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観自在

先月の春節に入る前、新型コロナウィルス肺炎のニュースが日本にも深刻さを伴って伝わるようになった頃、武漢の都市が閉鎖となり住民の出入りが制限されたとの報道があった。
朝のオフィスで、各チームが朝の打ち合わせをしていた際、そのことが話題に上った。さすが中国、一党独裁制国家はやることが違う、でもこの状況ならそんな措置も致し方ないのかもしれない、自体はそれほど深刻なのか、と私を含めた皆それぞれ「うわぁ」とうめいたが、その中で

「そんなん、かわいそうや。」

と呟く声がはっきり聞こえてハッとした。
その、まず当事者個人に思い致す素朴な同情は、私のこのいろいろ言いたいことの詰まっていたはずの「うわぁ」に含まれていただろうか、とおもう。私には、「武漢の人たち」というか一塊しか見えていなかった。

事象を緻密に構成する要素をつぶさに見ということ、目に見えるものの解像度を上げるというのは、なかなか難しいことだと思う。情報量や感情移入の度合いにもよるのかもしれないけれど、もしかしたら「観自在菩薩」というのはそういうことなのかもしれないと思った。
昔から「自在に観る」ということはどういう状態なのだろうと思っていたが、そういう働きなのかもしれない。観自在菩薩、つまり観音菩薩は、阿弥陀如来の脇侍であるが、阿弥陀如来の「妙観察智」という物事を正しく観る智慧に基づく衆生救済の顕現である。ちなみに、菩薩というのは人の間にあり、やがて悟りを得て仏となって衆生を救うために修行中の身であるのだという。

あの朝の一瞬は、菩薩との邂逅だったのかもしれない。

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