『ヘイトフル・エイト』はタランティーノの集大成

(※ネタバレ)

 クウェンティン・タランティーノはIQが160あるらしい。それで、タランティーノの映画を見るたびにIQが測る知性とはどういうものなのかということを考えるのだけれど、タランティーノが喋っている様子を映像で見ると、IQの高さというのは思っていることを明確に喋れる能力ではないないかとたまに思う。それで、ある種の賢さというのがはきはき喋ることだとするなら、それは他の種類の賢さをないがしろにしてしまうのではないか不安になることがある。

 タランティーノの映画のキャラクターはよく喋る。

 『ヘイトフル・エイト』は、最高傑作ではないにしてもタランティーノ映画の集大成だろう。それはこの作品がこれまでで最も明確にタランティーノの言い分をはきはきと反映して見えるからだ。

 タランティーノはとても政治的な映画監督だ。『デス・プルーフ』(2007)は女が男をボコボコにする映画、『イングロリアス・バスターズ』(2009)はユダヤ人がナチスをボコボコにする映画、『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012)は黒人奴隷が白人をボコボコにする映画だった。彼は歴史や社会の中のマイノリティを代弁し、映画の中で彼ら彼女らの復習を請け負って暴力描写を行っていることを公言している。(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37298 )

 『ヘイトフル・エイト』の舞台は南北戦争直後の合衆国、ワイオミング州。吹雪をやり過ごすために山奥のダイナーに集った8人が腹の探り合いを繰り広げる。では、今度は誰が誰をぼこぼこにするだろうか。

 ゼロ年代には一時期、時間軸をばらばらにする脚本が流行った時期があった。『ペパーミント・キャンディー』(2000)のイ・チャンドン、『アモーレス・ペロス』(2002)のギジェルモ・アリアガ、『プレステージ』(2006)や『メメント』(2000)のジョナサン・ノーラン、『マグノリア』(1999)のポール・トーマス・アンダーソン、日本だと内田けんじやアニメ版の『時をかける少女』(2007)あとは『Re:プレイ』(2004)、『ジャケット』(2005)、『STAY』(2005)、『デジャヴ』(2006)ときりがないけれど、タランティーノの『パルプ・フィクション』(1994)はそれをかなり早い時期に試した。

 『パルプ・フィクション』のアイディアはおそらく題名通り(パルプ紙に書かれた娯楽小説)文学由来のものであったけれど、彼の作品が他の、脚本頼りの映画とは異なり、映画的な効力を発揮したのは、彼の映画がある種の「事件」を起点に構成されていたからだろう。今回の作品を見て、とりわけそう思う。

 『レザボア・ドッグス』(1992)では予期せぬ警察の襲撃に遭う宝石強盗が警察の内通者、犯人探しをはじめるところからはじまる。『パルプフィクション』の趣向はこうした予期せぬ襲撃を複数化し、同様の結果から原因をたどる「犯人探し」をミステリとしてではなく腹の探り合いのドラマとして描き出し、ひとつの事件が別のドラマをおびき出していちいち連鎖するように描きなおしたものではないかと改めて思う。

 タランティーノ映画の特徴のひとつはひどく長い台詞だ。いつまでもだらだらと続くおしゃべりは魅力的だが、魅力的な彼の創作するクセの強いキャラクターを演じる技量のある俳優を伴ってこそ、見ていられるものになるだろう。

 『ヘイトフル・エイト』を見ながら何度も『イングロリアス・バスターズ』(2009)の「第4章 映画館作戦」にあった不意打ちではじまる銃撃シーンを思い出す。タランティーノの得意な長ゼリフが一見無駄なように見えて、本当に無駄なものなのだと確信する。これは会話のための会話だ。そして、たいてい「事件」によって突き破れる。タランティーノは脚本を重視するがストーリーの要点は小道具やアクション、必ず動きによって展開するというセオリーは崩さない。会話というのはあくまで敵対者同士の停戦協定のようなもので、喋っている限りにおいて直接的な暴力は延期される。机の下に(あるいは床の下に)隠された銃はいつも、いつか溢れ出す暴力の兆しになる。事件はいつも偶然に起こる。それは、会話が作るその微妙な言葉の秩序が、なにかのタイミングで破られたとき事件が勃発する。むしろ、彼の映画を見ていると、暴力が常に人間の本性であるかのようにあらゆる穏やかな画面に潜在しており、ちょっとした事件をきっかけに表面化しているのだと思えてくる。無駄で退屈な会話が続く限り、キャラクターは暴力から守られている。

 『ヘイトフル・エイト』の会話シーンではそのことがこれまでになく明確だ。今回『デスプルーフ』『イングロ』『ジャンゴ』を経て、単なる無駄話ではなく黒人差別や南北戦争の対立関係、ミソジニーをふんだんに盛り込んだように見える。そしてここ3作品の「誰が誰を殺すか明確な作品」から、むしろ『パルプ』や『レザボア・ドッグス』(1992)のような「いつ誰が誰を殺してもおかしくない作品」に回帰する。単なるパルプの上のつくりごと以上に、今回は個々の登場人物が背負う歴史や立場が明確だ。

 『レザボア』しかり。時間軸を「遡る」ことはタランティーノ脚本の重要な要素だろう。退屈な会話を突然切り裂くように事件が偶然起こる。結果が最初にあり、原因が後付けされる。事件が起こってから、その原因究明が行われる。この趣向は彼が『イングロ』以降、時代劇に踏み入ったこととも相関する。歴史の中の事実(ホロコーストや、黒人のリンチ)にタランティーノは目をつけ、それを遡り原因を彼なりに究明し、歴史そのものを塗り替えようとさえする。この塗り替え方に彼なりのメッセージ性が表明される。今回、その歴史上の重大事件は南北戦争に設定された。

 先に例を挙げたギジェルモ・アリアガがアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥと組んでいたアリアガが『バベル』(2006)を作ったのはタランティーノの『イングロ』よりも3年早かった。時間軸をばらした脚本が国際的な状況を描くのに適するとイニャリトゥはいち早く気づくことができた。しかし、彼には映画にする能がなかった。タランティーノのほうはそうした様々な立場の人がひしめくグローバル空間こそ、すぐに事件を通じて、暴力のはびこる戦場になりやすいと洞察していた。

 『ヘイトフル・エイト』は、南北戦争直後のアメリカ、フロンティアという無法地帯、戦地のヨーロッパとはまた別の多様性サバイバル状況。自由の裏返しにある危険。そこに集まった人種や性別や政治志向のばらばらな8人。こういう国際色豊かな作品はアメリカ人にしか作れないと感じる。正直、人種差別や南北戦争の話は長々と話されても日本人としてあまりピンとこない。

 しかし、タランティーノのアクションの演出はとても優れている。反射神経がとてもいいのだ。彼の映画を見ていると、絶妙なタイミングで意表をついて銃撃が日常に混じる。さっきまでの退屈な会話シーンが恋しくなる。ウルトラパナビジョンの横長映像は会話する二人を同じ画面に並べて映し、安易な切り返しを多用しない。クロースアップを用いるのは、無言の視線を描く時、繰り返しの台詞で言葉よりもまた視線を強調する時、そして事件の発生後に阿鼻叫喚の表情を強調する時。

 彼の映画の魅力の一つが強烈なキャラクターの個性だと述べたが、個性の強いキャラクターというのはファンビジネスと不可分だ。しかし、キャラクターが客層を好みで分類することも彼はよく理解しているようだ。偶然の事件によって誰がいつ殺されてもおかしくない空間を作り出すことは、作り手自身がどのキャラクターにも肩入れしないことも意味する。

 今回の結末には、疑問がある。タランティーノは複数の立場のちがう人間が居並ぶ一触即発の状況を描いたこと、混沌をつくりだしたが放置せず物語としての責任を取ったこと、秩序が打ち立てられることを信じポーズだけでも法律の機能するエンディングを描いたことは賞賛したい。しかし、一貫して女を嘘つきの裏切り者として吊るし上げたのは、きまりがわるかった。『デスプルーフ』から彼が単なる女嫌いの作家ではないことは十分わかる。それでも今回に関してはジャンル映画の歴史に正しく従ったせいで、流行遅れな結末を選んだように見えた。『ヘイトフル・エイト』が洗練される一方ミソジニーを表明し、荒削りな『マッド・マックス 怒りのデスロード』のほうがラディカルなフェミニズムを表明するという事態は少々さみしい。

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