アピチャートポン・ウイーラセタクン『メモリア』から(1)

 始まるや否や真っ暗闇に人影、それからバンッ! 心臓に悪い破裂音は、心地いいとも神秘的とも言い難い。はっきり言って不快な「ノイズ」。しかし、残念。重要な舞台装置であるこの音がいつどこから鳴るのか、あと2時間半おびえつづけなければならない。
 どこからともなく聞こえるこの大きな音にある日突然苛まれ始めたのは、コロンビアのメデジンで花屋を営むジェシカ(ティルダ・スウィントン)。はたしてそれへの対処法なのか、見知らぬものへの好奇心からか、音響技師のエルナンにこの音の再現を依頼することになる。映画はここから。彼女がみまわれる不思議なしかしとりとめもない体験の断片をたどたどしく拾い集めることになるのだが、集めたところで果たしてこれはいったいなんの話だろうとなる。『メモリア』という謎めいたひとつの映画を読み解く鍵は、まずこのバンッ! が善きものか、あるいは悪しきものかという問うてみることにあるのかもしれない。

 エルナンに破裂音の再現を頼んだり、入院した妹を見舞ったり、アマゾンのトンネルで発掘された6000年前の遺体を研究者に見せられたり。意味があるのかないのかもわからないジェシカの体験は先にも述べたように一言で、こうだとはなかなかまとめづらい。そこで話を区切る目安として「エルナン」という謎めいた人物の「登場(消失)」に合わせて映画を三部構成としてみよう。するとこのエルナンには、「音楽」という重要なモチーフが紐づいているとわかってくる。

 第一部では、先に述べたように映画の音響技師としてはたらくエルナンのもとにジェシカが破裂音の再現を依頼するために訪れると、彼はレコーディングスタジオらしき場所で、ヒーリングミュージックのようなものの編集に勤しんでいるのだが、注目したいのは、第一部においてこれが唯一、音楽の流れる場面であることだ。
『メモリア』という映画自体には雨音、カフェの客の話し声、道路の往来といった繊細に録音され、場面に配備された環境音が散りばめられているものの、こと曲と呼ぶべき「音楽」に関してはこのレコーディングスタジオのシークエンス以外では聞かれない。
 もう一つ一層興味深い場面があるのだが、ジェシカから聞いて再現した破裂音をもとにつくったという曲を携えて今度はエルナンが彼女に会いにくるところでは、その曲をジェシカがヘッドホン越しに聴くために、観客にはそれがどのような音楽なのか決して全要を明かされることはない(あるいは別の場面で流れるどれかがその音楽かもしれないのだが)。どうしてこの映画はこれほど「音楽」を避けるのだろう。

 第二部は、入院していた妹の退院記念の食事会で幕を開ける。物語の展開という意味では、「音楽」のことは一旦置いておいて、妹が病院で交わした会話の内容をほとんど覚えていないこと、会話の中で示唆される事実関係の食い違いが、まるでジェシカがこの世界と実によく似たもう一つの別の世界に迷い込んだかのように見せられることが重要だろう。そして、並行世界への渡りの目印に、例の破裂音が景気よく5回も打ち鳴らされる(この演出はもう一度ある)。
 ジェシカの反応はまた、それがこの世界で彼女(と映画の観客)にだけ聞こえるもので、妹や他の家族には感知されないものであることもこのシークエンスで示されるのだが、世界の変化はそれだけに止まらない。直後のシークエンスで件の録音スタジオを訪れたジェシカは、エルナンという人物がただいなくなったのみならず、そこで働いていたという存在の痕跡まで、この世界から完全に抹消されてしまったことを知らされる。建物内を歩くうちに、彼女は別の部屋で四人編成のバンドに遭遇する(ジェシカがとりわけ驚いて反応するので、この曲がエルナンがつくって彼女に聞かせた曲である可能性がある)。
 つまり、第二部とはエルナンの消失と音楽の復活にまつわる章なのだ。
 復活はさらに続く。広場のベンチに座るジェシカは、夕間際のカフェから流れる音楽に合わせて踊る若者たちを目にする。そして映画の観客には定かでないが、隣に座る女性に遠くから教会のベルが聞こえるとして、とりわけそれが不快であると表情を歪ませる。『メモリア』という映画はそれまで避けてきた「音楽」が復活すると今度はそれを厭いはじめるのだ。

 第三部。エルナンに関する章立てなので、消えたエルナンが現れるのだが、少々先になる。川原を歩くジェシカが再びあの破裂音を5回続けて耳にする。それから小川の対岸で魚を捌く中年男を見つけ、歩み寄って彼と会話を始める。男は、自分には石を始めとした身の回りのものの「波状」を取り込んでその記憶を読む特殊な能力があるのだと自分の特殊な能力について告白する。たとえば手近な石を拾い上げ、それがある痴話喧嘩の果てに投げられたものであることを、その喧嘩を再現しながら教えるのだ。まるで静かな落語である。
 また、さまざまなものことを感じ取りすぎるこの男は、「経験は有害だ」と言って、旅行をすることも、テレビを見ることも避けて暮らしてきたという。ここで男が避けてきたテレビの要素として「ミスユニバース」や「料理番組」「スポーツ」と並べて挙がるのが「音楽」なのだ。そして彼は「エルナン」と名乗る。

 映画はここからジェシカと、最初の若い音響技師とは似ても似つかぬ中年のエルナンの重々しい神秘体験の上演へと至る。老エルナンは「私は「ハードディスク」で、きみ(ジェシカ)は「アンテナだ」と語り、自分の蓄えた幼少の記憶をジェシカに聞かせる(観客もこれを追体験する)。そしてジェシカの聞く破裂音がアマゾンに不時着したUFOの(エンジンがついているとしてだけれど)エンジン音のようなものであること、こうした「音」が古代の生活や、超常現象や、天変地異と連想的な関係を持つことをモンタージュが示唆して映画は終わる。

 要するになんの話だったのか。音楽は悪いもので、破裂音が代表する「ノイズ」や過去の記憶の「環境音」は善いものである。そしてその不思議な体験を知覚することができるジェシカは特別な人間であるという話なのか。まるで、ミニマルゆえにバトルしない超能力バトル漫画ではないか。要はX-MENのような話なのか。と、こうまとめることができるかもしれないし、たぶんできると思いつつ別の疑問も持ってしまうのだが、では、なぜこのようにミニマルなのだろうということがもう少し大事なはずなのだ。

『メモリア』のWikipediaを辿っていると、興味深い記述がいくつか見つかる。そこにはアピチャートポンが刑務所や病院に取材をして本作をつくったということ、ある批評家が、病と芸術家にまつわる自伝的な物語を描いたアルモドヴァルの『ペイン・アンド・グローリー』にある耳鳴りのモチーフを引き合いに出してこの映画の話をしていることである。

確かに、『メモリア』では、破裂音を気にしたジェシカが医者にかかるシーンがある。担当医はこれを、高い標高に起因する耳の不調、まさしく耳鳴りの類だと診断して、ジェシカは不調を抑えるために彼女に抗精神薬(別のシークエンスでこの薬をジェシカは老エルナンにすすめる)の処方を頼むという展開が用意されている。つまり、科学の側はこの古代や異世界からやってくる破裂音、かもしれないものを個人的な身体の異常として診断する。しかし、そのジェシカ本人にしか感じることができない主観的な、内的感覚は実はもっと遠いところからやってくるなにかかもしれないというのがこの映画の語りなのだ。
さらに、これが一番重要なことなのだが、このジェシカの内的感覚が映画として観客に、(登場人物の誰でもなく)観客だけに共有されるという語りを映画は採用していることだ。
出世作『ブンミおじさんの森』は病によって一人の男に死期が近づくと、この世界にいろいろと不思議なことが起きるという話の映画だった。こんなに簡単にまとめてはいけないのかもしれないけれど、この映画で一番不思議なこととは、本来相反する生と死を必ずしも分けられないものだと示すことだった。そしてその不思議な曖昧さは、身体の異常、病としてやってくる。

病の症状とは個人的にしか共有できないものだ。誰かに自分の痛みや空腹や吐き気は体験させられない。では、耳鳴りはどうだろう。その内的感覚を抽出して共有し、意味を与えること。アピチャートポンはそのような試みのために映画の語りを使ったのではないか。現にそうして上映されることで、映画館は、その観客はジェシカというたった一人の女性の内的感覚に、つまり彼女の内蔵器官にうつし変えられる。

これを映画の演出の言葉にパラフレーズしてもう一度まとめ直しておこう。つまり、本来不快であり、また他人と共有不可能な病の症状「ノイズ」は私たちの認知に馴染みやすい音楽と対立する。しかし、音楽を否定する映画の語りは「ノイズ」が個人的な内的感覚ではなく、どこかとても時間的にも空間的にも遠い場所のサインに変えて、映画はそのような存在を知覚する特別でバーチャルな内蔵器官になる。

そのような語りが、映画における音響の可能性として示されたことは大変興味深い。たとえばこのような演出効果の効能がいかなるものか、ゴダールや清原惟やデヴィッドリンチの作品とより詳細に音響演出を比較検討していくとはおそらく可能だけれど、そのうち続きを書くかもしれない。

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