見出し画像

川越まつり


 久しぶりに感じた肌寒さに身を震わせながら、久しぶりに川越の街を歩いた。もうじき闇に包まれる暮れの空は灯ったばかりの街灯たちに反発するようにその闇を強めている。
 川越駅を降りた時から奇妙な胸騒ぎが止まなかった。子供のときのお祭りの日のことを思い出しても平穏は訪れず、人混みの中、溢れるばかりの感動を抑えることで精一杯だった。

 2022年10月15日・16日。埼玉県川越市にて、川越まつりが三年ぶりに開催された。

 まだ完全にコロナ禍が収束しない中での開催だったので、細かいことを言えば完全なものではなかった。駅前からずっと立ち並ぶ露店は出ないし、例年の八割くらいの人出だったように思う。そんな状況でも感動できた。
 鼓笛の音に包まれた、賑やかかつ騒がしい川越を久しぶりに見た。昔ながらの娯楽が歴史の街を大きく包んでいる。山車やそれを曳く人、それに乗っている人、そして僕を含めた数多の見物客までもがまつりを構成していた。
   終始、色んな言葉や感情がこぼれていたが、この日見た光景に圧倒され「ああ、」とか「おおっ、」の言葉にしか化けなかった。


八幡太郎(源義家)の山車とそっぽを向いた信号機

 信号機よりも高い山車が街を闊歩している。歴史上の人物や神話上の人物が頂上にいる山車が何十台も行ったり来たり。笛や太鼓の音と山車を曳く人々の掛け声開催される二日間、山車が通る道の信号機は横に曲げられる。こういう信号機は京都にも似たようなものがあるそうだ。祭りのために行政がこしらえた工夫に、お祭り好きの国民性を垣間見た。

 17:30。秋の日は釣瓶落とし、というように急に闇が空を包んだ。この日の川越は青空の中を分厚い雲が覆っていて、秋独特の淡さを見せていた。それが夕刻になっても続き、思っていたよりも暗い空が出来上がっていた。蔵造りの街並みにほんわかとした街灯が灯る。静まった空と相変わらず賑わいがおさまらない地上の対比が面白かった。
 闇の中を山車が通りぬける。僕も含めた通行人はそそくさと端に追いやられる。この日ばかりは何よりも山車が偉いのだ。
  相変わらず胸騒ぎが止まない。前回のまつりから3年経っているせいなのだろうか。例年「花より団子」状態だったくせに、今年ばかりは「花」の部分ばかり見ている。本川越の駅前で食べた串焼とコエドビールでお腹の方はいっぱいだった。露店が少ないことが心配だったが、そんなことはどうでもよくなっていた。以前あった飴細工の屋台も、蓮馨寺のお化け屋敷もない。そんな不満はお祭りの雰囲気に見事かき消されていった。

旧埼玉りそな銀行川越支店の建物と幸町の山車


  この行進は喩えて言うなら百鬼夜行。てっぺんには無表情な人形。真ん中にはお面を被った人が踊っている。楽しさと不気味さが同居しているようだ。

「ひっかわせ」


  川越まつりでは「ひっかわせ」がある。交差点などで山車と別の山車が出会ったときに互いにそれぞれの囃子と踊りを競い合うことだ。囃子と踊りのMCバトルみたいなものだ(ちなみにそこに勝ち負けはない)。2種類のお囃子のマッシュアップがお祭りの雰囲気をより濃くさせる。互いが互いにつられることなくそれぞれのビートを刻んでいる。
  ひっかわせを観ている間、何も言葉が出てこなかった。口をポカンと開けていたままだったと思う。上手い表現ではないかもしれないが、「その空間に飲み込まれていた」。意識は山車と山車の間に吸い取られていたし、そこから身動きがとれなかった。山車が立ち去り、元通りの人混みになってようやく魔法は解けた。
 慣れない「非日常」に身も心も疲れたが、同時に興奮が冷めないでいた。変なアドレナリンみたいなものが出ていたように思う。
「でも、3年前までこれが日常の一部だったんだよな」
 この3年の月日で、「日常の中の非日常」が「完全な非日常」までになってしまった。いずれにせよ楽しいから問題は無いのだが、非日常の性質が変わったことに少しばかり戸惑った秋の夜長なのだった

サポートありがとうございます。未熟者ですが、日々精進して色々な経験を積んでそれを記事に還元してまいります。