ホラー以外のすべての映画(5) 影の軍隊

『CURE(治癒)』と名のつく二つの映画について語るうえで、それがいかなる症状あるいはいかなる傷への「治癒」であるかについての分析を避けて通ることはできない。たとえば小津安二郎の『晩春』に登場する通勤者の男たちが、まるでその身体に記憶された戦中の兵隊としての身振りを意識することなく思い出したかのように不可視の列車を見つめるその視線が決まって同じ方向へと伸びるのを、アントニオーニの『欲望』(1967)の最後に登場する道化師たちのボールのないテニスのパントマイムと同一視することは必ずしも正当ではないが、両者がいずれもサラリーマンあるいは道化師という共通の肩書きを持つ者たちの身体に刻み込まれた「自動化されたモダンな」それの実演であることを確認することはこの試みにいくらかの見通しを与えてくれる。加えてその、同じ見えないなにかを共有する視線を捉えんとする試みが過度に行き過ぎたその先にやがてスティーブン・スピルバーグの『1941』(1979年)というひとつの戦争映画が到来することになるのだが、そこでは小津の通勤者たちに比べればいささかも兵隊らしくないこのスピルバーグの兵隊らつまり、意中の女を口説くために運転できない飛行機の操縦桿を握る男や、女を巡って争いを巻き起こす軍人とダンサーという二人のアメリカ人、自軍の機体を撃ち落とす間抜けな将校、勝手に戦車を運転して砲弾で自宅を破壊する民間人といった映画の登場人物たちはいずれも、「ジャップ」という見えない敵を味方と見間違えることに端を発した自覚のない同士討ちの劇を繰り広げ始めるや否や、その滑稽な不幸の連鎖から逃れられなくなる。あるいはそれは愛国心の名のもとに、兵隊たちの職業的領域が一般人に侵食されつつあることに起因するモダンの失敗にこそ原因があるのかもしれない。ともあれ、こうした不幸は、「ジャップ」の側とて決してこの愚行の例外とはならず、故障した羅針盤を手にしたまま航路に迷い、潜水艦に同乗したドイツの軍人には「ドイツならそんなものは小学生でも使える」と罵られるべき失態を演じるのだけれど、問題の本質は彼らが羅針盤を扱えないことにあるのではなく、むしろその目で直接見ることの不可能な目標を文字通り盲目的に追いかけてしまう事態、すなわち間接的な知覚への過信、道具の過剰およびシステムの過剰に起因する直接的な身体感覚の欠如とも呼ぶべき事態にこそあると指摘せねばならない。つまり、スピルバーグの兵隊たちは、小津やアントニオーニの職業人たちと同じように見えないものが見えるかのように振る舞いつつも、実は何も見えてはいないことに気づかない素人でもあるせいで、モダンな身振りは空振りに終わり互いを傷つけ合う同士討ちの狂乱へと陥らざるを得なくなったのだ。だからこそ、それはもちろん昼間ではなく「ある夜の出来事」でなければならなかったし、同時にまたミュージカルシーンで華奢なダンサーの青年が音楽の鳴っている間だけ、ストレートな戦闘では敵うはずのない恋敵の軍人をうちのめすことができたのも、いかにそのダンスホールを照らすライトが明るいかに関わらず、ただそれが「今ここ」のリズムに合わせて踊り続けることが聴覚的な共時性だけを唯一の頼りにして動き続ける術を心得た者の特権だったからにほかならない。そしてなによりも同じ職業を共有するものたちが暗黙のルールのうちに漂わせる視線の方角の共有によって出現させられるただひとつの見えない時計と呼ぶべきモダンな現象はいまや不可能となり、もはやその機能を持ち得ない視線を放棄するとともに常にリズムもテンポも変容しうる複雑な騒がしい音楽に合わせて暗闇の中でダンスを踊り続けることだけがほとんど唯一有効な対抗策になる時代とは1941年の戦時のアメリカなどでは決してありえず、1950年代以降の後期資本主義における消費経済がもたらした物語の反乱の戯画でなければならなかったし、映画の中で見かけ上は米軍と日本軍とのありえない本土決戦かのように見えるものはその実、消費社会の進展を一通り経験したアメリカがこれからバブル経済を迎えようとする日本との間に予感する経済戦争の予感にちがいなかった。こうしてやっと「1941」という偽のタイトルに、「1979」という真のテーマが隠れていたことに気づいたわれわれは実際の本土決戦など存在せずとも、見えないものを見えると信じつつ何も見えていない者たちが互いの物語のために互いの時間を、互い自身を奪い合い侵し合う「時間戦争」の正体を突き止めるに至るのだ。

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