯一の親せきと電話で会話した際に「日本名は分からない、朝鮮名を言って」と言われていたが、創氏改名された日本名だけでは朝鮮側の遺族の手掛かりにもならない。
海の見える場所に停めた車の中でスーパーで買った昼食を食べてから、いよいよ浮島丸殉難の碑を目指す。
引揚者でにぎわった平の入り江を巻くようにして、ひなびた海岸線をミヨ崎灯台から佐波賀の集落へすすむ。記念館から車で十数分ほ ど、上佐波賀、下佐波賀の集落を過ぎて、夏は賑わうのだろう牡蠣小屋を過ぎたあたりの海の前の小さな棚地にその公園はあった。スピードを出していたら気づかずに通り過ぎてしまうかも知れない。
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