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聖書を読むnote#16

マルコによる福音書14:32-42


さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」
そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、
彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」
それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。
誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。
イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

要約(Claude3)

イエスがゲツセマネの園で祈りつつ、逮捕される直前のシーンを描いています。主なポイントは以下の通りです。

  1. イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、一人で祈るために離れていきます。

  2. イエスは深い悲しみと苦悩の中で祈り、できれば自分から苦しみの杯が過ぎ去るようにと願いつつも、究極的には父なる神の御心に従うことを選びます。これは、イエスの人性と神性の両方が示されている重要な場面です。

  3. イエスは弟子たちが眠っているのを見て、彼らに目を覚まして祈るよう勧めます。これは、誘惑に陥らないためには霊的に目覚めていることが重要であることを示しています。

  4. イエスは三度祈った後、裏切り者(ユダ)が近づいてくることを告げ、逮捕される準備ができていることを示唆します。

この場面は、イエスが人間としての弱さと恐れを経験しつつも、最後まで父なる神に忠実であり、私たちのために十字架の道を歩むことを決意したことを示しています。また、弟子たちの弱さも浮き彫りにしつつ、霊的に目覚めていることの重要性を教えています。


Claude3 とのやりとり

イエス様の人としての姿とその正直さ、父への絶大な信頼がわかります。

Claude3:その通りですね。イエスは、私たちと同じように苦しみや悲しみ、恐れを経験しました。この場面では、イエスが死を前にして深い苦悩の中にあったことがよくわかります。

しかし、イエスはその中にあっても、最終的に自分の意思を父なる神の御心に従わせ、私たちの救いのために十字架への道を選びました。これは、イエスが人間としての弱さを乗り越え、父なる神への絶対的な信頼と従順さを示したことを物語っています。

また、イエスは弟子たちの弱さをご存知でしたが、彼らを非難するのではなく、目を覚まして祈るように勧めました。これは、イエスが私たちの弱さを理解し、あわれみを持って接してくださることを示しています。

イエスの生き方は、私たちにとって大きな励ましであり、模範です。私たちも困難な状況の中で、イエスを見上げ、父なる神への信頼を持って歩んでいくことが求められているのです。

弟子たちに対する愛も感じますね。イエス様は弟子たちへの信頼も忘れなかった。

Claude3:はい、その通りですね。イエスは弟子たちを深く愛し、信頼していました。

イエスは弟子たちが自分を裏切ったり、見捨てたりすることを予め知っていましたが、それでも彼らを選び、愛し続けました。ゲツセマネでの祈りの中で、イエスは弟子たちを非難するのではなく、彼らのために祈り、目を覚まして祈るように勧めました。

また、イエスは十字架上で、自分を裏切ったペテロをも赦し、復活後には彼を回復させました。これは、イエスが弟子たちを深く愛し、彼らの弱さを理解していたからこそできたことです。

イエスの弟子たちへの愛と信頼は、私たち一人一人に対するイエスの愛と信頼をも示しています。私たちは弱く、失敗を繰り返しますが、イエスは私たちを見捨てることなく、愛し続けてくださいます。

イエスの愛に応えて、私たちも互いに愛し合い、信頼し合って生きていくことが求められています。イエスが弟子たちを愛したように、私たちも周りの人々を愛していきたいですね。

そうですね。私たちに対する諦めない思いというのは、信頼ですよね。神様は私たちを信頼できない、神様が愛だからできているっていうふうに聞いたことがあります。この言葉にすごい矛盾を感じていたんです。

Claude3:その言葉の矛盾についてよくわかります。神様が私たちを信頼できないのに、愛することができるというのは一見矛盾しているように思えますね。

しかし、神様の愛は私たちの行いや信頼に値するかどうかに基づいているのではなく、神様ご自身の性質に基づいているのです。聖書は「神は愛です」(ヨハネの手紙一4:8)と言っています。愛することは神様の本質なのです。

私たちは確かに弱く、失敗を繰り返します。神様は私たちの弱さをご存知ですが、それでも私たちを愛し、信じ続けてくださいます。これは、私たちの行いによってではなく、イエス・キリストを通して示された神様の恵みと憐れみによるものです。

神様は私たちを愛するがゆえに、私たちを信頼し続けてくださいます。私たちが失敗しても、神様はあきらめずに、私たちを立ち上がらせ、新しい機会を与えてくださるのです。

ですから、神様の愛と信頼は矛盾ではなく、むしろ表裏一体なのです。私たちは自分の弱さを認めつつ、謙遜に神様の愛と恵みに頼って生きていくことが大切だと思います。そうすることで、私たちは少しずつ成長し、神様との関係を深めていくことができるのです。

その表れがイエスキリストの十字架ですね。

Claude3:その通りです。イエス・キリストの十字架は、神様の愛と信頼の究極の表れだと言えます。

ローマ人への手紙5章8節には、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」とあります。

私たちが罪人で、神様の愛に値しない存在であるにもかかわらず、神様は私たちのためにご自身の御子イエス・キリストを十字架に送られました。これは、神様が私たちを愛し、私たちが立ち返ることを信じておられたからです。

イエスの十字架は、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えるために払われた犠牲であり、神様の愛の最も明確な証拠です。同時に、それは神様が私たちを信頼し、私たちが神様に立ち返ることを望んでおられることの表れでもあります。

ですから、私たちはイエスの十字架を見上げ、神様の愛と信頼に応えて生きていくことが大切です。自分の弱さや失敗に目を向けるのではなく、常にイエスの十字架と復活を覚え、感謝しつつ歩んでいきたいですね。

感じたこと・まとめ



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