パラダイムということ

トマス・S・クーン(イアン・ハッキング序説)『科学革命の構造』青木薫訳 みすず書房

パラダイムとか通約不可能性とかよく使われる割に概ね間違われる(というか科学じゃないところに使われる)可哀想なクーン。
とか言いながら、読みながら再認識したのは、ぼくも主に文学に敷衍して、「通常文学」の最先端でパラダイムシフトするような作品が読みたい、と思っているのだなということでした。
そもそも「通常文学」ってなんだ?ということで、ぼくは何十年にもわたって、あちこちでずっとこんなことを言い続けている。

セシリア・ワトソン『セミコロン』の感想

私は制約の中で徹底的に明晰であろうとして挙句に制約を壊してしまうような言語表現こそがわざわざ書くに値するものだと思う。そうしてこそ、その制約が本当に「制約」なのだとわからせることになると思っているから。

マキューアン『愛の続き』の感想

マキューアンのすごいところは、ポストモダンが無闇に難解な文章で作品を「理解させない」ことで深淵な何かを表現しているかのように見せかけるのに対して、底が浅く物語に依存したエンタメと批判される危険など一切考えず、徹底して「理解できる」文章だけを書き、本当に「理解できない愛」の本質に突っ込んでいく計算づくの無鉄砲さだと思う。それは病と区別できないほど他人には理解できない孤独な状態なのだ。


ペレック『傭兵隊長』の感想

後々の遊戯性を思えばどストレートな豪速球。やはり若書きでしょうか。『美術愛好家の陳列室』が虚実を精魂込めて混ぜ合わせた面白絵画小説なら、『傭兵隊長』は実のために虚に飛び込むと、間違いなく間違い、失敗するべくして失敗することを身を持って示した小説かな。だから、技巧と論理を凝らして突き詰めたあげくに瓦解してしまう失敗小説が大好物の私には大変面白かったのであります。


奥泉光『葦と百合』

ミステリ仕立てで真相を複数錯綜させ現実など存在しないと思わせようとするのはいいのですが、何で最後の百合の章があんなに夢のような文章になるのか。そこが分からない。夢も現実も虚構も同じものだと夢のように語られてもいまいち。論理をとことんまで貫いて破綻する小説が好きな者としては非常に不満なのでした。

その他、「瓦解」で検索しただけで、ツイッターで同じようなことを何度も呟いていた。

ぼくが読みたいのは、句読点の一つまで全て支配しようとした挙句、最後に瓦解するようなやつなのよね。

狂えず正気で論理から逃れられず、とことん真理を追い詰めて最後に瓦解する物語が読みたい。

小説であれ何であれ、そうやって理詰めで書かれたものが最後に瓦解するさまを見たい。その最後に残る「理」ではない上積みさえ見届ければもう思い残すことはない気もする。

それでもわしは、言語化しようと極限まで突き詰めて瓦解したものが「アート」だと思うわけですわ。

つまり、手持ちの文学言語では足りないという意思で最初から緻密さを捨てるような奔放な実験的作品ではなく、手持ちの言葉(理論、装置、パラダイム、…)を、誤差を許さないような緻密さで徹底的に突き詰めて、あげくアノマリー(説明できない、表現できない、異常さ)が現れ、その「パラダイム」が瓦解して、だからこそもしかしたら何か別のものが現れるかも知れない、という期待が残る作品が読みたいのです。

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