Things to Come ベルリン2016レビュー
元記事:http://thefilmstage.com/reviews/berlin-review-things-to-come/
writer: Giovanni Marchini Camia
以下、訳文
ミア・ハンセン=ラヴの映画はほとんど、人生の思いゆかなさとその中で登場人物がどう足掻くかによってできています。彼女の長編2作目『あの夏の子供たち』では、これは例外的な例ですが、雪だるま式に膨らむ負債に直面して鬱状態が進行していく映画プロデューサーが描かれ、そのあとに彼の予期せぬ自殺がその家族に及ぼした影響について考察が行われます。続く『グッバイ・ファーストラヴ』や『EDEN』でも彼女の失望は、主役がうまくいっている数年のうちに抱えてしまう理想主義の発展的崩壊が描かれます。それは前者では十代のカップルがする現実離れした夢想として、後者ではDJの怪物的な成功願望として表れます。おおざっぱに実話原作である前者と、監督自身の兄や、共同脚本家のDJとしての経歴を映画脚本化した後者2作品の相関性について考えたとき、新作『Things to Come』に描かれる多感な中年女性の受難劇の類稀な成功からは、35歳の脚本家兼映画監督が自分自身の経験から離れてストーリーをつくることに大変熟達してきたという事実がうかがえるでしょう。
イザベル・ユペール演じるナタリーは、パリの高校に務める哲学教師です。映画の設定の中で彼女は満ち足りて安定した生活を送っています。彼女の夫が別の女とともに彼女の元を去ったとき、それは全く彼女にとって予期せぬ出来事でした。「ずっと私のことが好きだと思ってたのに!こんなにバカなやつだと思わなかった!」と彼女は彼の不誠実を糾弾し、きちんとその出来事を受け入れられないくらいショックを受けます。災難は次々に舞い込みます。彼女の母が亡くなったと知らせが届きます。夫に捨てられ、親に先立たれ、成人した二人の子供と一緒に家を追い出された彼女はその25年で初めて完全に前後を見失ってしまいます。
こうして『Things to Come』はほとんど『グッバイ・ファーストラヴ』と相呼応するように展開しているように見えます。しかも『グッバイ・ファーストラヴ』の十代への痛烈な風刺は丸みを帯びて洗練され、決然として魅惑的な主役の再設定とともに描きなおされています。そして重要なことですが、ハンセン=ラヴには、若者たちの完全に膨れ上がったロマンチックな絶望を美化する慈悲がもうみられません。しかし、優しくない映画というわけではありません。まるで肖像画のように、ナタリーという人物像を信頼しすぎることもなく、彼女の苦難を強調しすぎることもしないのです。
ハンセン=ラヴが脚本に関してこんなにも強烈な登場人物を書くだけの安定感を持っているので、役のナタリーを女優、ユペールと重ねてみるのは難しいかもしれません。彼女自身、その演技能力が極めて高いことを見越しても、今回は最上級の演技を披露しています。彼女があまりにも自分に自信を持っているので、ナタリーの崩壊はゆっくりと進行するようにしか見えません。しかもユペールは、彼女の何もかもがうまくいく、という確信がぐずぐずとゆらめく様子と、ほんの数回垣間見えるような隠れた悲しみを同時に表現できるのです。この内面の葛藤は、ナタリーが彼女の母親の葬儀について司祭と口論する胸を打つようなシーンでとりわけ素晴らしく描かれます。司祭の説教について書き入れるべき思い出や逸話というのをたくさん持っているにもかかわらず、彼女の表情や声色は全く変わらない。彼女は完全に穏やかな表情のまま静かに涙の雫だけが彼女の顔をつたい、まるで自分自身では泣いていることに気づいていないかのような表情を呈します。
ナタリーは自分の愛する哲学書に心の支えを探します。そしてこれが実に脚本に有効作用します。同時にキャラクター同士の関係に対する理論的な熟考が、珍しい状況を作り出します。そのほんの一瞬、作品全体をとらえる注意深い語りの調子が失われるのです。高らかに哲学者についての言及や引用が行われるとき、それを通してナタリーの状況が表されたり注釈が加えられたりするのだが、それはいつもぎこちない調子で達成されます。(もしもクレール・ドゥニの傑作『35杯のラムショット』で似たような会話がうまく作品を統一できていなかったとしたら、映画作家たちはそのような手法から完全撤退するべきでしょう。)。
他の幾つかの象徴的な要素についても同様のことが言えます。母親からナタリーが譲り受ける猫のパンドラは、10年も屋内で飼いならされていたにも関わらず、田舎に出るやいなや、すぐにまたネズミを捕れるようになります。このような象徴性は、とりわけハンセン=ラヴがそれなしでは済まないとはっきり示しているときほど、明確且つ冗長に表されます。夫がいなくなるのに続いて、ナタリーのアパートの壁を隅々まで埋め尽くしていた溢れ出しそうな本棚が突然半分空っぽになります。こうした演出は突然に、いくつものショーペンハウアーの引用や意味ありげな名前の猫の活躍以上の饒舌さを発揮するのです。幸運にも、このようなわかりやすい表現への脱線は例外的で、映画の最後でカメラはゆっくりとナタリーの新しい心の平穏を眼差したまま交代していきます。それを見た観客は、一時的な移行期を経てその人の本当の姿というのが完成されたような印象を受けるでしょう。
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